Share

第20話 狼の巣へ

last update Last Updated: 2025-08-21 20:55:35

 ライナスが部屋を出て行った後、セレスティナは一人、静寂の中に残された。

 彼の最後の言葉が、耳の奥で何度も反響する。

『お前が、使えるからだ』

 それは、彼女が心のどこかで求めていた答えであり、同時に最も聞きたくなかった言葉でもあった。

 この男は、自分に同情や憐憫を抱いているわけではない。ただ、アルトマイヤー家の令嬢という出自と、彼女が持つ知識に利用価値を見出しただけ。その冷徹なまでの合理性は、いかにも「狼」と呼ばれる彼らしい。

 セレスティナは、自嘲に近い笑みを浮かべた。何を期待していたというのだろう。あのような絶望の淵から自分を救い出してくれたからといって、彼が慈悲深い聖人であるはずがない。ここは血と裏切りが渦巻く辺境なのだ。感傷的な善意など、何の役にも立たない。

 だが、その一方で。

 利用価値がある、ということは、無力ではないということだ。

 罪人として全てを奪われ、ただ息をするだけの人形に成り下がっていた自分に、まだ「力」が残っていると、この男は言ったのだ。それは、父から受け継いだ知識であり、アルトマイヤー家としての誇りの残滓。

 ならば、利用されてやろう。

 この狼の力を、その牙を、存分に利用し、我が家を陥れた者たちに復讐を果たす。目的が同じであるならば、今は彼の駒になることも厭わない。

 セレスティナのすみれ色の瞳に、決意の光が宿る。それは、凍てついた大地に差し込んだ、一条の鋭い冬の光のようだった。彼女は、失いかけていた自分自身の物語を、自らの手で再び紡ぎ始める覚悟を決めた。

 その時、部屋の扉が、こん、こんと控えめに叩かれた。

 セレスティナがびくりと身を固くすると、返事を待たずに扉が静かに開き、一人の女性が入ってきた。年の頃は五十代だろうか。白髪交じりの髪を後ろで一つに束ね、侍女服をきっちりと着こなしている。その顔には皺が深く刻まれ、およそ愛想というものからはかけ離れた、厳格な表情をしていた。

「セレスティナ様、とお呼びすればよろしいですかな」

 侍女は、抑揚のない低い声で言った。その口調は丁寧だが、どこか事務的で、感情がこもっていない。

「私はマルタと申します。閣下のご命令により、貴女様のお世話をさせていただくことになりました」

 閣下。ライナスのことだろう。セレスティナは頷くことしかできない。

「まずは、お召し物を。それから、湯浴みの準備が整っております」

 マルタはてきぱきとした動きで、椅子の上に畳まれていた清潔な下着と、簡素だが上質な木綿のドレスをセレスティナに示した。その手際の良さは、長年この城で勤め上げてきたことを物語っている。

 セレスティナは、マルタに促されるままに寝台から降り、彼女の後に続いた。

 城の廊下は、磨き上げられた石でできており、ひんやりと冷たい。窓から差し込む朝の光が、廊下を明るく照らしていた。壁には華美な装飾は一切なく、ただ機能性だけを追求した、質実剛健な造り。噂に聞いていた「蛮族の巣」という言葉から連想されるような、薄汚れて血生臭い場所とは、あまりにもかけ離れていた。

 すれ違う兵士たちは、皆一様に屈強で、黒鉄の鎧を身に着けている。彼らはセレスティナの姿を認めると、一瞥をくれるだけで、特に興味も示さずに通り過ぎていく。そこには、あの町の役人や私兵たちが向けてきたような、侮蔑も好奇も存在しない。その無関心さが、かえってセレスティナの心を奇妙に安らがせた。

 湯殿は、城の少し離れた一角にあった。岩をくり抜いて作られたような、広々とした空間。湯船には、もうもうと湯気が立つほど熱い湯が張られており、硫黄の匂いが微かに漂っている。

