Masuk
【
※2026/9/26 15:15(JST)更新
夜になっても、城下の戸は開かなかった。番兵だけが、閉じた店のあいだを歩く。奈世の部屋は修繕途中の棟で、壁は新しい木の匂いがした。謀反人として突き出せと叫ばれたこの街での夜は、奈世にとって異様に長く感じた。連合に来て1年。慣れ親しんだ者もおるが、やはり自分は異物なのだと改めて思う。そんな夜こそ、余計に永井康夜の肌が恋しくなる。ずっとそこにいて良いと思っていた。あの男に安心を抱いていた。それが今や、この世で一番憎き相手だ。乱世の習いとは言え、あまりに無慈悲だ。ただ、それでも生きてゆかねばならぬ。異物であっても、否、異物であればこそ、ここで生きて良いという意味を、自らの力で生み出していくのみだ。眠れず、そのようなことを考えて自らを奮い立たせていると、すっかり夜も明け始めていた。夜明け前、斥候が戻った。馬の泡が多い。口上は短い。短いほど、数字が残る。「兵の動きがありまする。帝国の旗が見えました」烈焔が先に土間へ出る。待っていた男の足だ。奈世も続く。党吉は寝巻の上に鎧を引っかけ、紐が背中で解けている。源次が「紐が」と言いかける前に、半太郎が無言で結ぶ。党吉は「今のは見なかったことにせよ」と言う。誰も約束しない。土間だ。広間ではない。息が白い。「数は。言え」斥候が、一度喉を鳴らしてから出した。「少なくとも、500はおります」土間が凍る。味方の兵300に、敵の兵500。召し抱えたばかりの兵は足並みが揃わない。揃わないうえに、数も足りぬ。声明の名分でそんなに兵が集まるのか。戦支度を整えて待っていた総大将の城に、整った数の方が先に着いた。党吉が寝巻の袖で顔をこする。声が、いつもより小さい。「……樽の数なら、まだ計算できたがな。樽が500なら、俺が先に200は飲み干して減らしてやれるのだが」「今は樽の話ではない、兵の数だ。200もの兵を、酒と同じように飲み干せるなど……待て、樽でも200は無理だろう」奈世の声は平らで、平らなまま指が土間の縁を叩く。冗談を言っている場合ではないが、300と500では数が違い過ぎて、もはや真面目に語っておれるような場合でもない。彦九郎が暗がりの端から、広間より本音に近い声を出した。「それでも女を先に出せ。500が欲しいのは女だ。女を出せばこの国は守れる。守れるなら、それでよいではないか」烈焔は斥候を見て、奈世を見
都々樹に着いたのは昼だった。薄い石垣は修繕の途中で、新しい石と古い石の色がはっきり分かれている。茶の畑は半分焦げ、半分が芽を出している。森の木はまだ多い。燃えにくい木だ、と門を破った夜に言っていた木だ。残っているせいで、ここはまだ「南の都」には見えない。見えないまま、旗だけが新しい。門前には、すでに兵の気配が厚い。総大将が待っていた、という厚さだ。城下は静かだった。泥は飛ばない。子供も路地にいない。代わりに、店が戸を閉めている。看板は残っている。残っているのに中は暗い。源次が、声を潜めた。「姫様、やはり先に噂が……謀反人の女が来る、と。泥より怖い気がします。泥は払えますが、閉まった戸は払えません」「わかっておる。静かだから温い、というわけではないでしょう」党吉が店の戸を、指の背で二度叩いた。中から返事はない。あるのは、隙間から漏れる茶の匂いだけだ。「おい、閉めてどうする。戦の前に腹が減るというのに、酒も肉も売らぬのか。金ならあるぞ。あるつもりだ」半太郎が荷の陰から、通りの角を見た。「表は閉じております。裏は灯がついております。見るな、という灯です。見るなと書いてある紙の隣で、茶を売っておりますよ」「見るなと言われて見ぬ男が、間者かよ」「見ます。見ぬふりをして、よく見ます。それが仕事でござれば」門の上から、烈焔の声が落ちた。待っていた男の声だ。怒っている、というより、遅れた列を先に潰している声だった。「遅れたな。買うな。売るな。話すな。着いたばかりの謀反人が、店の前で欠伸をするな。党吉、お前だ」党吉が欠伸を途中で飲み込み、目を潤ませる。源次が「お気持ちはわかります」と小声で言い、烈焔の視線に当たって、あわてて馬のたてがみを撫でるふりをした。撫でる場所を間違え、自分の袖を撫でている。奈世は「待たせました。先に入りましょう」と言って、総大将の顔を見た。歓迎の顔ではなかった。戦支度を整えた城へ、兄の妻と、声明に書かれた女を入れている顔だった。嫌っている。嫌っているのに、待っていた。そのねじれが、目の端に出ている。※都々樹の広間は清蓮より狭い。飾りはさらに少ない。絵図が中央にあり、南が帝国、北が端毬、真ん中に朱で「都々樹」と書いてある。烈焔の字だ。下手ではない。急いで書いた字でもない。自分の城だ、と手で覚えさせている字だった。壁際には、すで
