その言葉に、すみれの目には嫌悪の色が走った。彼女は静かに瞼を閉じる。「もう、あの人の顔なんて見たくない」蓮は看護師に軽く頷き、淡々と告げた。「分かった。任せてくれ」そして布団の端を丁寧に直しながら、彼女の耳元で囁いた。「大丈夫だ。すべて僕に任せろ。君は安心して療養していればいい」すみれは小さく頷いたが、目尻からは一筋の涙がこぼれ落ちた。この茶番は、もう終わらせたい。日が経つにつれて、すみれの身体は徐々に回復していった。やがて退院の日。蓮と美智子が揃って迎えに来た。美智子の姿を見た瞬間、すみれは思わず気まずそうに目を伏せる。あの結婚式で、あんな大騒ぎになったのだから。ところが次の瞬間、美智子は涙を浮かべて飛びつくように彼女の手を握った。「すみれちゃん!無事でよかったわ!」彼女はすみれの全身を見回し、哀れみをたたえた瞳で告げた。「こんなに痩せて……」そして容赦なく蓮を睨みつけ、声を尖らせた。「あなたが事故に遭ったっていうのに、あの子は一言も私に教えないなんて!毎日気が気じゃなくて、何度も問い詰めたんだからね!」美智子のおかげで場の空気は一気に和らぎ、すみれは思わず笑ってしまった。「おばさん、蓮を責めないでください。心配させたくなかっただけです」「そうだよ。伝えてたら、きっと食事も喉を通らなくなるだろうからな」蓮も相槌を打つ。「それにしても……まだ『おばさん』呼ぶの?」美智子がわざとらしく唇を尖らせた。すみれは一瞬戸惑ったが、次の瞬間、恥じらうように小さく呼んだ。「……お義母さん」その言葉に、美智子の顔は一気に綻んだ。「いい子ね!」蓮の口元にも、自然と笑みが浮かんだ。――その時だった。「すみれ……」杖にすがりながら、蒼白な顔をした遼介が隣の部屋から歩み出てきた。彼はすみれの前に立った瞬間、力尽きるように膝を折り、床に崩れ落ちた。「すみれ……ごめん……」瞼を閉じれば、必ずあの日の悪夢が甦る。自分の運転で、彼女を殺しかけた光景が。だがすみれの心には、もはや一片の揺らぎもなかった。「必要ない。あなたを許さない」冷然と告げると、すみれは蓮と美智子に支えられ、そのまま病院を後にした。床にひとり取り残された遼介は、哀れに膝を折ったまま動けずにいた。その行為は、ついに蓮の怒りを決
すみれの世界はぐらりと揺れ、耳元では風の唸りとエンジンの轟音が渦を巻いていた。直後、甲高いブレーキ音と激しい衝突音。視界は一瞬で闇と混沌に飲み込まれた。「すみれ、危ない!」その刹那、遼介が本能のままに彼女を抱き寄せ、身体で覆い隠す。頭の奥をつんざく耳鳴り。すみれは必死に頭を抱えたが、目の前は白く染まり、何も見えなかった。蓮が車で追いついたとき、目に飛び込んできたのは、無惨に変形した車だった。「すみれ!」蓮は声が枯れるほど叫び、荒れ果てた道路にその声が響き渡った。彼は我を忘れて駆け寄り、震える手で歪んだドアをこじ開ける。そこで目にした光景に、心臓を刃で抉られたような痛みが走った。遼介の腕に抱かれたすみれはぐったりと頭を垂らし、純白のドレスは鮮血に染まり、無惨に赤へと変わっていた。「すみれ……すみれ、頼む、目を開けてくれ……」声は嗚咽にかき消され、蓮の足は力を失い、崩れ落ちそうになる。それでも彼は必死に彼女を抱き上げ、涙を止めることができなかった。そこへ専用機の乗員たちが駆けつけ、すみれの姿を目にして思わず息を呑む。「早く病院へ!」蓮の血走った瞳は恐怖に支配され、声は掠れていた。「は、はい!」パイロットはすぐに先導したが、遼介の姿を見て思わず振り返った。「社長、あの人は……」蓮はちらりと視線を投げただけで冷たく言い放つ。「救急車を呼んで運べ」手術室の前、赤いランプが点滅し続ける。蓮は焦燥に駆られ、廊下を何度も行き来していた。脳裏に浮かぶのは、蒼白に染まったすみれの顔と、血で暗く染まったウェディングドレス。一分一秒が、彼にとっては耐え難い苦痛だった。その間も中では医師の声が飛び交う。「クランプ……スカルペル……」すみれの意識は闇の中を漂い、必死に目を開こうとしても瞼は重く閉じたまま。息をするのも苦しく、縫合の音までもが生々しく耳に届いた。「患者に反応あり!」誰かの声と同時に、全身に激しい刺激が走る。すみれはうっすらと瞼を持ち上げた。「成功だ!」安堵の声を聞いた瞬間、彼女は力尽きるように再び意識を手放した。夜明け近く、ようやく手術室の扉が開いた。「先生!妻は、すみれはどうなんですか!」蓮が飛びつくように尋ねる。医師はマスクを外し、安堵の笑みを浮かべ
