Masuk【華栄13年・10月】辺境の小城は、常に風が強かった。
奈世が康夜から離縁を言い渡される、一月前のことである。石垣の隙間から吹き抜ける風は、都のそれとは違い、乾いていて、時折砂が混ざり肌を打つ。奈世は、その風が嫌いではなかった。むしろこの土地の厳しさが、自分の生まれた家の性質そのものだと思っていた。「奥方様、本日の報告書です」侍女が差し出した巻物を受け取り、奈世は窓辺で目を通した。辺境の収穫量、駐屯兵の配備、冬に備えた物資の在庫。数字は決して楽なものではなかったが、破綻はしていない。彼女がこの城に嫁いでから3年、出自である氷室家の実務は着実に安定していた。「問題ない。このまま進めよ」「は」侍女が退室したあと、奈世は短い溜息をついた。そして、隣の部屋から聞こえてくる筆の音に、自然と耳を傾ける。永井康夜は、今朝も早い時間から軍議の準備をしていた。幼馴染であり、夫である男は、常にそうだった。必要以上に言葉を発さず、必要なことだけを淡々とこなす。その冷静さを、奈世は信頼していた。政略結婚として結ばれた当初は、互いに距離を測るような日々もあった。けれど今は、朝に短い挨拶を交わし、夜に一日の報告を済ませ、時折、同じ灯りの下で黙って過ごす——それだけで十分だと、奈世は思っていた。昼過ぎ、康夜が執務室から出てきた。「少し外を歩くか」彼にしては珍しく、誘うような口調だった。奈世は頷き、薄手の【華栄13年・11月】康夜が他所の女を屋敷に連れ込んだ翌朝、奈世と康夜の正式な離縁の手続きが側近たちから言い渡された。事務的に書状を読み上げ、奈世の面前で印章を押す。手切れ金はなし。氷室家への援助も打ち切り。辺境からの退去を命じる、と。「以上にござる。速やかに城を出ていかれよ」側近たちの声は平坦だった。誰も奈世の顔をまともに見ようとしない。かつての使用人たちも、廊下で目を逸らした。奈世は短く頷いただけだった。城門まで歩いていく途中、背後から小さな足音がした。振り返ると、康夜の妹である清夜が、青ざめた顔で立っていた。「……姉上」清夜はそれだけしか言えなかった。唇を噛み、何かを言いかけて、結局何も言わずに俯く。奈世は彼女を見て、少しだけ声を柔らげた。「清夜、もうわたくしは姉上などではござりませぬ。短い間でしたが、仲良く接してくれたこと、感謝しておりまする」その言葉に、不意に涙をあふれさせる清夜。次の瞬間、言いかけていた言葉も、彼女の口からあふれるように出てきた。「……いえ、まだ間に合います! 兄上があのような破廉恥なお振舞いをなさるとは……清夜が兄上を懲らしめて参ります!」慕っていた相手に、別れの場で“感謝”などと言われ、感情が昂ってしまったのだろうか。ただ奈世は、そんな彼女を冷静にたしなめた。「おやめなさい。わたくしはもう覚悟を決めました。世話になりましたね」最後だけは清夜にニッコリと微笑みかけると、それ以上何も言わず、前を向いて城門をくぐっていった。後ろで清夜が何か叫んだ気がしたが、風がそれをさらっていった。門の外で、すでに一人の男が待っていた。氷室家の従者・源次である。齢30を少し出たくらいの男で、刀は一通り扱える。だが気性は穏やかというより、どちらかといえば臆病なところがある。永井家に仕えていた間も、争いごとからはできるだけ距離を置くタイプだった。「姫様」源次は短く頭を下げ、奈世の荷物を黙って受け取った。「お前も一緒か。料理番としてよく可愛がられていたようだけれど、残らずともよかったの?」「いえ、元は私も氷室の人間。氷室の主と共にここを離れるのは当然です」「まあ、強がりを言って。本当のところは?」「……離れたくありません。ですが、氷室家の当主から何と言われるか。正直、
