私は神崎蒼介(かんざき そうすけ)に4年間片思いをしていた。
彼の初恋相手が海外へ渡った後、彼から結婚を申し込まれた。
結婚後も、私に対する蒼介の態度は常に冷淡だった。
平凡な日々こそが幸せなのだと、それに私たちには子どももいるのだからと、自分に言い聞かせてきた。
しかし、私が火災で命を落としかけ、お腹の二人目の子どもを失ったその時、あの親子は海外で彼の初恋相手の誕生日を祝っていたのだ。
死の淵を彷徨った時、私はようやく悟った。私のものにならない人は、永遠に私のものにはならないのだと。
……
「これ、離婚届。今すぐ書いて」
蒼介は私の向かいに座り、私が冗談を言っているのではないかと探るように、じっとこちらを見つめていた。
「思いつきで行動するのはやめろ。離婚がそんなに簡単なものだと思っているのか?
それに、俺たちには湊がいるだろう?」
神崎湊(かんざき みなと)は私と蒼介の子どもで、今年で5歳になる。
これ以上彼と関わりたくなかった。
「親権は譲るわ」
私が本気であることにようやく気づいたのか、蒼介は口調を和らげた。
「今回の出張は確かに少し長引いたが、仕事の都合なんだ」
彼は、自分が3ヶ月も家に帰らなかったから私が拗ねているのだと思っている。
1ヶ月前、私がショッピングモールでの突然の火災に巻き込まれ、試着室に閉じ込められていたことなど、彼は知る由もない。
黒煙に巻かれて激しく咳き込み、耳元で鳴り響く火災報知器と悲鳴で鼓膜が破れそうだった。
死の恐怖が迫る中、私は最後の力を振り絞って蒼介のスマートフォンに電話をかけた。
最後に、彼の声が聞きたかった。
通話が繋がると、向こうから冷淡で落ち着き払った声が聞こえてきた。
「今忙しい。後にしてくれ」
私が言葉を発せられないでいると、電話は一方的に切られた。
その直後、見知らぬ番号から1枚の写真が送られてきた。
水瀬莉子(みなせ りこ)だ。
写真の中では、蒼介と莉子が肩を並べて座り、息子の湊は顔に生クリームを塗られ、二人の前で楽しそうにピースサインをしていた。
蒼介の出張がなぜこれほど長引いたのか、ようやく理解した。
初恋相手の誕生日を祝うためだったのだ。
私の心はすっかり冷え切った。外で火の手が拡大し続けるように、心の絶望も燃え広がっていった。
意識を手放しかけた時、ようやく火が消し止められた。
一命を取り留めたものの、病院で目を覚ました私に医師が告げたのは、私が妊娠3ヶ月だったという事実だった。
残念ながら、お腹の子は助からなかった。
私の腕には、恐ろしい火傷の跡だけが残された。
これ以上、蒼介と無駄話を続ける気はなかった。
「サインするの?しないの?」
蒼介は私の無頓着な態度に苛立ったようだ。
「涼宮澪(すずみや みお)、言っておくが、後悔するなよ!」
そして、当てつけのようにペンを手に取ると、離婚届に自分の名前を書き殴り、強く判を押した。
乱暴な筆跡を見て、私はホッと胸を撫で下ろした。
あらかじめ荷物をまとめておいたスーツケースを手に取り、外へ向かう。
「ママ、どこへ行くの?」
昼寝から起きたばかりの湊が、目を擦りながら尋ねてきた。
ごまかすつもりはなかった。彼は父親の知能を受け継いでおり、子供離れして賢い。
「パパとママは離婚したの。もうここには戻らないから、自分のことは自分でしっかりやるのよ」
目の前にいる5歳の小さな男の子を見下ろしていると、あの日の電話越しに聞こえた無邪気な声が蘇ってきた。
「莉子さん!すっごく綺麗だね、僕、ママを替えてもいい?莉子さんに僕のママになってほしいな!」
電話が切られたため、莉子がどう答えたかは分からない。
親子揃って、女の趣味は同じというわけだ。
ふと我に返り、最後に息子を一瞥した。
火災で失った2番目の子どものことが頭をよぎる。
これからは、私とあの親子に何の繋がりもなくなる。
私はスーツケースを引きずり、神崎家を出た。
わずかな荷物を抱え、私は一人で水穂市(みずほし)へとやってきた。
水穂市は自然豊かで美しく、何より私の嫌いな人間がいない。
早速職探しを始めた。
