夜の街。 ビルの隙間から覗く月が、不自然なほど白く滲んでいた。梨央は、自宅マンションのベランダに出たまま、スマホを手に考え込んでいた。 さっきまで真一と交わした会話が、胸の奥で何度も反芻されていた。「その夢……君も見てたのか」 「白い神殿、祭壇、赤い空。そして、君の名前……“ナフィーラ”って」あのとき、心臓が止まりそうになった。彼が言ったその名前。 それは、梨央が何度も夢の中で呼ばれていた名前だった。「ナフィーラ……私は……誰?」ひとり呟いたその声が、夜気に溶ける。 風が冷たくなり、肩を抱きしめた。その夜、梨央はいつもより早くベッドに入った。 何かに導かれるように。そして、その日を境に―― ふたりは再び神に導かれ、この輪廻の世界へと還っていく。忘れられた記憶、癒えぬ傷、誓いの断片―― それらすべてを、もう一度「生きる」ために。夢の中。目を開けた瞬間、眩しい光に包まれた。 見慣れない空。まるで太古の風が肌を撫でる。 聖なる水面が広がる河。白い石で築かれた神殿。(ここは……どこ?)足元を見ると、白い衣が揺れている。 指先には月の紋章が彫られた祈り珠。 空を見上げれば、月が、神のように静かに輝いていた。「……ナフィーラ」誰かの声が呼んだ。 懐かしくて、痛いほど愛しいその声。振り返ると、そこに立っていた。銀の鎧。 まっすぐな黒髪。 瞳に熱を宿した男。(……カイム)その名が、自然と胸に浮かんだ。 忘れていたはずの記憶が、魂の底からあふれ出す。彼の姿。 彼の声。 彼と過ごした、あの穏やかな日々。***過去の世界――セナトラ王国。ふたりは、そこに立っていた。空は高く澄み渡り、聖河ナーイルは穏やかに輝いていた。 大理石の柱が連なる神殿からは、香の煙が風に乗って漂っている。 そこは、神と人がまだ地上で語り合っていた時代。 命と祈りが世界を支えていた、始まりの王国。ナフィーラとカイム。 ふたりの魂は、この場所で、神によって結ばれた。神託はこう告げた。「月の光に生まれしふたつの魂は、契りを交わし、王国と神託の未来を繋げん」「ふたつの命が交わる時、聖なる再生の扉が開かれるであろう」ナフィーラは王族の血を引く巫女、 そしてカイムは、神殿の巫女を守るために生を受けた「契約の騎士」。ふたり
夜、梨央は再び夢の中にいた。そこは――セナトラ王国の聖地、セレイナ神殿。 神の御座の間に近い祭壇には、破壊された供物台。 血の染み込んだ石床。燃え残った香がまだ燻っている。ナフィーラは、祭壇の前で祈っていた。 女神セレイナの神託を、命と引き換えに護る覚悟を胸に――。「この血で、未来が開かれる。されどその代償は、ふたつの魂の断絶――」その神託の直後、神殿の扉が破られた。炎と鉄の香り。 ヴァルカス帝国の兵たちが、異教の神を焼き払うべくなだれ込む。そして――その先頭に、彼がいた。「カイム……」ナフィーラの瞳が揺れる。彼はセナトラの戦士だったはず。 彼女を守るはずの“守護者(カイム)”が、今はヴァルカスの軍装を纏っている。(裏切ったの……?)しかしその目は、痛みを宿していた。 剣を抜き、仲間の兵士を斬り捨てながら、彼は叫ぶ。「ナフィーラ! 俺を信じろ! 逃げろ、今すぐ!」だが、彼女は一歩も動けなかった。 女神の神託を裏切ることは――王族の血を引く巫女として、許されない。「私には……ここを離れられない。これは、私の定め」カイムは目を見開いた。 そして、剣を自らの胸に向ける。「ならば、俺の血で――この呪いを断ち切る」「やめて……カイム!」悲鳴が木霊する。 その瞬間、彼は笑った。寂しげに、愛おしげに――「お前の未来に、俺の命を託す」刹那、光が走った。 彼の身体が崩れ落ち、血が石を濡らす。ナフィーラはその場に崩れ落ち、彼の名を何度も呼んだ。梨央:「……セナトラ……セレイナ神殿……そして、カイム……」目覚めた後も、名前は胸に残っていた。 それはもう“夢”ではなかった。同じ頃、真一も目覚めていた。真一:「……ナフィーラ」その名が、脳裏に深く刻まれている。 ずっと忘れていた。けれど、たしかに一度――彼はその名を命がけで呼んだ。翌朝、ふたりは職場のエレベーター前で偶然出くわす。 緊張を纏った空気の中、どちらからともなく言葉が漏れる。梨央:「……ナフィーラって、知ってる?」真一:「……昨日の夢で……君が、そう呼ばれてた」梨央:「私も……あなたの名前、聞いた。“カイム”って」ふたりは黙ったまま、ただ見つめ合う。 その視線の奥で、過去と現在、夢と記憶、魂と魂が交差していた。そして、その日を境に―― ふ
