夜の静寂が、ライナスの執務室を支配していた。
机の上に広げられた一枚の古い手紙。それが、長年にわたってこの辺境を蝕んできた巨悪の正体を暴く、決定的な証拠だった。セレスティナの心臓は、まだ激しい怒りと興奮で高鳴っていた。父を、母を、そしてアルトマイヤー家そのものを奈落の底に突き落とした男、ヴァインベルク。その罪が、今、自分のこの手の中にある。 この証拠を手に、すぐにでも王都へ乗り込み、彼の罪を糾弾したい。そんな焦燥に近い衝動が、彼女の全身を駆け巡っていた。 だが、向かいに立つ男は、驚くほど冷静だった。 ライナスは、燃え盛る怒りをその金色の瞳の奥深くに沈め、ただじっと、手紙に記された「隠し紋」を見つめている。戦場で幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼の精神は、このような時こそ、氷のように冷徹になるよう鍛え上げられていた。「…見事だ」 長い沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。それは、セレスティナの働きを称える言葉であると同時に、敵であるヴァインベルクの用意周到さに対する、ある種の感嘆でもあった。「これほどの証拠がありながら、奴は半世紀近くも、誰にも尻尾を掴まれずにいた。ただの強欲なだけの男ではない。恐ろしく、慎重な男だ」「ええ」とセレスティナは頷いた。「だからこそ、閣下。この証拠の使い方を、間違えてはなりません」 彼女の声は、先ほどまでの怒りの震えが嘘のように、落ち着きを取り戻していた。彼女もまた、この男の前で感情的になることが、いかに無意味であるかを悟り始めていた。怒りは、行動の原動力にはなるが、それ自体が武器になるわけではない。必要なのは、この怒りを最も効果的に敵に叩きつけるための、冷徹な戦略だった。「ほう。お前には、策があるというのか」 ライナスは、椅子に深く腰掛け直すと、面白そうに彼女を見つめた。その視線は、彼女の覚悟と知性を試しているかのようだった。 セレスティナは、一歩前に進み出た。そして、彼の机の上に広げられた辺境の地図を、白い指先でそっと示す。「まず、この証拠は、今はまだ伏せておくべきです。これを今、公にしても、ヴァインベルクは必ずや言い逃れをするでしょう。手紙は偽造されたものだと主張し、逆に中央から派遣された役人たちが一掃されてから数日、辺境の町には束の間の平穏が訪れていた。民衆は、長年自分たちを苦しめてきた搾取から解放され、その顔にはわずかながらも明るさが戻り始めていた。彼らは、恐怖の対象であった辺境伯ライナスを、今や畏怖と、そして一縷の期待を込めて見上げるようになっていた。町の秩序は、鉄狼団の厳格な規律の下で、着実に再構築されつつあった。 だが、城の主であるライナスと、その軍師となったセレスティナに、安息の時はなかった。 彼らは、今回の粛清が、本当の戦いの始まりに過ぎないことを理解していた。腐敗した役人たちは、いわば巨大な毒蛇の鱗の一枚。その本体である宰相ヴァインベルク公爵が、王都で牙を研いでいる。辺境での出来事は、遅かれ早かれ彼の耳に届くだろう。そして、彼は必ずや次なる手を打ってくるはずだった。「奴は、今頃腸が煮えくり返っているだろうな」 執務室で、巨大な地図を前にしながら、ライナスは独り言のように呟いた。「自分の金のなる木を、俺という『蛮族』に根こそぎ奪われたのだからな。次に奴が送ってくるのは、帳簿をごまかすような小役人ではない。もっと狡猾で、もっと危険な『刺客』だ」「ええ」と、隣に立つセレスティナも静かに頷いた。「おそらくは、外交という名の、言葉の罠を仕掛けてくるでしょう。閣下のやり方を『辺境の独断専行』と非難し、国王陛下の名の下に、説明を求めてくるはずです」「使者を送り込んでくる、ということか」「はい。それも、貴族の中でも特に弁の立つ、食わせ者の交渉役を。