「さあ、どうぞ」

 マルタはそう言うと、セレスティナの寝間着を脱がせるのを手伝い始めた。その手つきは、どこまでも無駄がなく、機械的だった。

 露わになったセレスティナの体は、痛々しいほどに痩せこけ、あちこちに痣や擦り傷が残っていた。マルタはその傷を一瞥したが、何も言わなかった。ただ、その眉間の皺が、ほんのわずかに深くなったように見えた。

 セレスティナが、おそるおそる湯船に足を入れる。

 その瞬間、熱い湯が、凍てつき、汚れきった体にじわりと染み渡った。

「……あっ」

 思わず、声が漏れた。

 何ヶ月ぶりだろうか、こんな風に温かい湯に浸かるのは。牢獄での冷たい水浴びとも、廃屋での寒さに凍える夜とも違う。体の芯から、ゆっくりと解きほぐされていくような、至福の感覚。

 それは、ただ体を温めるだけではなかった。凝り固まっていた心まで、その湯気がじんわりと溶かしていくようだった。忘れていた人間としての感覚が、一つ、また一つと蘇ってくる。

 マルタは、セレスティナの髪を丁寧に洗い、薬草の香りがする石鹸で、その傷だらけの体を優しく拭った。その手つきは、相変わらず無骨だったが、不思議な温かみがあった。

 セレスティナは、湯に浸かりながら、ぼんやりと思った。

 この城の人間は、皆こうなのだろうか。主であるライナスに似て、不器用で、感情を表に出さず、だがその行動の端々に、独特の規律に基づいた優しさを滲ませる。

 湯浴みを終えると、マルタは手際よくセレスティナの傷に新しい薬を塗り、包帯を巻き直した。そして、用意されていた清潔な下着と、濃紺のドレスを着せてくれる。それは貴族令嬢が着るような華やかなものではなかったが、上質な生地で丁寧に仕立てられており、今の彼女には十分すぎるほど立派な服だった。

 囚人服ではない、普通の服。その感触が、自分がもはや罪人ではないのだという事実を、改めて彼女に突きつけてくる。

「城の中をご案内します。貴女様が暮らす場所のことは、知っておくべきでしょう」

 身支度を終えると、マルタはそう言って再びセレスティナを伴って歩き出した。

 彼女たちは、城の主要な施設を巡った。

 広大な厨房では、多くの料理人たちが忙しそうに働いていた。調理されているのは、肉や野菜を煮込んだ、栄養がありそうな質素な料理ばかり。だが、そこには活気があり、衛生管理も行き届いているようだった。

 兵士たちの食堂は、長い木のテーブルがいくつも並ぶ、だだっ広い空間だった。食事の時間ではなかったが、何人かの兵士が武具の手入れをしたり、仲間と静かに言葉を交わしたりしていた。

 そして、城の中庭に設けられた、広大な訓練場。

 そこでは、数十人の兵士たちが、上半身裸で木剣を打ち合っていた。彼らの体は鋼のように鍛え上げられ、その動きは驚くほど鋭く、統率が取れている。響き渡る鬨の声、剣がぶつかり合う激しい音。その光景は、セレスティナに鉄狼団の圧倒的な強さの源を、まざまざと見せつけた。

 ここは、生きるための場所だ。生き残り、戦うための、巨大で、効率的な要塞。

 セレスティナがかつて知っていた、見栄と体裁で塗り固められた貴族の城とは、何もかもが違っていた。

 一通り案内を終え、マルタはセレスティナを最初の部屋へと連れ戻した。

「ここが、今日から貴女様の部屋になります。食事は時間になれば運びます。何か入用なものがあれば、私にお申し付けください。ただし、閣下の許可なく、この一角から出ることは許されません」

 淡々とそう告げると、マルタは無言で一礼し、部屋を出て行った。

 再び一人になり、セレスティナは部屋の中央に立ち尽くした。

 窓の外に目をやると、辺境の町と、その向こうに広がる荒涼とした大地が見渡せた。灰色の、絶望の色をした世界。自分は、つい昨日まで、あの世界の底辺で泥水をすすっていたのだ。