午後、資料整理の作業中。梨央は、紙のファイルを棚に戻そうとして、手を滑らせてしまった。バサッ――と床に散る資料の山。「あ……っ」しゃがみこんだそのとき、すぐ隣から誰かの気配を感じた。「大丈夫ですか?」声の主は、有馬真一だった。梨央が顔を上げると、彼も同じようにしゃがみ、手を伸ばして紙を拾い集めていた。その瞬間――(また、だ)視界が揺れた。ほんの一瞬、目の前の景色が“重なる”。――血のついた床。震える手。冷たくなった誰かの身体。同じように膝をついた彼が、自分の手を握り締めるあの場面。「……っ!」息が詰まり、梨央は一歩、後ずさった。その反応に、有馬が小さく目を見開く。「……なにか、思い出したんですか?」彼の声にも、わずかな震えがあった。「……わかりません。ただ……“ここじゃないどこか”で、あなたとこうして向かい合った気がするんです」「俺も、同じです。今、あなたが手を伸ばした瞬間、別の景色が……見えた気がしました」視線が、自然と重なる。その奥には、説明のつかない“既視感”が静かに漂っていた。それは偶然ではなく、確かな何か――“記憶の断片の一致”。「……まるで、同じ過去を共有していたみたいに」ふたりの言葉が、重なっていく。オフィスのざわめきが遠のいていくように、ふたりだけの世界が静かに満ちていった。まるで、バラバラに壊れた鏡のかけらが、少しずつ繋がり始めているかのように。夜、仕事が終わり、梨央は真一との会議を終え、一人で会社を出た。(……あの人といると、心が静かになったと思ったのに。なのに――)ふと立ち止まる。胸の奥がざわつく。歩道の先、街灯の下に誰かの影が見えた。一瞬で空気が張り詰める。心臓が脈を打ちすぎて、耳が痛い。その瞬間――脳裏に「斬られる直前の記憶」がフラッシュする。「なぜ……裏切ったの……?」「君を生かすためだ」焼け落ちる神殿。血の匂い。自分の胸に突き刺さった剣。その向こうに泣きながら背を向ける、彼。(……やっぱり、あの人だった。あの人が……私を殺した)……やっぱり、あの人だった。あの人が……私を、殺した。その言葉が、ふいに心の底から浮かび上がった。誰かに囁かれたわけでもない。けれど、あまりに自然に、あまりに確かに、頭の中に響いた。足が震える。なのに、涙は出ない。出てき
朝の通勤ラッシュが少し落ち着いた時間帯。オフィスのエントランスに入った梨央は、胸の奥に昨日の記憶を抱えたまま、無意識に周囲を見回していた。その瞬間――視線が重なる。「……おはようございます、篠原さん」真一が、少しだけ声を落とした柔らかな挨拶を向けてきた。梨央は、小さく会釈する。「……おはようございます、有馬さん」それだけの言葉なのに、なぜか心が揺れた。ふたりとも、いつもと同じ顔をしているのに、“昨日とは何かが違う”――お互い、そう感じていた。エレベーターの中、ふたりきり。静かな空気が流れる。梨央はふと横目で真一を見た。彼は、まっすぐ前を見据えながら、何かを考えているようだった。(やっぱり、有馬さんも……夢の続きを見たのかな)訊きたい。けれど、言葉が出てこない。昨夜の夢の記憶がまだ、生々しく心を締めつけていた。「……昨日、話せて良かったです」突然、真一が静かに口を開いた。「え……?」「少し、気が楽になったんです。 誰かと“あの夢”を共有できた気がして」「……私も、そう思いました」梨央の言葉は、自然とこぼれた。ふと、視線が合った。その一瞬が、長く感じられる。エレベーターが静かに開く音で、緊張の糸が緩んだ。「では、また後ほど」真一は、ほんの少しだけ微笑んで会釈し、廊下へと歩き出す。梨央はその背中を見送りながら、胸の鼓動が速くなるのを感じていた。胸の奥に浮かぶのは、不安ではなく、ほんの少しの期待と、確かな“繋がり”の予感だった。梨央はデスクに戻り、モニターに映るプレゼン資料に意識を向けようとした。けれど、心は落ち着かないままだった。(……また、あの夢を見るのかもしれない)そんな予感が、今も胸の奥にしこりのように残っている。指先がキーボードを打つリズムに合わせて、資料の内容を頭に入れていく。ただ、それもほんの数分のことだった。──チリ、と何かが音を立てた気がした。ふいに視界が歪む。モニターの光が眩しく感じた次の瞬間、まるで誰かの声が、遠くから聞こえたような錯覚。「……君だけは……守りたかった」どこかで聞いたその声に、梨央の身体が一瞬、硬直する。次の瞬間――炎。赤く染まった空。石畳にひざをつく、白い衣の女。(……これ、知ってる……)意識の奥底に封じられていた記憶の断片が、またひとつ、鍵を
