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第32話 帳簿の嘘

last update Last Updated: 2025-09-02 20:34:55

 セレスティナに「軍師」という新たな地位が与えられた翌朝、城の中は静かな熱気に満ちていた。辺境伯の執務室の隣に彼女のために用意された部屋は、昨日までの客室とは明らかに異なり、巨大な執務机と、壁一面に設置された真新しい本棚が、主の役割を雄弁に物語っていた。

「これが、お前の新しい戦場だ」

 部屋の鍵を渡しながら、ライナスはそう言った。彼の金色の瞳には、昨日セレスティナが見せた知性への、隠しきれない期待が宿っている。彼女はその重い真鍮の鍵を、決意と共に受け取った。それは、失われたアルトマイヤー家の書斎の鍵とは違う。未来を切り開くための、戦いの部屋の鍵だった。

「最初の仕事だが」とライナスは続けた。「まずは、この城の現状を把握してもらう。特に、中央から派遣されている役人どもが管理している、辺境の行政文書。その全てに目を通せ」

 彼の言葉と共に、侍女のマルタと数人の兵士たちが、うず高く積まれた羊皮紙の束や、分厚い帳簿を次々と部屋に運び込んできた。あっという間に、巨大な机の上は書類の山で埋め尽くされる。それは、素人が見れば眩暈を起こしそうなほどの量だった。

「こいつらは、俺が辺境伯になってから提出された、ここ数ヶ月分の報告書だ。交易、税収、物資の管理。奴らは、俺をただの脳筋と侮って、適当な数字を並べているに違いねえ。その嘘を、お前の目で見破れ」

「御意」

 セレスティナは、書類の山を前にして、臆するどころか、むしろ武者震いに似た高揚感を覚えていた。父の書斎で、歴史書や紋章学の書物を紐解いた時の、あの懐かしい感覚。謎を解き明かす喜び。それが今、復讐という明確な目的と結びつき、彼女の思考を極限まで研ぎ澄ませていた。

 ライナスが部屋を出て行くと、セレスティナは早速、仕事に取り掛かった。

 彼女はまず、全ての書類を分野ごとに分類し、時系列に並べ替えることから始めた。その手際の良さは、長年、公爵家の膨大な蔵書を管理してきた経験の賜物だった。

 一枚、また一枚と羊皮紙をめくっていく。そこに記されているのは、無味乾燥な数字と、定型的な報告文の羅列。だが、セレスティナの目には、それがただの文字には見えなかった。彼女は、その数字の裏に隠された人々の生活や、物資の流れ、
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