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追放された辺境の妻は、敵国の女将軍になった
追放された辺境の妻は、敵国の女将軍になった
Penulis: 道中ヘルベチカ

第1話:裏切りと好奇心

last update Tanggal publikasi: 2026-08-18 23:20:40

華栄かえい13年・11月】

「……これが、あなた様がわたくしに見せたかったものである、と?」

奈世なよの声は、意外なほど静かだった。

広間の上段で、夫である永井康夜ながいこうやは別の女を腕に抱いていた。

都から呼び寄せられたらしい華やかな衣装の女が、彼の胸に身体を寄せ、勝ち誇ったように奈世を見下ろしている。康夜自身は冷たい目で妻を見据え、口元に嘲るような笑みを浮かべていた。

「ああ。これが現実だ」

康夜の声も、また静かだった。しかしその静けさの中に、容赦のない刃が潜んでいる。

急に側室をめとったわけでもないことはわかった。正室である奈世に相談も無く、勝手にそんなことを決める男でないことも知っている。

ただの女遊びであれば、堂々と妻の前に見せるものでもない。わざわざ晒すことに意味がある。次に康夜が口にするであろう台詞を悟り、奈世は目を閉じた。とても直視していられなかった。

やがて康夜は口を開く。答え合わせだ。

「お前とは離縁いたす。もはや邪魔だ。明日までに我が城を出てゆけ」

奈世は正面の下段で、ただ座していた。予想通りの言葉ながら、巨大な岩で殴られたかのような頭痛が走った。それでも薄目を開け、もう一度、正面を見上げる。もちろん上段にいる夫に絡みつく遊女のような女の姿は幻ではなく、消えることはなかった。

3年前にこの男と政略結婚をしたとき――いやそれ以前からずっと、彼女は康夜の不器用さを知っていた。感情をうまく言葉にできない男で、時に幼子おさなごのように素直で、時に残酷なまでに寡黙かもくだ。

「……さようでござりまするか」

だからこそ、今この演出が——別の女を抱き、見下すように笑うこの姿が——本物だと、奈世は悟らざるを得なかった。

賢い女は、抗議などしても無意味だと、すべてを受け入れた。短く息を吐き、ゆっくりと目を閉じて言う。

「わかりました」

その一言だけを残し、立ち上がって広間を去った。後ろで女の笑い声がした気がした。康夜の声は、もう聞こえなかった。

【華栄3年・12月】

「奈世、一生のうちに、人生を何度もやり直す術があることを知っておるか」

氷室家の老当主である祖父は、都への仕入れの帰り、船中でそう言った。

ほとんどまげえぬほどに短い白髪。なのに、白い髭だけはぼうぼうと伸び、胸元までかかるほどだった。陽光を浴びた髭が、風に揺れて白い煙のように見える。

「それはなあに? おじじ様。不老不死の薬でもあるのでござりまするか?」

当時の奈世は10歳。先祖譲りの赤い目。そして母と同じ木炭のような黒髪はおかっぱにし、膝を揃えて座る彼女の前で、祖父は胡座あぐらをかいている。

祖父はカッカッカと豪快に笑った。髭が波打ち、短い髪まで揺れるほど。

「そのようなものは存在せぬし、そもそも不要じゃ。もっと身近なもので出来る」

「身近なもの……ますますわかりませぬ」

怒ったように言う孫に、祖父はまた笑いながら答えを示す。

「“しょ”じゃ。“書”を読むことじゃ」

と、祖父の手には、異国の歴史学者・宗亮そうりょうが記したとされる書物が掲げられていた。挿絵付きで、子供でも読みやすいと巷で評判の一冊。それも今回、都で買い求めたものの一つだった。

「“書”? ……なあんだ、本でござりまするか」

心底ガッカリしたように奈世は言う。もっとワクワクするような答えがあると思ったのに。そんな奈世の態度を𠮟りつけるように、白髭の年寄りは続けた。

「なあんだとはなんだ! “書”にはな、いくつもの人の人生が刻まれておる。それを読むことで、まるでその者の人生を体感するような気分が味わえるのじゃ」

“気分”……もっと画期的な何かだと思ったのに。早くも祖父の話に興味を失いかけた奈世だったが、老人はそんな孫の様子を知ってか知らずか、話を続けた。

「書いた者の経験だけでなく、知識も取り入れられる。“書”を読むことからは、数多あまたの学びを得ることができる」

奈世は少し首をかしげた。

「確かに本を読むことは、わたくしも好みまする。ただ最近は槍や刀のお稽古ばかりで、本を読む時間があまり取れぬのです」

「そりゃあいかんな」

と、祖父が首を振るたび、白い髭もまるで生き物のように左右に揺れる。

「今は乱世。生きるために戦う術を学ぶことも大事じゃ。だが、同時に“書”も読まねばいかん。そこには沢山の先人の知恵が描かれておるからな」

「先人の、知恵」

おうむ返しに奈世は言う。

「お前も大事な人生の選択を迫られる時が来よう。そんなときに後悔なく、選択を間違わぬようにするためには、“書”から学びを得ることこそ大事じゃぞ」

「わかりました、おじじ様。ちゃんと読みまするから、髭をそんなに揺らすのはおやめくだされ。見ていると、船酔いしそうで……」

祖父はまたカッカッカと笑い、髭をわざと大きく揺らして見せた。

【華栄13年・11月】

唐突に言い渡された、夫からの離縁。気持ちが定まらない中、奈世は自室にこもり、出ていくための身支度を進めていた。

泣き出したい気分だったし、あの女に殴りかかりたい気持ちもあった。けれどそれをせずに、あまりに冷静に事実を受け止めている自分もいる。

まるで心が二つあるようだ。だが、今はどちらかと言えば冷静さの方が上回っている。

幼い頃から、やりたいと思うことには一直線だった。たびたび武具の仕入れのために都に向かう祖父に、何度も付いて行った。都は遠いし、途中で賊に遭うかもしれない、危険だと言われても、絶対に行くと言って聞かなかった。

「カッカッカ! 豪胆な子だ。良い、ならば連れて行ってやる。なぁに、儂もまだまだ現役よ。賊なんぞ現れても、この拳一本で追い払ってやるわい」

そう言う祖父は頼もしかったが、3歳の頃から武家の娘として武芸を叩きこまれていた。10歳になる頃には、大人相手にも対等に戦える力と技量を身に付けていた。

すべては好奇心だった。政略結婚とは言え、永井康夜と結ばれたのも、軍師としての彼の力量に惹かれたからだった。夫婦として末永く添い遂げたいという気持ちより、彼の才覚を近くで見たいという気持ちの方が強かった。

その軍師に裏切られた。ならば、やることは決まっている。世の女子おなごたちのようにめそめそと哀しんでいる暇などない。

――訂正しよう。今、奈世の感情として、“どちらかと言えば冷静さの方が上回っているようだ”と評価したのは誤りである。

奈世の手にあるのは、宗亮の歴史書。開いたページに描かれていたのは、夫に離縁された異国の姫君が、元夫を焼き殺す絵だ。

“復讐”。

いま奈世の心に刻まれているのは、その2文字であった。

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