「すみれちゃん!」美智子が慌てて立ち上がった。会場にざわめきが走る中、遼介は得意げに蓮を見やった。「篠原、この勝負はお前の負けだ」だが蓮は彼を無視し、すみれの手を強く握りしめ、口の動きで伝えた。心配するな、必ず何とかする。すみれは一瞬驚いたが、すぐに小さく頷いた。「……待ってる」そう言ってから振り返り、遼介を真っすぐに見据える。「あなたについて行くわ。でも、その代わり、両親の無事を保証して」「心配するな。神谷家に戻れば、すぐに秘書に放してもらう」遼介はそう言うと、すみれの腕を乱暴に引き、大股で会場を後にした。「乗れ」副座席のドアを開け、すみれをシートに縛りつける。ドアを乱暴に閉めると、自分もハンドルを握り、車を急発進させた。強烈な加速に胃が浮き上がり、すみれは思わず吐き気を覚える。「あなた、狂ってる!」遼介は平然とネクタイを緩め、口の端を歪めた。「そうさ。君が俺を捨てて、他の男と結婚するなんて思うだけで、俺は気が狂いそうになるんだ」その眼差しには、異様な執念が燃え盛っていた。「すみれ……君が俺を惹きつけたんだ。愛させたのは君自身だ。今さら逃げられると思うな」「愛?」その言葉を聞いた瞬間、すみれの目から涙がこぼれた。だが、その表情はどこか嘲るようでもあった。「あなたに愛なんて分かるの?私が愛していた頃、あなたの頭の中は紗英さんでいっぱいだった。今さら『愛してる』なんて、笑わせないで」すみれがぽろぽろと涙をこぼすのを見て、遼介の声は思わず和らぐ。「すみれ……俺が悪かった。だから、これからは倍にして君を大事にする」一方その頃、式場では美智子が焦燥のあまり息を荒げていた。「どうするの、蓮!早くすみれちゃんを取り戻して!」「大丈夫だ、必ず連れ戻す」蓮は彼女の手を優しく叩いてから、すぐに警察へ通報し、さらに自分の人脈を総動員してすみれの両親の行方を探させた。次に、篠原家の専用機のパイロットへ電話をかける。「すぐに車のナンバーを送る。飛行機を飛ばして追跡してくれ」手配を済ませると、自ら車に飛び乗り、アクセルを踏み込んだ。――夜の道路を、遼介の車が猛スピードで駆け抜ける。バックミラーに、ぴたりとついてくる赤いフェラーリが映る。「ほう……面白い」遼介の口元が不気味に歪む。
ついに、すみれと蓮の結婚式の日が訪れた。結婚式場は色とりどりの花々で飾られ、華やかな空気に包まれている。すみれは控室の窓辺に立ち、何度も入口の方を振り返った。式はもう始まるというのに、沢井家の誰一人、姿を見せていなかった。胸騒ぎがして、まぶたが小刻みに震える。そんな彼女の肩に、温かな手がそっと置かれた。「緊張してる?」振り返ると、蓮が心配そうに見つめている。「大丈夫」すみれは無理に笑みを浮かべた。やがて式が始まっても、沢井家の席は空いたままだった。すみれは皮肉げに唇を歪める。「来ないなら来なくていいわ。私はひとりでも平気」ブライダルマーチが鳴り響いた瞬間、彼女は深く息を吐き、鏡に向かって微笑むと、ブーケを抱いてゆっくり歩み出した。参列席に座る美智子は、すみれの姿を見た途端、涙で目を潤ませた。両手を合わせ、声にならぬ祈りを捧げる。「あなた、見えてる?今日、私たちの息子がすみれちゃんと結婚するのよ。この子は本当に幸運な子だわ……最初に会ったときから、心から好きになったの」そのとき――「蓮!」背後から名を呼ばれ、蓮は振り返った。そこにはウェディングドレスをまとったすみれ。あまりの美しさに息をのむ。ずっと知っていたはずなのに、改めて見た彼女は眩しすぎて視線を奪われた。「すみれ」声が震えていた。神父が二人の前に立ち、笑顔で二人の手を取り上げる。「それでは、新郎新婦、指輪を交換してください」蓮がケースを開き、幸せそうにすみれの手を取った――その瞬間だった。荘園の門が勢いよく開かれ、鋭い声が会場を切り裂いた。「篠原社長、ひどいじゃないですか。結婚式に招待もしてくれないとは」振り向いた全員の視線の先にいたのは、タキシード姿の遼介だった。壇上で固く手を取り合うすみれと蓮を見た途端、その瞳は嫉妬に狂気を帯びる。「すみれ……俺と一緒に来てくれ。一生大事にするから」会場はざわめきに包まれた。誰かが小声でつぶやく。「……あれ、あの神谷社長じゃない?恋人に捨てられたって噂の」その言葉で空気が一気に変わった。視線が一斉にすみれへと向けられる。「じゃあ、すみれさんって……神谷社長の元カノ?」すみれの表情が冷えきった。「遼介……あなた、正気なの?」遼介の目は血走り、声は狂気