再び梨央は夢を見る 深く沈んだ眠りの中で、またあの夢が始まった。瓦礫に埋もれた石造りの神殿。夕暮れのような赤い空。風が吹き抜けるたび、血の匂いが微かに漂った。その中で、彼はいた。 あの懐かしい背中。梨央の記憶の中で、何度も斬られ、何度も憎んだ――あの男。(また……この夢)梨央は、胸の奥がきしむような感覚に身を固くした。けれど、今回は違った。 彼は、剣を抜いて――それを、自分に向けたのではなかった。目の前で、彼が――自らの胸元に、剣を向けていた。(え……?)「……これで、終わる。君を……これ以上、巻き込みたくない」静かにそう呟いた声が、風にさらわれていく。 目を見開いた梨央は、駆け寄ろうとした。けれど、足が動かない。声も出ない。 ただ、彼の震える手と、涙をたたえた瞳だけが、はっきりと見えた。(ちがう……私を、斬ろうとしたんじゃなかった……?)瞬間、場面が切り替わる。 血の海に倒れた彼の姿。 それを見つめて、膝から崩れ落ちていた自分。「……どうして、私を置いていったの……?」あのとき流した涙の意味が、今になって胸に刺さる。 裏切られたと信じていた記憶が、軋みを上げて崩れていく。本当に、そうだったの?その瞬間、梨央は目を覚ました。現実の天井がぼやけ、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。 胸の鼓動が速い。息が乱れている。(違う……あのとき、彼は――私を殺そうとしたんじゃない。自分を……)枕元で震える手を見つめながら、梨央は知らず涙を流していた。***真一もまた同じ夢を見ていた――まただ。焼けつく空。 血のにおい。 燃え上がる門。 それはもう、何度目になるのか分からないほど、繰り返し見る夢だった。けれど今回は、違っていた。目の前に、彼女がいた。白い衣を纏い、涙を浮かべながら、自分を見つめていた。 その手には、古い巻物――何か“封印”に関わるものだった気がする。そして、自分は剣を抜いていた。 だがその刃は彼女に向けられることなく、敵に向けられていた。「君だけは……君だけは逃げてくれ」自分の声が、震えていた。「そんなの、できないよ……私、あなたを信じてるのに……!」彼女の叫びが、胸を貫いた。 その声は、梨央の声にしか聞こえなかった。“前にも、このやり取りをしたことがある” その確信が、夢の
昼休みのカフェテラスを出た後も、梨央の頭の中では真一の言葉が繰り返されていた。(……夢の中で、自分が誰かを……守ろうとしていた?)真一の語った夢の断片は、梨央がこれまで何度も見てきた光景と、あまりにもよく似ていた。しかも――彼は、それが「自分と梨央」だったと言った。いや、正確には……そう言いかけた、のかもしれない。驚きと動揺で頭が真っ白になっていた梨央は、そのときの言葉をすべて正確に覚えているわけではなかった。でも、確かに――彼はそう言おうとしていた気がする。(私たち、前にも……会っていた?)そんなはずはない。初対面のはずだった。なのに、夢の中で見たあの炎の景色、剣を抜く彼の姿、そしてあの目――現実の有馬真一と、夢に現れる“彼”が、重なっていく。(もしも、これがただの偶然じゃないとしたら……)梨央の胸の奥で、何かが静かに揺れ始めていた。午後の仕事中、意識は何度も散っていった。集中しようと資料に目を落としても、ふとした瞬間に――彼の声が、耳に蘇る。あのときの微笑み。言葉の端ににじんだ、どこか懐かしい響き。(……まさか、本当に。同じ夢を見てるなんて)そう思っても、頭のどこかで否定する自分がいた。けれど、偶然とは――どうしても思えなかった。夢の中に現れた男と、有馬真一。あまりにも、重なる。目の奥に宿る哀しみも、誰かを庇おうとするような、あの眼差しも。(彼の顔、もうまともに見られない……)そんなことを思っている自分にすら、驚いていた。ただの夢。なのに、現実が引きずられていく。真一と視線が交わりそうになるたびに、心が波立つ。(どうしよう……私、これからどう彼と向き合えばいいの?)視線を逸らすたび、胸の奥が痛んだ。その日の勤務は、終わったはずなのに――心は、ずっと揺れていた。帰りの電車の中、窓に映る自分の顔が、どこか他人のように見える。(疲れてる……)そう思って目を閉じた瞬間、彼の声がまた蘇る。「……君だけは、守りたかった」あのとき、真一が語った夢の中の言葉。まるで現実のもののように、胸の奥に残っていた。家に帰っても、落ち着かなかった。夕食を済ませ、シャワーを浴びて、ようやくベッドに横たわったはずなのに、脳裏を巡るのは今日の出来事ばかり。(やっぱり、あれは……夢じゃないのかもしれない)そう思っ