【華栄13年・10月】辺境の小城は、常に風が強かった。奈世が康夜から離縁を言い渡される、一月前のことである。石垣の隙間から吹き抜ける風は、都のそれとは違い、乾いていて、時折砂が混ざり肌を打つ。奈世は、その風が嫌いではなかった。むしろこの土地の厳しさが、自分の生まれた家の性質そのものだと思っていた。「奥方様、本日の報告書です」侍女が差し出した巻物を受け取り、奈世は窓辺で目を通した。辺境の収穫量、駐屯兵の配備、冬に備えた物資の在庫。数字は決して楽なものではなかったが、破綻はしていない。彼女がこの城に嫁いでから3年、出自である氷室家の実務は着実に安定していた。「問題ない。このまま進めよ」「は」侍女が退室したあと、奈世は短い溜息をついた。そして、隣の部屋から聞こえてくる筆の音に、自然と耳を傾ける。永井康夜は、今朝も早い時間から軍議の準備をしていた。幼馴染であり、夫である男は、常にそうだった。必要以上に言葉を発さず、必要なことだけを淡々とこなす。その冷静さを、奈世は信頼していた。政略結婚として結ばれた当初は、互いに距離を測るような日々もあった。けれど今は、朝に短い挨拶を交わし、夜に一日の報告を済ませ、時折、同じ灯りの下で黙って過ごす——それだけで十分だと、奈世は思っていた。昼過ぎ、康夜が執務室から出てきた。「少し外を歩くか」彼にしては珍しく、誘うような口調だった。奈世は頷き、薄手の外套を羽織って後に続く。城の裏手には、低い丘があった。そこから見下ろすと、辺境の集落が一望できた。畑はまだ緑を残し、遠くの山脈はすでに白いものを冠している。康夜は何も言わず、ただその景色を見つめていた。「……あなた様は、いつも先を見ておられるのですね」奈世が小さく言うと、康夜は横目で彼女を見た。「お前もだ。数字を見る目は、俺より正確だ」それは褒め言葉だった。康夜が直接誰かを褒めることは滅多にない。だからこそ、その一言は重かった。奈世は口元を緩めて、風に髪をなびかせる。「ありがとうござりまする。ただ、わたくしはあなた様ほど、大きな盤面は見られませぬ」「見なくてよい。俺が見る」短く、しかし確かな響きで、康夜はそう答えた。奈世は少しだけ意地悪く笑った。「では、わたくしが見落とした数字があったら、あなた様が責任を――」「取る」即答だった。
【華栄13年・11月】「……これが、あなた様がわたくしに見せたかったものである、と?」奈世の声は、意外なほど静かだった。広間の上段で、夫である永井康夜は別の女を腕に抱いていた。都から呼び寄せられたらしい華やかな衣装の女が、彼の胸に身体を寄せ、勝ち誇ったように奈世を見下ろしている。康夜自身は冷たい目で妻を見据え、口元に嘲るような笑みを浮かべていた。「ああ。これが現実だ」康夜の声も、また静かだった。しかしその静けさの中に、容赦のない刃が潜んでいる。急に側室を娶ったわけでもないことはわかった。正室である奈世に相談も無く、勝手にそんなことを決める男でないことも知っている。ただの女遊びであれば、堂々と妻の前に見せるものでもない。わざわざ晒すことに意味がある。次に康夜が口にするであろう台詞を悟り、奈世は目を閉じた。とても直視していられなかった。やがて康夜は口を開く。答え合わせだ。「お前とは離縁いたす。もはや邪魔だ。明日までに我が城を出てゆけ」奈世は正面の下段で、ただ座していた。予想通りの言葉ながら、巨大な岩で殴られたかのような頭痛が走った。それでも薄目を開け、もう一度、正面を見上げる。もちろん上段にいる夫に絡みつく遊女のような女の姿は幻ではなく、消えることはなかった。3年前にこの男と政略結婚をしたとき――いやそれ以前からずっと、彼女は康夜の不器用さを知っていた。感情をうまく言葉にできない男で、時に幼子のように素直で、時に残酷なまでに寡黙だ。「……さようでござりまするか」だからこそ、今この演出が——別の女を抱き、見下すように笑うこの姿が——本物だと、奈世は悟らざるを得なかった。賢い女は、抗議などしても無意味だと、すべてを受け入れた。短く息を吐き、ゆっくりと目を閉じて言う。「わかりました」その一言だけを残し、立ち上がって広間を去った。後ろで女の笑い声がした気がした。康夜の声は、もう聞こえなかった。※【華栄3年・12月】「奈世、一生のうちに、人生を何度もやり直す術があることを知っておるか」氷室家の老当主である祖父は、都への仕入れの帰り、船中でそう言った。ほとんど髷も結えぬほどに短い白髪。なのに、白い髭だけはぼうぼうと伸び、胸元までかかるほどだった