大学ではメディア学を専攻し、成績も常にトップクラスだった。
しかし、就職活動は難航した。実務経験のない元専業主婦を正社員として雇う企業など、今にはそう多くない。
それでも最終的に、ある出版社の面接を通過した。
奇遇なことに、そこは私が大学時代に内定をもらっていた会社だった。
大学1年生の時、私は蒼介に一目惚れし、それ以来猛烈なアプローチを続けていた。
蒼介は経済学部のクールなプリンスと呼ばれており、私だけでなく、誰のことも相手にしていなかった。
当時の私は、彼は全ての女子に対して平等に冷たいのだと自分を慰めていた。
大学3年生になり、彼が外国語学部の莉子と付き合い始めるまでは。
2年の月日が流れ、私はとうに彼への好意を心の奥底に封印していた。
ちょうど就職活動の時期で、私はその出版社からの内定を受諾した。
だが、新天地への出発を目前に控えた時、蒼介から着信があるとは夢にも思わなかった。
あの日、アパートの外では蝉がけたたましく鳴いていたが、私には自分の激しい心臓の音しか聞こえなかった。
耳元に響くのは、電話越しの蒼介の冷ややかな声だった。
「澪、俺と結婚しないか」
後になって知ったことだが、その日は莉子が海外へと旅立った日だった。
運命の歯車は、最終的に元の位置に戻るようになっている。
5年後、私は結局一人で水穂市にやってきた。
かつて手放した仕事に就き、当時夢見ていた記者になることができた。
……
それから1週間しか経っていないのに、蒼介からLINEが届くとは思わなかった。
【もうすぐ秋の発表会だ。湊の幼稚園で劇をやって、湊も主役をやるんだけど、見に来ないか?】
どうでもいい話題を振ってきた。
離婚する前なら、こんな子どもの行事に蒼介が関心を寄せることなどなかったのに。
私は短く返信した。【行かない】
蒼介は私の冷たい態度に腹を立てたようだ。
【君が行かなくても、俺と一緒に行きたがる奴はいくらでもいる!】
返信する気にもなれなかった。頭がおかしいんじゃないか。
湊が幼稚園に入園した最初の年、父親参加の親子競技があるからと、蒼介に運動会に来てほしいと頼んだことを思い出した。
あの時、蒼介は露骨に面倒くさそうな顔をした。
「君が行けばいいだろう。俺は仕事が忙しくて、そんなところに行っている暇はない」
そう言い捨てて、私の言葉を待つこともなく、そのまま書斎へと上がってしまった。
幼稚園からどうしてもと求められていなければ、私もわざわざ彼に頼んで嫌な思いをしたりはしなかった。
結局、湊が周りから可哀想な目で見られないよう、私一人で参加した。
会場で唯一の母親として私は懸命に父親向けの競技に参加し、最終的にはそこそこの順位を勝ち取った。
しかし、その夜帰宅した湊はひどく不機嫌だった。
どうしたのかと尋ねると、彼は膨れっ面でこう言った。
「他の子はみんなパパが来てるのに、ママが来るなんてすっごく恥ずかしかった!」
まさか小さな子どもが、こんなにも人を傷つける言葉を口にするとは思わなかった。
あろうことか、湊は自分の父親が来なかったことには何の疑問も抱かず、ひたすらに私に怒りをぶつけ、私が彼の面子を潰したのだと考えていたのだ。
今思えば、まだ幼い湊が父親とそっくりな性格をしていることは、あの時からすでに兆候が見えていた。
傲慢で身勝手で、他人の苦労など微塵も理解しようとしない。
発表会の前日、見知らぬ番号から着信があった。
「澪さん?水瀬莉子です」
私は少し驚いた。「何かご用ですか?」
「いいえ、ただちょっと聞きたくて……湊くんに何かアレルギーや食べられないものはある?彼をご飯に連れて行くんだけど、お腹を壊したりしたら大変だから、お母さんであるあなたに聞いておこうと思って」
「お肉は牛肉しか食べません。他のお肉は口にしないけれど、野菜はなんでも食べます」
私は少し間を置いて付け加えた。
「ステーキはミディアムレアじゃないと食べません」
「わかった、全部覚えておくわ。今日、蒼介と一緒に湊くんの発表会を見に行くの。動画を撮ったから、あなたも見たい?」
やけにお節介な口調だった。
「結構です。そういうのには興味ないので」
