LOGIN「――離婚届、受理されました。お疲れさまでした」 教会の事務官がそう言ったとき、私は心の底からこう思った。 ああ、これでようやく三年分の無視に終止符を打てるわ。 王命による“形式結婚”。 夫の顔も知らず、手紙もなし、戦地から帰ってきたという噂すらない。 だから、はい、離婚。勝手に。 白い結婚だったので、勝手に離婚しました。 何か問題あります?
View More今日、提出してきました、離婚届。
結婚して、三年が経った。 ――けれど、私はいまだに夫の顔を知らない。 初夜? あるわけがない。 王命によって結ばれた、紙の上の婚姻。 結婚式と呼ばれたものは、代理人同士が形式的に署名を交わすだけの儀式だった。 夫は戦地におり、書類に署名をした時点で「正式な結婚」とされたのだ。 当然、初夜の代役など立てられるはずもなく、そのまま放置。 ……そして、三年。 手紙は一通も届かず。 贈り物も、季節の挨拶すらない。 名前を呼ばれたこともなければ、愛の言葉など夢のまた夢。 屋敷では、私はただの“いることになっている人”。 掃除とシーツの交換は、侍女が気が向いた時にしてくれる。 食事はそこそこ整っていて、お菓子も添えられる。 ドレスも宝石も、帳簿の上では私のために支出されていた。(離婚後のため、貯金してますがね) ――けれど、誰ひとりとして、私を「奥さま」とか、「侯爵夫人」呼んだことはなかった。 そして今日。 私はようやく、教会の白い扉をくぐる。 だから、今日。 三年目の結婚記念日に、私は教会へ向かった。 白い石畳は朝露で薄く光り、鐘楼の影が道の端に落ちている。 扉を押すと、冷えた空気と蜜蝋の匂い。祭壇の白布は皺ひとつなく、司祭の指は静かに書類をめくった。 ――白い結婚による婚姻解消。 必要な手続きに名前を書き、印を押し、封をする。 判子が紙を叩く乾いた音が、やけに遠くで響いたように思えた。 「これで正式に離婚が成立です」 淡々と告げられて、私は息を吐く。 胸の奥で、古い錠前が外れる小さな音がした。 その足で屋敷を出た。 玄関の大扉は、いつもと同じ重さで、いつもどおり軋んだ。 けれど、背中に感じる廊下の視線はない。誰も呼び止めない。 実家にも帰らない。離婚届と同時に、実家との縁も切った。 姓より先に、鎖の名前を手放す。 ――ああ、すっきりした。 三年ぶりに頬を撫でる風が、こんなにも軽いなんて。 私は街へ降りた。 小麦の甘い匂いが漂うパン屋の角を曲がり、古本屋の前で足を止める。 硝子越しに見える背表紙が、今日は知らない国の旗みたいに色鮮やかだ。 八百屋では、赤い林檎が山になっている。 「一番手前を二つ。包みは薄くね」 そう頼む声が、自分のものらしくて嬉しい。 午後には、小川沿いの小さなコテージを見に行った。 白い塗り壁に、低い屋根。窓枠は少し剥げているけれど、光はよく入る。 床板はところどころ鳴るが、鳴るたびに「ここに住む人の歩幅で直していけばいい」と思えた。 台所の流しに手を置く。冷たさが、これから温まる予感みたいに指先へ伝わる。 「ここにします」 自分で決める、という行為が、こんなにも簡単で、こんなにも難しかったことを、今さら知る。 鍵を受け取って、街をぶらぶら歩く。 帽子屋では鏡に微笑み、紅茶屋では好きな葉を少しずつ量ってもらう。 紙袋が増えるたび、肩が軽くなる。不思議な話だけれど、本当にそうなのだ。 ――マルグリット。 姓は、まだない。 どの名を名乗ろうか。どの過去もいらないけれど、これからの私に似合う音はほしい。 カーテンは薄い生成りでいい。食卓は二人掛けから始めよう。椅子は一脚、予備で一脚。 今はまだ、考え中。 考えられる、という自由を、ようやく手に入れたから 「奥様が……帰ってこられません!」 侍女の叫びが、静まり返った屋敷に響き渡った。 「……は?」 家令が顔を上げる。 帳簿の山から視線を上げた彼は、しばし無言。 「誰が、奥様付きでした?」 