 彼女は、部屋の隅に置かれた姿見の前に立った。

 鏡に映っていたのは、もはや泥と垢にまみれた「人形令嬢」ではなかった。髪は銀の輝きを取り戻し、頬の腫れも少し引いている。清潔なドレスをまとったその姿は、やつれてはいるものの、紛れもなくアルトマイヤー家の令嬢、セレスティナ・アルトマイヤーその人だった。

 人間らしい姿を取り戻した。だが、そのすみれ色の瞳には、かつての幸福な光はない。あるのは、深い戸惑いと、恐怖と、そして新たに宿った復讐という名の、冷たい炎。

 ここは、狼の巣。

 そして自分は、その巣に囚われた、一羽の籠の鳥。

 だが、この巣は、自分が抱いていたイメージとはあまりにも違っていた。ここには、腐敗も、陰湿ないじめも、理不尽な搾取もない。あるのは、生きるための、そして戦うための、厳格な規律と、その下に流れる不器用な温かさだけだ。

 その全てを支配する男、ライナス。

 彼は一体、何者なのだろうか。ただの野蛮な狼ではない。かといって、慈悲深い英雄でもない。

 彼の真の姿が、セレスティナには全く見えなかった。その得体の知れなさこそが、新たな恐怖となって、彼女の心を掴む。

 この狼の巣で、自分はどう生きていくべきなのか。

 ライナスの駒として、ただ利用されるだけなのか。それとも、この場所で、何か新しい道を見つけることができるのか。

 答えはまだ、見つからない。

 セレスティナは、鏡の中の自分をじっと見つめた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第86話 隘路の罠-3

     森閑としていたはずの森が、突如として牙を剥いた。 木々の間から躍り出た鉄狼団と民兵たちの鬨の声は、混乱の極みにあった討伐軍の兵士たちの心を、いとも容易く砕いた。「な、側面だ! 側面から敵襲!」「陣形を組め! 立て直すんだ!」 将校たちの怒声が飛ぶが、それはもはや空虚な響きでしかなかった。先鋒の壊滅と退路の喪失でパニックに陥っていた兵士たちは、この予期せぬ奇襲に対応できず、ただ右往左往するばかり。そこに、死神の宣告が響き渡る。「そこをどけぇぇっ!」 ライナスが振るう巨大な戦斧が、人馬の壁を紙屑のように吹き飛ばした。彼の進む道には、凄惨な血の轍が刻まれていく。それはもはや戦ではなく、一方的な蹂躙だった。彼の背後から、ギデオン率いる鉄狼団が、まるで主君の切り開いた道を広げるように、的確に敵の陣形を切り崩していく。「怯むな! 敵は少数だ! 数で押しつぶせ!」 ベルガー元帥は、本陣で馬上で吼えた。彼は親衛隊を盾に、必死で崩壊する軍の統率を取り戻そうと試みる。だが、その試みは、森の地の利を最大限に活かした辺境軍の前に、ことごとく阻まれた。 討伐軍の兵士たちは、王都周辺の平原での戦いには慣れている。だが、複雑な地形、木々や岩陰から放たれる矢、どこから現れるか分からない敵兵、という不慣れな戦場では、その数の優位性を全く活かせなかった。「くそっ、これが辺境の戦い方か…!」 ベルガーは歯噛みした。敵兵の中には、明らかに正規の訓練を受けていない、農夫や猟師のような者たちが多数混じっている。だが、彼らの目には、故郷の土地を踏みにじる侵略者への、剥き出しの憎悪と決意が宿っていた。その気迫が、恐怖に駆られた討伐軍の士気を、さらに蝕んでいく。(それにしても…手際が良すぎる…) ベルガーは、自ら剣を抜き、襲い掛かってくる敵兵を斬り伏せながら、戦慄を覚えていた。 隘路への誘導、完璧なタイミングでの罠の発動、退路の破壊、そしてこの側面奇襲。その全てが、まるで一つの組曲のように、淀みなく、完璧に連動している。 ライナスという男は、確かに恐るべき武人だ。だが、この戦全体の構図は、

