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第29話 復讐の炎

last update Last Updated: 2025-08-30 20:50:41

 夜が明けた。

 辺境の朝は、いつもと変わらず凍てつくような冷気を連れてきたが、セレスティナの心は不思議と凪いでいた。昨夜、書庫でライナスと分かち合った、あの静かな時間。彼の過去に触れ、自分と同じ痛みをその魂に刻んでいると知ったことで、彼女の中で何かが決定的に変わった。

 恐怖は、まだある。あの金色の瞳に見つめられると、今でも心臓が跳ねる。だが、それはもはや得体の知れない獣に向けられる恐怖ではなかった。彼の強大さ、そしてその奥に秘められた不器用な優しさを知った上での、畏怖に近い感情だった。

 侍女のマルタが運んできた朝食を、セレスティナはゆっくりと、しかし確実な手つきで口に運んだ。生きるために、そして戦うために、今は少しでも力を蓄えなければならない。

「セレスティナ様」

 食事が終わるのを見計らったかのように、マルタが声をかけた。

「閣下がお呼びです。執務室へ」

「…分かりました」

 セレスティナは静かに頷いた。昨夜、彼は言った。『お前に、やってもらいたい仕事がある』と。いよいよ、その時が来たのだ。彼女はすみれ色のショールを肩にかけると、マルタの案内で執務室へと向かった。

 ライナスの執務室は、朝の光が差し込み、昨日までの夜の雰囲気とは少し違って見えた。彼はすでに机に向かい、一枚の巨大な羊皮紙を広げていた。辺境一帯の、詳細な地図だった。

「来たか」

 ライナスは顔を上げることなく、低い声で言った。その指先は、地図上のある一点を指し示している。

「ここだ。お前が昨日、指摘した鉱山」

 セレスティナは、彼の隣に立つことを許された。近づくと、鉄と、微かに革の匂いがする。それは、この城と、彼自身を象徴する匂いだった。

「この鉱山は、表向きにはもう何年も前に枯渇したことになっている。だが、お前の分析通りなら、ここにはまだ莫大な富が眠っているはずだ。そして、その富は、何十年もの間、誰かの懐を潤し続けてきた」

「…ヴァインベルク公爵、でしょうか」

「だろうな。だが、証拠がない」

 ライナスは、初めて彼女の方へ視線を向けた。その金色の瞳は、冷徹なまでの光を宿している。
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