「え、ええと……侍女長のマルタが……?」 「そのマルタがいま慌てて探しております!」 ざわざわと廊下が騒がしくなる。 三年間、戦地の旦那様のために――と、屋敷を守り、奥様の部屋を整え、食事を運び、 ……しかし、ふと誰かが呟いた。 「そういえば……誰も、奥様を見たことがないのでは?」 「……え?」 「いや、だって、いつも食事を運ぶのは侍女で、誰も入ったことがなく……」 「お声は?」 「……聞いたことが、ありません」 重苦しい沈黙。 そして、屋敷全体を包む衝撃の事実―― 誰も、“奥様の存在”を意識していなかった。 花も飾られず、宴もなく、ただ形式だけの“妻”。 三年の間、静かに屋敷の一角にいて、誰にも気づかれずに去った女。 家令は震える手で教会の使いを迎える。 「まさか……離婚の届出ではあるまいな」 教会からの、離婚済みのお知らせ 侍女長マルタが青ざめて叫ぶ。 「うそ……! 本当に、行ってしまわれたの!?」 ――その頃、マルグリットは街角のパン屋でクロワッサンを頬張りながら、 「はぁん、バターって、自由の味がする」と微笑んでいた。 屋敷パニックと、チャウダーの香り 「奥様が――いない!?」 朝から屋敷中が大騒ぎだった。 侍女長マルタが顔面蒼白で駆け回り、執事は天を仰ぎ、料理長は焦げたトーストを投げ捨てる。 「誰が奥様の世話を!?」 「マルタ様では?」 「えっ!? わたしは、あの……お部屋の掃除だけで……」 「では食事は!?」 「厨房が勝手に用意を……」 「衣類は!?」 「お仕立て屋から直送されて……」 ――つまり。 誰も、奥様の世話をしていなかった。 三年もの間、屋敷全体が“存在していることすら忘れていた”のだ。 「……まさか、離婚!?」 「うそ、だって手続きが――!」 「いや、教会から正式な書状が届いた!」 ドンッ! という音と共に、教会印の封書が卓上に叩きつけられる。 「白い結婚の解消。すでに承認済みです!」 全員、固まる。 「お、奥様ぁああぁぁ~~~!」 侍女長の悲鳴が屋敷中に響いた。 ⸻ 一方そのころ。 港町のカフェのテラス席で、マルグリットはのんびりしていた。 「今日は、チャウダーが食べたい」 そう呟いて、パンを片手にぶらぶら歩く。 通りの角で声をかけられた。 「お姉さん、あそこのコテージにいるの? うち、食堂! そのパン持って、うちに来て! スープとかあるから、食べてって!」 マルグリットはにっこり微笑んだ。 「いいわね」 差し出された手を取るようにして、港町の食堂へ向かう。 スープの香りが潮風に混じり、どこか懐かしい。 「はぁ……これが、自由の味ね」 屋敷が阿鼻叫喚になっているとも知らず、 彼女は湯気の立つチャウダーをスプーンで掬った。 「お姉さん、うち、お持ち帰りも、できるから、これからもよろしくね。」 先ほどの、少女が、あがったばかりの、チーズいり、エビフライサービスしてくれた、いい店見つけたかも。紅茶店の午後。 窓から差し込む光が、 二人のカップを静かに照らしていた。 テオドールは手の中の花を見つめ、 小さく息を吐いた。 (今日こそ、言う。 もう逃げない) 「マリーさん。 私は――あなたに、伝えたいことがあります」 彼女は首をかしげた。 「はい?」 「あなたを……ずっと探していました」 「……?」 「マリーさん。 本当の名前は――マルグリットですよね」 「……何を、言ってるの」 「私は――あなたの夫でした」 静寂。 次の瞬間、 椅子が音を立てて引かれた。 ⸻ 「はぁっ⁉︎」 店中が一瞬静まり返る。 マルグリットは立ち上がり、 信じられないものを見るような目で彼を見た。 「あなたが、あの――!」 「……テオドール・ド・リュミエールです」 マルグリット 「そう。思い出したわ。 三年! 三年も一度も顔を出さず、 手紙のひとつもよこさず、 “王命の結婚だから仕方ない”って人形みたいに黙ってた、あの!」 店の客たちが息を呑む。 マルグリットは頬を紅潮させ、 震える声で続けた。 