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第85話 隘路の罠-2

     三方を険しい崖に囲まれた鷲ノ巣谷は、天然の墓場だった。 空は狭く、切り立った岩肌が威圧するように迫ってくる。モーリス准将率いる騎士団は、辺境伯ライナスというたった一人の獲物を追い、何の疑いもなくその墓場へと足を踏み入れた。「逃がすな! あと一息だ!」 モーリスの怒声が、谷壁に反響する。彼の目には、前方を逃げるライナスの背中しか映っていなかった。その背中が、谷の最奥、行き止まりと思しき場所でようやく止まった。「もはや袋の鼠よ、反逆者め!」 モーリスは勝ち誇った。功績を独り占めする自身の輝かしい未来が、目の前にちらついた。 だが、振り返ったライナスの口元には、嘲笑が浮かんでいた。それは、罠にかかった愚かな獣を見下す、狩人の笑みだった。「鼠は、どちらかな」 ライナスが静かに呟き、右手を高く掲げた、その瞬間。 世界が、轟音と絶叫に包まれた。「な、なんだ!? 何が起きた!」 モーリスが空を仰ぐと、信じがたい光景が広がっていた。崖の上から、巨大な岩石や丸太が、雨あられと降り注いでくる。それは、地響きを伴う死の豪雨だった。「うわあああっ!」「伏せろ! 崖に張り付け!」 騎士たちの悲鳴が、岩の砕ける音にかき消されていく。密集していた騎士団は、格好の的だった。屈強な軍馬は頭を砕かれて嘶き、誇り高き騎士たちは、その白銀の甲冑ごと、巨大な質量によって無慈悲に圧し潰されていった。 後方からは、退路を断つように、火矢が降り注ぐ。あらかじめ用意されていたのだろう、油を染み込ませた枯れ木や獣脂に火がつき、谷は一瞬にして炎と黒煙に満ちた阿鼻叫喚の地獄へと姿を変えた。「罠だ…! 罠にはまったのだ!」 モーリスは、ようやく自らの愚行を悟り、恐怖に顔を引きつらせた。前後を岩と炎で塞がれ、上からは死が降り注ぐ。もはや逃げ場はどこにもなかった。 パニックに陥った兵士たちが、同士を押し退け、わずかな隙間を求めて殺到する。統率を失った軍隊ほど、脆いものはない。モーリスの騎士団は、敵と刃を交えることなく、自滅に近い形で崩壊していった。 その惨状を、ライナス

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第84話 隘路の罠-1

     辺境の空は、王都のそれよりも低く、重く垂れ込めているように感じられた。 鬱蒼と生い茂る木々は昼なお暗い影を落とし、岩がちな土壌は屈強な軍馬の蹄さえもてこずらせる。グスタフ・フォン・ベルガー元帥が率いる討伐軍の進軍速度は、王都を出立した頃の勢いが嘘のように、目に見えて落ちていた。「忌々しい土地だ。まるで獣の巣だな」 副官であるモーリス准将が、鞍の上で顔をしかめて吐き捨てた。彼の白銀の甲冑も、数日間の野営と悪路のせいで、もはや輝きを失い泥に汚れている。そのいら立ちは、彼だけのものではなかった。兵士たちの間にも、疲労と、そして姿を見せぬ敵への苛立ちがじわじわと広がっている。「斥候からの報告はまだか」 ベルガーは、険しい表情を崩さぬまま、低く問うた。彼の百戦錬磨の経験が、この不気味な静けさの中に潜む危険を警告していた。だが、その警告は、辺境の狼とやらに対する侮りによって、わずかに鈍らされていた。「はっ。先ほど戻った者の報告によれば、この先の谷筋に、敵が防御陣地を築いた痕跡があったとのこと。ですが、すでに放棄されており、もぬけの殻だったと」 モーリスの報告に、ベルガーは眉をひそめる。「またか。これで三度目だぞ」 ここ数日、討伐軍は何度も同じような状況に遭遇していた。敵が潜んでいそうな隘路や森に差し掛かるたび、斥候が簡素なバリケードや焚き火の跡といった、敵の存在を示す痕跡を発見する。だが、いざ軍を進めてみると、そこに敵の姿はなく、まるで幻を追いかけているかのような感覚に陥るのだ。「奴ら、我らの進軍に恐れをなして、後退を繰り返しているのでしょう。さすがの蛮族も、一万の軍勢を前にしては、戦う前から腰が引けているのです」 モーリスは、自信満々に言い切った。彼の目には、ライナス軍が恐怖のあまり逃げ惑っている姿が、ありありと映っているようだった。「だと良いがな」 ベルガーは短く応じたが、その心には一抹の疑念が渦巻いていた。 ライナス。戦場で功を立てただけの、平民上がりの男。その戦い方は、奇襲やゲリラ戦を得意とする、いわば野盗のそれに近いものだと聞いている。そのような男が、正面からの決戦を避けて逃げ回るのは、ある意味