お手洗いから戻ったすみれは、さっきまで席にいた遼介の姿がないのを見て、長く息を吐いた。あのしつこさを思い出すだけで、胸の奥が重くなる。「ほら」蓮が切り分けたステーキを彼女の前に置いた。「食べよう」「ありがとう」すみれは微笑んで言った。「でも、私ばかり気にかけないで。蓮もちゃんと食べて」「……ああ」蓮は短く答え、その後の食事中、ほとんど口を開かなかった。すみれは不思議に思い、何度も彼を横目でうかがった。帰り道も、彼はずっと黙り込んでいた。「どうしたの?」すみれは違和感に気づく。「遼介に何か言われたの?」蓮は首を振り、彼女の髪を撫でた。「いや、何でもないよ。少し一人にさせて」家に着くと、蓮は酒の瓶を持ってそのままバルコニーへ出ていった。遼介の言葉が耳から離れない。「すみれが俺をどれだけ愛していたか知っているから。見つけた瞬間、彼女はお前なんか要らなくなる。それが怖いんだろ?」胸の奥で渦巻いていた苦い嫉妬が、この瞬間いっきに頂点へと達した。彼は酒をあおり続け、酒でどうにか心のざわめきを押さえ込もうとする。月光が彼の肩に降り注ぎ、その背中はひときわ寂しげに見えた。「変なの」すみれは小さくつぶやいた。昔は口数の少ない人だったのに、一緒に暮らすようになってからは一番よく話すようになった。なのに、今日はまたあの頃に戻ったみたいだ。ため息をつき、彼女は静かに背後に立った。「どうしたの?レストランから戻ってきてからずっと様子がおかしい」頬に赤みを差した蓮は、じっとすみれを見つめた。押し込めていた感情が、一気に溢れ出す。「すみれ……神谷遼介が言ったんだ。君は昔、彼をとても、とても愛していたって」その声はかすれ、どこか切ない響きを帯びていた。「僕は……それが苦しい。嫉妬してしまうんだ。君があれほどまでに好きだった相手に」すみれと遼介の過去を、蓮は秘書から耳にしただけだった。人にはそれぞれ過去がある。そう何度も自分に言い聞かせてきた。今、すみれが自分の隣にいる。それだけで十分だと。けれど、彼もまたただの人間だ。二人がかつて深く愛し合っていたと知れば、どうしても嫉妬せずにはいられない。「すみれ……あの時、神谷がウェディングドレスを見に来たろう。あれを見たとき、僕は本当に怖かったんだ。君が彼に言
すみれの誕生日当日、蓮はわざわざ雰囲気のいいレストランを貸し切っていた。「すみれ、こっちだよ」蓮が彼女の手を引いて中に入る。店内は柔らかな灯りと、心地よい音楽が流れていて、穏やかな空気に包まれていた。蓮は椅子を引き、彼女が腰を下ろすのを待ってからメニューを手渡す。「何を食べたい?」すみれは気まぐれにページをめくり、いくつかの看板料理を頼もうとしたその時、店の外から騒ぎ声が響いた。「お客様、本日は貸切です。どうしてもお入りいただけません」「俺の彼女が中にいるんだ。ちょっと見るだけでいい!」次の瞬間、遼介が強引に入ってきて、遠慮もなく席を引き椅子に腰かけた。「篠原様、こちらは……」と慌てる店員に、蓮は軽く首を振る。「大丈夫だ。下がってて」蓮は眉をひそめ、遼介を睨んだ。「お前、本当にしつこいな」だが遼介は無視して、すみれに笑顔を向けた。「すみれ、誕生日おめでとう。俺からのプレゼントだ」そう言って取り出したのは、ピンクダイヤのジュエリーセット。ネックレスからイヤリング、指輪まで揃った豪華な品だった。「この前、オークションで君が『綺麗だ』って言ってただろ?だから落札したんだ」期待を込めて彼女を見つめる。「どうだ、気に入ったか?」すみれの瞳は冷ややかだった。あの時、本当は欲しくてたまらなかった。けれど遼介の身体を気遣って、無駄遣いさせまいと諦めたのだ。なのに彼は、紗英を喜ばせるために60億円もするティアラを平然と競り落とした。「くだらないな」蓮が鼻で笑った。「こんな物を持ち出して恥をかくなよ」遼介の胸に怒りが込み上げたが、必死に抑え込み、蓮に問いかけた。「じゃあ、お前は彼女に何を贈るんだ?」蓮が手を叩くと、店員が一つの箱を運んできた。中には虹色にきらめく光を放つネックレスが収められている。「すみれ、誕生日おめでとう」一目で分かった。それは篠原家に代々伝わる宝飾品だった。市場には出回らない、価値の付けられない逸品だ。「こんな高価なもの……」すみれは驚きながらも受け取った。遼介からのジュエリーセットすべてを合わせても、このネックレスの十分の一にも満たない。「ただのネックレスだよ。いずれ君のものになる。母さんが君にバングルを渡しただろう?僕がこれを贈るのは、篠原家がずっと君の家