私が言い終えるか終わらないかのうちに、電話の向こうから湊の声が聞こえてきた。
「莉子さん、僕のママとの電話終わった?お腹すいたよ、ご飯食べたい」
莉子は優しく穏やかな声で言った。
「湊くん、ママとお話しする?」
「ううん!僕、ママのこと嫌いだもん。ママはいつもアイスクリームを食べさせてくれないから」
電話の向こうから、湊がアイスを舐める音が聞こえてきた。
「僕、莉子さんのこと大好き。莉子さんが僕のママになってよ!」
通話はそこでぷつりと途切れた。
この言葉を聞くのはもう2度目だ。
あの時は死ぬほど悲しかったが、今再び耳にしても、私の心は凪いだ水面のように静まり返っていた。
莉子のこの電話は、彼女とあの親子との関係が、実の母親である私よりもすでに強固であることをまざまざと見せつけるためのものだ。
なんだか滑稽に思えた。
湊は早産で、生まれた時は手のひらに乗るほどの小ささだった。
当時、保育器に入る我が子を見つめながら、私の心は愛おしさでいっぱいになった。
アイスクリームを食べさせなかったのは、彼が元々体が弱く、冷たいものを食べるたびに胃腸炎を起こして辛い思いをしていたからだ。
しかし、子どもの目から見れば、私は単なる「意地悪なママ」になっていた。
幼稚園の保護者向け非公開インスタを開くと、タイムラインが更新されていた。
一番上にアップされていたのは、蒼介と湊、そして莉子のスリーショットだった。
私は無表情で「いいね」を押し、スマートフォンを置いて深い眠りについた。
シルバーウィークの連休初日。
離婚してから初めて、私一人で過ごす休日だった。
以前は季節のイベントがあるたびに、私は早くから家の飾り付けを始めていた。
蒼介も湊も煩わしいことが嫌いだったが、私は好きだったのだ。
家の中を季節に合わせて飾り付けることで、家族の温かみを感じられるのが好きだった。
だからこの日、私は自分のためだけに一日のスケジュールを綿密に立てた。
午前中は駅前のデパートで仕事用のスーツを数着新調し、お昼は高級フレンチを楽しんだ。
午後は、ずっとやってみたかったバンジージャンプを体験しに行った。
かつて私は神崎家の嫁であり、専業主婦として家を守り、良妻賢母として振る舞うことを求められていた。
離婚という束縛から解放された今、私はようやく本当の自分を取り戻したのだ。
蒼介がまた自分の存在をアピールしてきた。
珍しいことに、彼からお金が送られてきて、メッセージには「これで美味しいものでも食べてくれ」と書かれていた。
笑ってしまう。
結婚していた頃は、私がイベントごとを祝おうとしても面倒くさがり、決して付き合おうとはしなかったのに。
離婚した途端、元妻の機嫌を取るような真似は面倒ではないらしい。
男というやつだ。
最近、蒼介は頻繁にメッセージを送ってくる。
【このネックレス、気に入ったか?好きなら、秘書にオークションで落札させるが】
【ここ数日、潮見市(しおみし)はずっと雨だけど、水穂市も雨か?】
【寒くなってきたから、風邪ひかないようにしろよ】
【湊の奴がこんなに偏食だとは、今まで気づかなかったよ】
【俺も湊も、少し君に会いたい】
……
蒼介が珍しく下手に出ている。彼はきっと、自分がとても誠実だと思っているのだろう。
しかし彼は知らない。彼がこうしたメッセージを送ってくるのと同時に、莉子もまた、自分と彼らの近況を逐一私に送りつけてきていることを。
レストランで食事をして、テーマパークで遊ぶ。
私と蒼介は5年も結婚していたのに、ツーショットの写真は1枚もなかった。彼は写真に撮られるのが嫌いだと言っていたからだ。
なのに、この数日だけで私は十数枚もの写真を受け取った。どうやら、私と一緒に撮るのが嫌だっただけらしい。
本来なら蒼介など相手にしたくなかったが、私は莉子から送られてきたスリーショットの写真を、そのまま蒼介のLINEに転送してやった。
送信した後、彼から送られてくるであろう弁明のメッセージは未読のまま放置した。
スッキリした。こういうしっぺ返しは大好きだ。
だが思いがけないことに、翌日、仕事帰りの道で私は蒼介の姿を目にした。