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   # 第83話 傲慢なる進軍

     王都を発った討伐軍の進軍は、壮麗な絵巻物のようであった。 先頭を行くのは、王国最強と謳われるベルガー元帥麾下の重装騎士団。磨き上げられた白銀の甲冑は春の陽光を浴びてまばゆい光を放ち、馬蹄の響きは大地を規則正しく揺るがした。兵士たちの顔には一点の曇りもない。彼らにとってこの戦は、王家に弓引く不届きな成り上がり者を討つだけの、単なる武勲稼ぎの遠足に過ぎなかった。「元帥閣下。実に壮観ですな」 副官であるモーリス准将が、馬を寄せて得意げに言った。彼の若々しい顔には、貴族特有の傲慢さと、これから始まる戦への期待が浮かんでいる。「これほどの軍勢を前にして、辺境の狼とやらも震え上がって城に籠もることしかできますまい」「フン、城に籠もるだけの知恵があれば、の話だがな」 総指揮官であるグスタフ・フォン・ベルガー元帥は、鼻を鳴らした。彼は、歴戦の武人らしい厳格な貌を少しも崩さない。その瞳は、眼前に広がる平坦な街道の、さらにその先にある辺境の山々を侮蔑の色を込めて見据えていた。「所詮は戦場で運を拾っただけの平民だ。正式な軍学も知らぬまま、己の力を過信しているにすぎん。あるいは我らの威容に恐れをなして、尻尾を巻いて逃げ出すやもしれんぞ」「ははは、それはあり得ますな。そうなれば追撃も一苦労でございます」 モーリスは楽しそうに笑った。周囲の騎士たちからも、同調するような笑い声が漏れる。彼らの頭の中には、ライナスという男が率いる軍勢の姿など、もはや存在していなかった。あるのは、手柄を立てて王都に凱旋する、輝かしい自分たちの姿だけだ。 ベルガーは、内心でこの楽観的な空気を苦々しく思いつつも、それをあえて咎めはしなかった。兵の士気が高いのは良いことだ。それに、彼自身もまた、この戦が短期決戦で終わると確信していた。 ライナスという男の経歴は調べさせてある。平民の出で、傭兵として各地を転々とし、先の戦争で偶然にも大きな戦功を挙げた。その手腕は確かに認めよう。だが、それはあくまで小競り合いや奇襲といった、ゲリラ戦の範疇を出ないものだ。 正規の軍隊同士がぶつかり合う、本当の戦争というものを、あの男は知らない。 兵法、陣形、兵站。それら全てが複

