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第69話 暴かれた売国

last update Last Updated: 2025-10-09 20:00:34

 血のように赤い朝焼けが、作戦司令室の窓を染め上げていた。

 三日三晩にわたる死闘の末に、セレスティナとライナスがようやく掴んだ、たった一つの単語。

「アルトマイヤー」

 その響きは、部屋の重い沈黙の中に、いつまでもこだましているかのようだった。それは、失われた名誉の残響であり、これから暴かれるであろう、巨大な真実への序曲だった。

 セレスティナは、椅子に深く身を沈めたまま、動けずにいた。全身の力は抜けきり、指一本動かすことさえ億劫だった。だが、その頭脳だけは、極度の興奮と疲労の中で、熱を帯びたように冴え渡っている。

 父の、名。

 この密書は、やはり、父の事件に関わるものなのだ。その確信が、彼女の枯れ果てたはずの心に、新たな闘志の油を注いでいた。

「…少し、休め」

 静寂を破ったのは、ライナスの低い声だった。

 彼は、窓辺から戻ると、セレスティナの肩に、いつか贈られたすみれ色のショールをそっとかけた。その手つきは、相変わらず不器用だったが、彼女の冷え切った体をじんわりと温める、確かな優しさがあった。

「お前の顔は、死人のようだ。今にも、その魂ごと消えてしまいそうだ」

「…閣下こそ」

 セレスティなは、かろうじて微笑んでみせた。「あなた様のそのお顔も、まるで百年の戦から戻られた、亡霊のようでございますわ」

 二人の間に、かすかな笑みが交わされる。それは、極限の戦場を共に戦い抜いた、戦友だけが分かち合える、特別な絆の証だった。

 侍女のマルタが、音もなく部屋に入ってくると、二人の前に温かいスープと焼きたてのパンを置いた。彼女は何も言わなかったが、その目には深い労いと、そして主君たちへの揺るぎない信頼の色が浮かんでいた。

 二人は、まるで儀式のように、黙ってその食事を口に運んだ。それは、ただの栄養補給ではなかった。これから始まる、本当の戦いを前にした、最後の休息。魂を整えるための、静かな時間だった。

 短い休息の後、二人は再び、あの忌まわしい羊皮紙の前に戻った。

 もう、そこに迷いはなかった。解読の方法は、完全に確立されている。あとは、この地獄の設計図を、一文字
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