その者の前で、閣下や鉄狼団の方々が、もし野蛮な振る舞いを見せれば、それこそがヴァインベルクの思う壺。その一点を針小棒大に中央へ報告し、閣下の評判を貶めるでしょう」「ちっ、面倒なことだ」 ライナスは、忌々しげに舌打ちをした。戦場で敵を斬り伏せるのは得意だが、言葉と体裁で塗り固められた貴族のやり口は、彼の最も好まない戦い方だった。「面倒ですが、避けては通れません」とセレスティナは言った。「ならば、こちらもその戦いに備えるまでです」 ライナスは、彼女のすみれ色の瞳に宿る、強い光を見つめた。その瞳は、彼が知らない戦い方を、すでに見据えている
セレスティナに「軍師」という新たな地位が与えられた翌朝、城の中は静かな熱気に満ちていた。辺境伯の執務室の隣に彼女のために用意された部屋は、昨日までの客室とは明らかに異なり、巨大な執務机と、壁一面に設置された真新しい本棚が、主の役割を雄弁に物語っていた。「これが、お前の新しい戦場だ」 部屋の鍵を渡しながら、ライナスはそう言った。彼の金色の瞳には、昨日セレスティナが見せた知性への、隠しきれない期待が宿っている。彼女はその重い真鍮の鍵を、決意と共に受け取った。それは、失われたアルトマイヤー家の書斎の鍵とは違う。未来を切り開くための、戦いの部屋の鍵だった。「最初の仕事だが」とライナスは続けた。「まずは、この城の現状を把握してもらう。特に、中央から派遣されている役人どもが管理している、辺境の行政文書。その全てに目を通せ」 彼の言葉と共に、侍女のマルタと数人の兵士たちが、うず高く積まれた羊皮紙の束や、分厚い帳簿を次々と部屋に運び込んできた。あっという間に、巨大な机の上は書類の山で埋め尽くされる。それは、素人が見れば眩暈を起こしそうなほどの量だった。「こいつらは、俺が辺境伯になってから提出された、ここ数ヶ月分の報告書だ。交易、税収、物資の管理。奴らは、俺をただの脳筋と侮って、適当な数字を並べているに違いねえ。その嘘を、お前の目で見破れ」「御意」 セレスティナは、書類の山を前にして、臆するどころか、むしろ武者震いに似た高揚感を覚えていた。父の書斎で、歴史書や紋章学の書物を紐解いた時の、あの懐かしい感覚。謎を解き明かす喜び。それが今、復讐という明確な目的と結びつき、彼女の思考を極限まで研ぎ澄ませていた。 ライナスが部屋を出て行くと、セレスティナは早速、仕事に取り掛かった。 彼女はまず、全ての書類を分野ごとに分類し、時系列に並べ替えることから始めた。その手際の良さは、長年、公爵家の膨大な蔵書を管理してきた経験の賜物だった。 一枚、また一枚と羊皮紙をめくっていく。そこに記されているのは、無味乾燥な数字と、定型的な報告文の羅列。だが、セレスティナの目には、それがただの文字には見えなかった。彼女は、その数字の裏に隠された人々の生活や、物資の流れ、
復讐の協奏曲、その序章の幕が上がった夜。 ライナスとの間に生まれた、共犯者という名の絆。その熱を胸に抱いたまま、セレスティナは自室の寝台で夜明けを迎えた。ほとんど眠れなかったが、不思議と心は澄み渡り、頭脳は氷のように冴えている。父を、アルトマイヤー家を陥れた者たちへの怒りは、今や復讐という目的のための、制御された燃料となっていた。 このままではいけない。衝動的にヴァインベルクの罪を暴いても、王都の腐敗した権力構造の中では握り潰されるだけ。この狼の力を、その牙を、最大限に活かすためには、まず彼に自分という武器の「正しい使い方」を理解させる必要があった。 朝食を済ませたセレスティナは、侍女のマルタを呼び止めると、はっきりとした口調で告げた。「マルタ、閣下にお目通りを願いたいと、お伝えください。火急の軍議です、と」 マルタは、セレスティナの瞳に宿る、昨日までとは明らかに違う強い光に、わずかに目を見開いた。だが、何も問わず、静かに一礼して部屋を辞した。 