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第82話 揺るがぬ忠誠

     その報せは、冬の終わりの冷たい風に乗って、辺境の地に吹き付けた。 王都の地下に潜伏していた密使ザイファルトの部下の一人が、瀕死の状態で城に帰還したのは、凍てつくような風が吹く日の夕刻だった。男は馬の鞍の上で意識を失う寸前だった。その背中には、ヴァインベルクのスパイであることを示す蛇の紋章が刻まれた矢が深々と突き刺さっている。 男がもたらした、たった一枚の羊皮紙。そこに記された短い言葉が、城の作戦司令室の空気を絶対零度まで凍てつかせた。『辺境伯ライナス、反逆者に認定さる。討伐軍、総兵力一万、王都を出立せり』 絶望的な内容だった。 部屋にはライナスとセレスティナ、そして側近のギデオンをはじめとする鉄狼団の主要な幹部たちが集まっている。彼らは、いつかこの日が来ることを覚悟してはいた。だが、敵の動きは、そしてその規模は、彼らの想像を遥かに超えていた。「一万…ですと…?」 ギデオンの声が、怒りと信じられないという響きで震えていた。「我が鉄狼団の総兵力は、民兵を合わせても二千がやっと。五倍の兵力差…これでは、もはや…」 それはまともに戦えば勝ち目のない数字だった。 辺境の民がどれだけ団結しようと、地の利を活かそうと、正規の訓練を受けた中央軍の大軍勢の前では、風の前の塵に同じ。 重い、絶望的な沈黙が部屋を支配した。 だが、その沈黙を破ったのは、当のライナス自身の、楽しげでさえある声だった。「面白い。実に、面白いではないか」 彼は玉座に深く腰掛けたまま、不敵な笑みを浮かべていた。その金色の瞳には絶望の色は微塵もない。むしろ、絶体絶命の窮地を前にして、初めて己の全力を振るえることに歓喜する、本物の戦士の目がそこにあった。「あの老獪な狐めが、ようやくその重い腰を上げ、自ら戦場に出てくるというのだ。ならばこちらも、それに相応しい歓迎をしてやらねば、礼を失するというものだろう」「か、閣下…!正気ですか!」 ギデオンが、信じられないという顔で叫んだ。「ああ、正気だとも」 ライナスはゆっくりと立ち上がった

  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第81話 愚かなる勅命

     王城の奥深く、国王の私室は、昼間だというのに薄暗い沈黙に支配されていた。 壁にかけられた壮麗なタペストリーも、磨き上げられた黒檀の調度品も、その主の心に宿る深い絶望の前では、色褪せたガラクタに過ぎなかった。老王は、窓辺の椅子に深く身を沈め、自らの手の甲に浮かんだ、枯れ木のような染みをただ見つめていた。 昨日の、あの玉座の間での出来事が、悪夢のように脳裏に蘇る。 宰相ヴァインベルクの、巧みで、そして毒に満ちた讒言。それに同調する貴族たちの、媚びを含んだ視線。そして、目の前に突きつけられた、辺境伯ライナスが反逆者であるという「動かぬ証拠」。 国王は、それが偽りであると、心のどこかで分かっていた。 あの密書は、あまりに都合が良すぎる。あのライナスという男が、これほど稚拙で、分かりやすい証拠を残すとは思えなかった。彼は、戦場で功を立てただけの蛮族ではない。その報告書から窺える統治の手腕は、むしろ王都のどの貴族よりも、怜悧で、理性的ですらあった。 だが、老王には、それに異を唱えるだけの力が、もはや残されていなかった。 ヴァインベルクは、この国の政治、軍事、そして経済の全てを、その蜘蛛の巣のような権力網で、完全に掌握している。彼に逆らうことは、この王国そのものを、内側から崩壊させる危険を孕んでいた。 そして何より、老王自身の心は、過去の過ちによって、深く蝕まれていたのだ。 アルトマイヤー公爵。 あの、誰よりも誠実だった忠臣を、自分は、この同じ男の讒言を信じて、見殺しにした。あの時の、公爵の最後の絶望に満ちた瞳を、忘れた日は一日たりともない。 今また、同じ過ちを繰り返すのか。 自問する声が、胸の内で虚しく響く。だが、答えはすでに出ていた。彼は、もう一度、己の魂を裏切るしかないのだ。王として、この国の安寧という大義名分のために。「陛下」 背後から、侍従長の、感情を殺した声がした。「宰相閣下が、勅命の署名を、お待ちでございます」 国王は、何も答えなかった。ただ、ゆっくりと立ち上がると、震える足で、部屋の中央に置かれた執務机へと向かった。 机の上には、一枚の上質な羊皮紙が広げら

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status