【華栄14年・11月】 あれから半年が経ち、いよいよ帝国の旗が整う音も聞こえてきた。もちろん連合側も、それをただ待ち続けていただけではない。この半年の間、領内の要所への砦の建造や、兵糧の確保、近隣諸国の侵略や調略も進めていた。 侵略や調略に関してはすべてがうまくいったわけではない。むしろ「お味方をいたす」と良い顔をする国があったとしても、戦況によってはすぐに手のひらを返すのが乱世の習いである。とは言え、帝国との戦に向け、やれることはやった。 ついに連合の本隊が端毬を発つ朝は、奈世が思ったより人が出ていた。門前に残る兵、見送る使用人、そして信焔までも門前にいる。これより始まるのは、それほど重要な戦だという意味である。 此度も総大将を務める烈焔は、先に拠点となる都々樹で戦支度を整えて待っている。奈世は先鋒ではない。読み役――つまりは軍師にも近い役職を与えられた。 数字が読めるのは奈世の強さだ。算衛門と秀久の連合軍と相見えた4月の戦とも異なる。此度の味方の兵は300。あれに比べて3倍の兵を動かさねばならぬ。数が増えれば、まとめ上げるのも難しくなる。 これより出立だというのに、責任の重さから顔を強張らせる奈世。源次も党吉も、長谷部半太郎をはじめとする氷室の間者も、すでに馬のそばにいる。党吉は、動かぬ奈世の肩をバンバン叩いた。 「緊張しておるな、軍師殿。いつものように気丈にしておれば良かろう」 「党吉……」 しかし奈世は、せっかく励ましの言葉をかけてくれたその男の頬を思いっきり引っぱたいた。 「馴れ馴れしく女子の体に触れるな! この助兵衛が!!」 「うぉ、いたたた……威勢がいいな。いつもの奥方だ、がっはっはっは!」 叩かれて笑っている。ますます気色の悪い男だと、奈世は渋い顔をする。 「我が妻よ」 と、そのやり取りを傍らで見ていた信焔は、右手を出さなかった。出しかけて、引っ込めた。党吉より、夫の方が何やら奥ゆかしい振舞いをしているように見える。手も握ってくれぬのかと思ったが、もしかして周りの目があるからか。 出会ってから約1年。党吉はますます慣れ慣れしくなっていくのに、夫とはいまだにこんな関係とは。 奈世は、思い切って|自
翌日。都の永井の屋敷は、夜でも灯が消えなかった。康夜は文机に向かい、短い文を書いていた。帝国の名で流す声明である。筆は速くないが、迷いがあるようには見えぬ。すぐに出さねばという切迫感もない、淡々とした速度だった。書き終えた文を一度だけ読み上げる。聞き役は、下段に膝をつく丹波算衛門だった。「かつて帝国に仕えた女武者・奈世は、北へ走り謀反を働いた。織部信焔の妻となり、帝国と蛮族連合の緩衝地帯であった境の小城が落ちた戦に、兵のひとりとして加担していたことがわかっている。奈世を捕え、都へ送るべし。殺してはならぬ」算衛門は顔を上げた。“元妻”とは呼ばず、家名もない。そして“殺してはならぬ”とある。「永井殿、そのように書かれた意図は――」「あの女子を俺に追放された元妻のままにしておけば、いきなり殺されるやもしれぬ。帝国側の者か、或いは帝国に寝返るようなお前のような者からな」“お前のような者”と言われ、算衛門は青ざめた。「どうした、具合でも悪いのか」康夜が真顔で尋ねてくる。松山の城で“首を奪えば良い”と口にしてしまったことは伏せていたはずだった。なぜ知られておるのか――それとも、知らぬから鎌をかけただけか。「いえ、急に疑いをかけられたようで……」算衛門はモゴモゴし出すが、腹を括って弁明した。「儂は、女子を殺めたりなどいたしませぬ……帝国では女子も尊ぶべきと存じておりますれば。謀反人は、男子であれ、女子であれ、しかるべき手続きに則って処罰するが寛容かと。ただ、儂も連合に与していた武者であれば、疑われるのも当然でござる……」「そうか。それはすまなかった」特に感情も乗せず、康夜は述べた。単に算衛門の肝が冷えただけのやりとりに終わった。康夜は文を置く。地図は見ぬ。見る必要はなかった。「文には、謀反人の女武者とも書いた。今や連合に与するひとりとして世に知らしめるためだ。そして、今は織部信焔の妻である、とも。これを無下に殺せば、蛮族連合と帝国の大戦となることを示しておる」算衛門は、康夜が何を言っておるのか今ひとつ理解に苦しんだ。追放した元妻を殺されたくないのか。未練がある……という風には見受け
