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第33話 鉄狼団の礼儀作法

last update Last Updated: 2025-09-03 20:45:57

 中央から派遣された役人たちが一掃されてから数日、辺境の町には束の間の平穏が訪れていた。民衆は、長年自分たちを苦しめてきた搾取から解放され、その顔にはわずかながらも明るさが戻り始めていた。彼らは、恐怖の対象であった辺境伯ライナスを、今や畏怖と、そして一縷の期待を込めて見上げるようになっていた。町の秩序は、鉄狼団の厳格な規律の下で、着実に再構築されつつあった。

 だが、城の主であるライナスと、その軍師となったセレスティナに、安息の時はなかった。

 彼らは、今回の粛清が、本当の戦いの始まりに過ぎないことを理解していた。腐敗した役人たちは、いわば巨大な毒蛇の鱗の一枚。その本体である宰相ヴァインベルク公爵が、王都で牙を研いでいる。辺境での出来事は、遅かれ早かれ彼の耳に届くだろう。そして、彼は必ずや次なる手を打ってくるはずだった。

「奴は、今頃腸が煮えくり返っているだろうな」

 執務室で、巨大な地図を前にしながら、ライナスは独り言のように呟いた。

「自分の金のなる木を、俺という『蛮族』に根こそぎ奪われたのだからな。次に奴が送ってくるのは、帳簿をごまかすような小役人ではない。もっと狡猾で、もっと危険な『刺客』だ」

「ええ」と、隣に立つセレスティナも静かに頷いた。「おそらくは、外交という名の、言葉の罠を仕掛けてくるでしょう。閣下のやり方を『辺境の独断専行』と非難し、国王陛下の名の下に、説明を求めてくるはずです」

「使者を送り込んでくる、ということか」

「はい。それも、貴族の中でも特に弁の立つ、食わせ者の交渉役を。その者の前で、閣下や鉄狼団の方々が、もし野蛮な振る舞いを見せれば、それこそがヴァインベルクの思う壺。その一点を針小棒大に中央へ報告し、閣下の評判を貶めるでしょう」

「ちっ、面倒なことだ」

 ライナスは、忌々しげに舌打ちをした。戦場で敵を斬り伏せるのは得意だが、言葉と体裁で塗り固められた貴族のやり口は、彼の最も好まない戦い方だった。

「面倒ですが、避けては通れません」とセレスティナは言った。「ならば、こちらもその戦いに備えるまでです」

 ライナスは、彼女のすみれ色の瞳に宿る、強い光を見つめた。その瞳は、彼が知らない戦い方を、すでに見据えている
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  • 辺境の狼は、虐げられた白百合を娶る ~没落令嬢と成り上がり英雄の復讐協奏曲~   第30話 復讐の協奏曲、序章

     夜の静寂が、ライナスの執務室を支配していた。 机の上に広げられた一枚の古い手紙。それが、長年にわたってこの辺境を蝕んできた巨悪の正体を暴く、決定的な証拠だった。セレスティナの心臓は、まだ激しい怒りと興奮で高鳴っていた。父を、母を、そしてアルトマイヤー家そのものを奈落の底に突き落とした男、ヴァインベルク。その罪が、今、自分のこの手の中にある。 この証拠を手に、すぐにでも王都へ乗り込み、彼の罪を糾弾したい。そんな焦燥に近い衝動が、彼女の全身を駆け巡っていた。 だが、向かいに立つ男は、驚くほど冷静だった。 ライナスは、燃え盛る怒りをその金色の瞳の奥深くに沈め、ただじっと、手紙に記された「隠し紋」を見つめている。戦場で幾多の修羅場を潜り抜けてきた彼の精神は、このような時こそ、氷のように冷徹になるよう鍛え上げられていた。「…見事だ」 長い沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。それは、セレスティナの働きを称える言葉であると同時に、敵であるヴァインベルクの用意周到さに対する、ある種の感嘆でもあった。「これほどの証拠がありながら、奴は半世紀近くも、誰にも尻尾を掴まれずにいた。ただの強欲なだけの男ではない。恐ろしく、慎重な男だ」「ええ」とセレスティナは頷いた。「だからこそ、閣下。この証拠の使い方を、間違えてはなりません」 彼女の声は、先ほどまでの怒りの震えが嘘のように、落ち着きを取り戻していた。彼女もまた、この男の前で感情的になることが、いかに無意味であるかを悟り始めていた。怒りは、行動の原動力にはなるが、それ自体が武器になるわけではない。必要なのは、この怒りを最も効果的に敵に叩きつけるための、冷徹な戦略だった。「ほう。お前には、策があるというのか」 ライナスは、椅子に深く腰掛け直すと、面白そうに彼女を見つめた。その視線は、彼女の覚悟と知性を試しているかのようだった。 セレスティナは、一歩前に進み出た。そして、彼の机の上に広げられた辺境の地図を、白い指先でそっと示す。「まず、この証拠は、今はまだ伏せておくべきです。これを今、公にしても、ヴァインベルクは必ずや言い逃れをするでしょう。手紙は偽造されたものだと主張し、逆に

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