ほどなくして、返事が来た。ライナスは執務室で待っているという。 セレスティナは、この数日で書き溜めた数枚の羊皮紙を手に、彼の部屋の扉を叩いた。扉の向こうにいるのは、主君であり、恩人であり、そして彼女がこれから操るべき、最も強力な駒だった。 執務室に入ると、ライナスは巨大な地図の前に立ち、腕を組んで彼女を待っていた。その金色の瞳は、値踏みするように彼女を見据えている。「火急の軍議、とは穏やかではないな。軍師殿」 その呼び方に、セレスティナの心は微かに揺れた。だが、今は感傷に浸っている時ではない。「はい。戦はすでに始まっておりますゆえ」 彼女は、ライナスの机の上に、持参した羊皮紙を一枚ずつ広げた。「閣下。あなたは、私を『使える』とおっしゃいました。ですが、ただ闇雲に私という武器を振るっても、大木であるヴァインベルクを倒すことは叶いません。まず、この武器の性能と、正しい使い方をご理解いただきたく存じます」 それは、挑戦的とも取れる口上だった。ライナスは面白そうに片眉を上げる。「聞こうか。お前の使い方とやらを」 セレスティナ
夜の静寂が、ライナスの執務室を支配していた。 机の上に広げられた一枚の古い手紙。それが、長年にわたってこの辺境を蝕んできた巨悪の正体を暴く、決定的な証拠だった。セレスティナの心臓は、まだ激しい怒りと興奮で高鳴っていた。父を、母を、そしてアルトマイヤー家そのものを奈落の底に突き落とした男、ヴァインベルク。その罪が、今、自分のこの手の中にある。 この証拠を手に、すぐにでも王都へ乗り込み、彼の罪を糾弾したい。そんな焦燥に近い衝動が、彼女の全身を駆け巡っていた。 だが、向かいに立つ男は、驚くほど冷静だった。 ライナスは、燃え盛る怒りをその金色の瞳の奥深くに沈め、ただじっと、手紙に記された「隠し紋」を見つめている。戦場で幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼の精神は、このような時こそ、氷のように冷徹になるよう鍛え上げられていた。「…見事だ」 長い沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。それは、セレスティナの働きを称える言葉であると同時に、敵であるヴァインベルクの用意周到さに対する、ある種の感嘆でもあった。「これほどの証拠がありながら、奴は半世紀近くも、誰にも尻尾を掴まれずにいた。ただの強欲なだけの男ではない。恐ろしく、慎重な男だ」「ええ」とセレスティナは頷いた。「だからこそ、閣下。この証拠の使い方を、間違えてはなりません」 彼女の声は、先ほどまでの怒りの震えが嘘のように、落ち着きを取り戻していた。彼女もまた、この男の前で感情的になることが、いかに無意味であるかを悟り始めていた。怒りは、行動の原動力にはなるが、それ自体が武器になるわけではない。必要なのは、この怒りを最も効果的に敵に叩きつけるための、冷徹な戦略だった。「ほう。お前には、策があるというのか」 ライナスは、椅子に深く腰掛け直すと、面白そうに彼女を見つめた。その視線は、彼女の覚悟と知性を試しているかのようだった。 セレスティナは、一歩前に進み出た。そして、彼の机の上に広げられた辺境の地図を、白い指先でそっと示す。「まず、この証拠は、今はまだ伏せておくべきです。これを今、公にしても、ヴァインベルクは必ずや言い逃れをするでしょう。手紙は偽造されたものだと主張し、逆に