帝国の都は、端毬より石が多かった。 都に構えられた、とある武家屋敷。荷車の陰から、月明かりに照らされたそれを見上げたとき、丹波算衛門は一度だけ鼻を鳴らした。彼は自ら落ち武者の恰好となり、商人の荷に紛れ、役人へ「北の内情を持っている」と言って自分を売り込んだ。 役人には境が落ちた話を披露したが、それはまだ門を通るための通行手形代わりに過ぎぬ。もっと重要な内容は、その後、目通りを願った帝国の軍師の屋敷で出す。 通された広間は静かだった。飾りは少ない。上段に座し、灯を近くに置きながら、地図を睨みつけている男がいる。それが帝国の軍師――永井康夜だった。 目は細く、肩も細い。戦場より、盤の前にいる時間の方が長い男の体だ。算衛門が想像していた「元妻を捨てた軍師」と、顔立ちは近い。違うのは温度だった。怒りもない。歓迎もない。落ち武者を値踏みする目だけがあった。 「名を申せ」 「丹波算衛門と申す。かつては連合に与し、兵糧を預かっておった者です」 「かつて、か」 「は。今はどこにも属しておりませぬ」 康夜は地図から目を上げなかった。 「俺に売る話を持ってきたのであろう。最も価値のある話から申せ」 算衛門は膝を進めた。“最も価値のある話”など、いきなり出すものか。先に出すのは、この男がすでに知っていそうな話だ。知っている話で席を温め、そのあとで内側を盛る。 「境の小城は落ち、松山秀久は死にました」 「それは都にも届いておる」 「左様でござろう」 「“最も価値のある話から申せ”と言ったはずだ。今のがそうなのか?」 間が落ちる。席が温まるどころか、急速に冷えてしまったようだ。やはり帝国の軍師……愚かな秀久のごとく楽にはいかぬ。算衛門は喉を鳴らしてから、相手の望む通り“最も価値のある話”を出した。 「では、こちらを——儂はかの小城で、永井殿のかつての奥方殿を見てござります」 康夜の指が、地図の端で止まった。 「続けよ」 「は。その女子が織部信焔の妻になったという話は都にも届いておるかと思いまするが、実情は、まだ織部信焔の正妻と認められたわけではござらぬ。杯は交わし、婚礼は執り行われましたが、形だけ。戦果を出せと試されておる最中です」 「なるほどな」 算衛門の口が、ここで緩む。 「連合も一枚岩ではござらぬ。盟主の弟
【華栄14年・4月】 境の松山秀久は死に、その領地は連合が占拠することとなった。薄い石垣の城は焼け、茶の匂いはもうしない。 清蓮城の広間では、その始末が議題になっていた。上段に信焔。一段下に烈焔。壁際に柴山克時と党吉。武者たちの視線は、絵図の南端に集まる。先月まで「境の小城」とだけ記されていた場所が、いまは黒い印で塗られている。 信焔は顎を手に乗せ、弟を見た。 「かの地は烈焔に任せる。お前もようやく城持ちだ」 烈焔は短く頭を下げた。喜びはせぬ。城を欲しがっていたわけではない。叶えたいのは、兄の側から女を遠ざけることだ。それが叶わぬ代わりに、国境の穴を任されるのであれば、それも致し方なしという目だった。 「……承知した」 克時が進み出る。絵図の端を指で押さえた。 「これでまた、帝国に一歩近づきましたな。かの地は連合と帝国の防波堤でもありました。防波堤が落ちれば、向こうも黙ってはおりませぬ。やつら、此度のことで慌て、一気に攻めてくるやも」 信焔は笑わなかった。温度のない声だった。 「むしろ待ち遠しいくらいだ。すぐにでも焼いてやる」 広間が、一度だけ動く。焼きたい、という言葉に武者たちは慣れている。慣れていても、盟主が「待つ」ではなく「待ち遠しい」と言ったことに、いよいよ帝国との戦も近いと感じられ、武者たちに緊張が走る。 一方、壁際で党吉が髭を撫でながら、 「そう言えば、奥方の姿が見えぬが」 空気を読まずに投げかけられたつまらぬ問いに、信焔の目がわずかに動く。 「伏せっておる。具合が悪いらしい」 党吉の目が細くなる。つまり、ニヤついた顔だ。 「もしや、お子では……?」 信焔の顔が、真っ赤になった。 「まだ抱いておらぬわ!」 声が、広間を叩いた。党吉が目を見開く。並んでいた武者たちもそれに習う。婚儀は昨年の12月ではなかったか。4か月も経つのに、まだ手も出しておらぬとは。 だが、誰もそれを口にはしなかった。口にすれば斬られかねない。だが目は、すでに同じ結論へ寄っている。やはり、形ばかりの夫婦なのだろうか。 烈焔だけが鼻を鳴らした。不快なのか、当然だと思っているのか、判然としない。克時は袖を払い、次の議題へ目を移すふりをした。党吉は「がっはっは」と笑いかけ、途中で止めた。盟主の耳が赤いあいだは、笑わぬ方が身のた