「何が“探していました”よ! 私、探されるような妻でした!? あなた、戦地で勝手に結婚の書類に署名しただけでしょ!?」 テオドール 「……そうです。 あなたを守るつもりで、 結果的に、いちばん傷つけた」 マルグリット 「“つもり”!?」 その声に、店の外まで響くほどの怒気が混じった。 マルグリット 「“つもり”で三年も放っておいて、 今さら“探してました”なんて言ったら、 笑われるわよ!」 ⸻ テオドールは、それでも席を立たなかった。 「笑われてもいい。 あなたにだけは、本当のことを言いたかった」 「……ふざけないで」 マルグリットの目に、 涙がにじんだ。 「もう、あなたの“奥様”じゃないのよ」 テオドール 「それでも、俺にとっては――」 マルグリット 「黙って!!」 彼女の手が震える。 カップの中で紅茶が波打った。 店主がそっと遠くでため息をつく。 マルグリットは、 何かを言いかけて、唇を噛みしめた。 「……出て行って」 「……わかりました」 テオドールは深く頭を下げ、 花をテーブルに置いたまま、 静かに店を出ていった。 ⸻
スザンヌ、動く 「スザンヌ様、王都の記録課からお返事が」 侍女が書状を持ってくる。 スザンヌは紅茶を片手に封を切った。 「……ふむ、やっぱりね」 文面を読み進めながら、唇の端が上がる。 「マルグリット・ド・リュミエール、 正式に“婚姻解消”と記録されてる。 現在は“マリー・グラン”の名で暮らしているそうよ」 侍女が目を丸くした。 「まぁ……侯爵夫人が、庶民の名前で?」 「ええ。どうやら静かに、楽しそうに暮らしてるみたい。 紅茶店に通って、花屋で買い物して……」 スザンヌは、カップを軽く揺らして香りを嗅いだ。 「幸せそうね」 侍女はためらいがちに口を開いた。 「では、侯爵様には……?」 「まだ言わないで。 あの子、自分で見つけなきゃ気づかないわ」 紅茶を飲み干し、 スザンヌは立ち上がった。 鏡の前で帽子をかぶりながら、独り言のように言う。 「どうしようかしらね。 放っておくのも、女の意地として悪くないけど……」 指先でブローチを整え、にやりと笑った。 「会いに行くのが一番だわね」 「えっ!? スザンヌ様、自ら!?」 「だって、気になるじゃない。 “白い結婚の元侯爵夫人”がどんな顔して幸せにしてるのか。 それに―― どんな女が、うちの愚かな甥より強かったのか、見てみたいもの」 そう言ってマントを翻し、 スザンヌは颯爽と屋敷を後にした。 鏡の前で帽子をかぶりながら、独り言のように言う。 「どうしようかしらね。 放っておくのも、女の意地として悪くないけど……」 指先でブローチを整え、にやりと笑った。 「会いに行くしかないわね。」 「えっ!? スザンヌ様、自ら!?」 「だって、気になるじゃない。 “白い結婚の元侯爵夫人”がどんな顔して幸せにしてるのか。 それに―― どんな女が、うちの愚かな甥より強かったのか、見てみたいもの」 そう言ってマントを翻し、 スザンヌは颯爽と屋敷を後にした。 屋敷の応接間。 時計の針が、静かに時を刻む。 テオドールは書類に目を通していたが、 ドアのノック音に顔を上げた。 「スザンヌ叔母上。 ……お帰りでしたか」 「ええ、ちょっと王都まで。 お茶を飲みにね」 軽い口調で言いながら、 スザンヌはゆ
翌日の午前。侯爵邸の玄関扉が勢いよく開く音が響き渡った。レディ・スザンヌが、紫の羽をあしらった帽子を片手に堂々と入ってくる。「執事! いますか!」慌てて姿を現した執事が深々と頭を下げた。執事「れ、レディ・スザンヌ……お戻りとは伺っておりますが……何かご用で?」スザンヌ「使用人全員を“今すぐ”集めなさい。 ひとり残らず。いいわね?」その場にいた侍女たちまで息を飲む。執事「……はっ!」屋敷に緊張が走った。いつもは静かな廊下を、召使い達が走り回る。ほどなくして、居間には使用人たちが整列させられた。