夜が明けた。 辺境の朝は、いつもと変わらず凍てつくような冷気を連れてきたが、セレスティナの心は不思議と凪いでいた。昨夜、書庫でライナスと分かち合った、あの静かな時間。彼の過去に触れ、自分と同じ痛みをその魂に刻んでいると知ったことで、彼女の中で何かが決定的に変わった。 恐怖は、まだある。あの金色の瞳に見つめられると、今でも心臓が跳ねる。だが、それはもはや得体の知れない獣に向けられる恐怖ではなかった。彼の強大さ、そしてその奥に秘められた不器用な優しさを知った上での、畏怖に近い感情だった。 侍女のマルタが運んできた朝食を、セレスティナはゆっくりと、しかし確実な手つきで口に運んだ。生きるために、そして戦うために、今は少しでも力を蓄えなければならない。「セレスティナ様」 食事が終わるのを見計らったかのように、マルタが声をかけた。「閣下がお呼びです。執務室へ」「…分かりました」 セレスティナは静かに頷いた。昨夜、彼は言った。『お前に、やってもらいたい仕事がある』と。いよいよ、その時が来たのだ。彼女はすみれ色のショールを肩にかけると、マルタの案内で執務室へと向かった。 ライナスの執務室は、朝の光が差し込み、昨日までの夜の雰囲気とは少し違って見えた。彼はすでに机に向かい、一枚の巨大な羊皮紙を広げていた。辺境一帯の、詳細な地図だった。「来たか」 ライナスは顔を上げることなく、低い声で言った。その指先は、地図上のある一点を指し示している。「ここだ。お前が昨日、指摘した鉱山」 セレスティナは、彼の隣に立つことを許された。近づくと、鉄と、微かに革の匂いがする。それは、この城と、彼自身を象徴する匂いだった。「この鉱山は、表向きにはもう何年も前に枯渇したことになっている。だが、お前の分析通りなら、ここにはまだ莫大な富が眠っているはずだ。そして、その富は、何十年もの間、誰かの懐を潤し続けてきた」「…ヴァインベルク公爵、でしょうか」「だろうな。だが、証拠がない」 ライナスは、初めて彼女の方へ視線を向けた。その金色の瞳は、冷徹なまでの光を宿している。
城の書庫は、セレスティナにとって聖域であり、同時に要塞となった。 日中、彼女はその静寂の中でひたすら書物を読み漁った。乾いた砂が水を吸うように、彼女の飢えた知性は次から次へと知識を吸収していく。辺境の歴史、地理、鉱物資源、そしてこの地で過去に繰り返されてきた中央との軋轢の記録。それらはもはや、ただの文字の羅列ではなかった。彼女の復讐という目的を達成するための、武器であり、弾薬だった。 ライナスが与えた「牙を研げ」という言葉の意味を、彼女は正しく理解していた。この書庫にある知識こそが、彼女の牙となる。物理的な力を持たない彼女が、宰相ヴァインベルクという巨大な敵と渡り合うための、唯一の武器だった。 侍女のマルタは、毎日決まった時間に食事を運び、彼女の集中を妨げないよう、静かに部屋を出ていく。鉄狼団の兵士たちも、この書庫を特別な場所と認識しているのか、近くを通る時でさえ足音を忍ばせているようだった。誰もが、ライナスがこの「すみれ色の瞳の令嬢」を、ただの保護対象として見ていないことを、暗黙のうちに理解していた。 その夜も、セレスティナは一人、書庫のランプの灯りの下で羊皮紙にペンを走らせていた。 彼女は、辺境で産出される鉱物資源に関する古い記録と、近年の交易記録を照らし合わせ、ある不自然な点に気づき始めていた。公式な記録上では、特定の鉱山の産出量は年々減少していることになっている。だが、別の文献に残された、かつての地質調査の記録によれば、その鉱山にはまだ豊富な鉱脈が眠っているはずだった。(誰かが、産出量を偽って、差額を不正に着服している…? それも、何十年という、長い期間にわたって) その金の流れの先に、誰がいるのか。彼女の頭脳は、冷徹なまでに冴え渡っていた。この金の流れを追えば、きっとヴァインベルクの影にたどり着くはずだ。 彼女が思考に没頭していた、その時だった。 音もなく、書庫の扉が開いた。セレスティナは驚いて顔を上げる。そこに立っていたのは、やはりライナスだった。彼は夜の見回りでもしていたのか、黒い軍服を纏い、その金色の瞳は夜の闇の中でも鋭い光を放っていた。「まだ起きていたのか」 彼の声は、静かだが、書庫の空気を震