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第6話

Author: 無情
それは、冬真のその変わらない氷のような顔では、なかなか見られない表情だ。

だが次の瞬間、彼は私を指さし、「そんなに働きたくないなら、今すぐここから出て行け」と言い放った。

まさに待っていた言葉だ。私はにこっと笑い、「はい」とだけ答え、さっさと自分のデスクを片付けに行った。

久しぶりに、身体がふっと軽くなった気がした。

……

荷物をまとめている間、誰も私に何があったのか聞こうとしなかった。

私は冬真が連れてきた人間で、会社では皆、私のことを彼の生徒のように扱ってきた。

だから彼が私に一番厳しいのも、皆にとっては当然のことだ。

そんな私がオフィスで大声をあげて彼と揉めたとなれば、誰も理由を聞く勇気なんてない。

ただ一人、律だけは頭を下げ、いかにも真面目そうに書類を処理している。

実際、彼女は私とのチャットに指が燃える勢いでメッセージを打っているのだ。

ポケットの中にあるスマホが震えている。見なくてもわかる。どうせ律からの【!】の連打だ。

私は荷物を抱え、法律事務所を出た。

家には帰らなかった。あそこはもう、私にとって「帰る場所」ではない。

適当なホテルを探して、そのままチェックインした。

ようやく落ち着き、律のメッセージを開いた。

彼女は最初の一言以外、私と冬真の間に何があったかは追及せず、むしろ【助けが必要か】と聞いてきた。

なんと言っても、冬真は業界では相当な有名人だ。

こんな形で対立すれば、誰だって私を雇うことに躊躇するのだろう。

律は、【私の先生や先輩に聞いてみる。誰か受け入れてくれる人は絶対いる】と言ってくれた。

浅い付き合いなのに、ここまで言ってくれるのはありがたい。

でも、私は彼女を巻き込みたくない。

そもそも、この街を出るつもりだったし、冬真の影響力がどれだけ大きくても、さすがにどこまでも干渉するわけじゃないはずだ。

……

しかし、そう思った私は甘かった。

あの日、私が冬真のオフィスを出た直後、彼は法律事務所の全員に向かってこう宣言した。「今日からこいつを法律事務所に一歩たりとも入れるな!」

それはもう、ほとんど死刑宣告だ。

業界にはすぐ噂が広まり、私が何しでかして冬真を怒らせたのかという話題で持ちきりになった。

悪い噂だけは千里を走るものだ。

川を隔てた隣の県の人間にまで知られてしまった。

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