⸻◆居間――尋問の場スザンヌは姿勢よく椅子に座り、扇子をテーブルに置いた。彼女の後ろには堂々と立つマシュウ卿の姿もある。スザンヌ「では―― マルグリット侯爵夫人が、この屋敷でどのように扱われていたのか。 一から、順番に答えてもらいます」使用人全員が硬直した。目線が泳ぎ、誰も口を開かない。スザンヌ「まあ……誰かが先に話せるはずよね?」重い沈黙。その沈黙を破ったのは、侍女頭だった。侍女頭「……奥様は、お部屋におこもりで……」スザンヌ「理由を聞いているのよ」侍女頭「ご主人様が戦地にいらしたので…… その……私どもも奥様のお顔を見たことがなく……」スザンヌ「それで?」侍女頭はしどろもどろになりながら続ける。侍女頭「ですので……奥様に特別お仕えすることも…… お食事は、廊下に……運んで……」スザンヌ「廊下に?」侍女頭「……お返事がない日もありましたので……」スザンヌ「返事がなければ、床に置いて戻った、と?」侍女頭は顔を青ざめさせ、うなずくしかなかった。⸻スザンヌは、扇子を“ぱちん”と閉じた。スザンヌ「あなたたち、それで“お仕えしていた”つもりなの?」誰も顔を上げない。スザンヌ「洗濯は? 掃除は? 衣服の世話は?」侍女のひとりが弱々しく答える。若い侍女「……たまに……」スザンヌ「“たまに”!?」部屋の空気が震えた。執事までも冷や汗を拭う。執事「れ、レディ・スザンヌ……まことに申し訳ございません……」スザンヌ「申し訳、とは誰に? 私に? この家に? 違うでしょう――“いなくなった奥様に”よ」沈黙。誰も反論できない。した途端、全てがバレる。⸻スザンヌは
夕暮れのリビング。レディ・スザンヌは帰宅するなり、足音も豪快に、帽子をソファに投げ落とした。「聞いて、あなた! 今日はもう、腹が立つなんてもんじゃないの!」新聞を読んでいた夫――マシュウ卿は、眼鏡をずり上げて、「また何か騒ぎかね」と静かに向き直る。「騒ぎじゃ済まないわ! あの子よ、テオドール!!」「……甥の話か。今度は何があった?」スザンヌは紅茶のポットを乱暴に置き、身を乗り出した。「王命での結婚よ? “夫婦として国を支えよ”って、あの王妃陛下までおっしゃったのに―― 結婚式もお披露目もなく、そのまま戦地へ行って、 帰ってきたら離婚されていたのよ!」マシュウは、新聞を静かに閉じた。ゆっくり、両眉が上がる。「……なんだと?」「まだよ! もっとひどいの!」スザンヌは、指を折りながら怒涛の勢いで続ける。「三年間、一度も手紙なし! 贈り物もなし! 誕生日も祝ってない! 顔も見てない! 会ったことすら、ない!!」「……会ったことが、ない?」「ないのよ! まったく! 書類の婚姻だけで、そのまま三年! で、離婚届だけ置かれて、はい終わり!」マシュウは額を押さえた。「スザンヌ…… あいつ、戦地ではどれだけ働いていた?」「さあね。でも今日、あの子の部下に聞いたわよ」スザンヌの声が、急に落ちる。「“侯爵様は、寝落ちる兵の代わりに見張りにつき、 倒れた騎士の代わりに地図を引き、 夜明けまで指揮と救護と事務を全部ひとりでやっていました” ですって」「…………」マシュウの表情が、一瞬で深く沈む。スザンヌもまた、怒りの中に痛みを滲ませた。「“侯爵様は三年間、一度も休暇を取りませんでした。 食事もまともに取らず、 手紙を書く時間があれば、誰かの傷を縫っていました” って……。 どう思う?」マシュウはゆっくり息を吐いた。「……あいつは、真面目すぎる。 愚直に、命令だけを守るのが悪い癖だ」「そうよ!」スザンヌはカップを強く握った。「でもね、だからといって―― “妻を三年も放っていい理由にはならない”のよ!」「……ああ、その通りだ」スザンヌの声は怒りと痛みが混ざり、震えていた。「戦場で死ぬ覚悟があったのかもしれない。 恋なんて自分には似合わないと、勝手に諦めていたのかもしれない。 でも――」
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