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第2話

Author: 別れ無し
私は目の奥の感情を隠して、「はい、ちょっとぶらぶらしに行こうかと」と答えた。

「そうなんですか!」

雅の目がぱっと輝き、彼女は親しげに逸生の腕にしがみついた。

「私と逸生は那知町(なちまち)に二日ほど滞在してから、神山に行く予定です。

もし急ぎじゃなければ、一緒にどう?大勢のほうが賑やかですし」

その言葉が終わると同時に、逸生の視線もこちらへ向かってきた。

その目は深く沈み、まるで海を隠しているみたいだった。

私はまともに見返せず、慌てて首を横に振った。

「すみません、それは......私にはもう時間がないので」

そう言った直後、列車がトンネルに入って、灯りが一気に暗くなる。

どこか懐かしい視線が私に注がれている。

私は服の裾を握りしめ、指先が布に食い込みそうだった。

列車がトンネルを抜け、また光が差し込むと、その視線もようやく引いていった。

逸生は雅の話をうつむいて聞いていて、横顔の輪郭が陽射しに照らされてやわらかく見えた。

雅はさらに彼の腕に身を寄せ、少し甘えるような口調で言った。

「そちらの社長さん、ケチなんですね。休み、こんな少ししかくれないなんて」

私は答えず、ただテーブルのコップを持ち上げ、水を飲むふりをした。

きっと彼女は、私の「時間がない」という言葉を仕事の締め切りだと勘違いしたのだろう。

それでいい。

「あと四日しか生きられない魂」だなんて説明するより、ずっと簡単だ。

席にはしばし静けさが降り、線路を走る列車の「ガタンゴトン」という音だけが響いていた。

ふいに何か思い出したように、雅がぱっと目を輝かせ、私に視線を向けた。

「笹本さんがこんなに綺麗ですし、彼氏は絶対いるでしょう?」

私が顔を上げた時、ちょうど逸生の視線とぶつかった。

胸がぎゅっと縮んだようになりながらも、私は小さく首を振った。

「いいえ」

「それならちょうどいい」

雅は手を打ち鳴らした。

「私、優秀な男性をたくさん知ってるから、今度紹介しますね!」

「やめた方がいい」

突然、逸生が口を開いた。

私を見ながら、口元には淡い笑みを浮かべつつ、その目の奥には皮肉が滲んでいた。

「笹本さんは、とても理想が高いんだ。雅が紹介した程度の相手じゃ、きっと眼中に入らないだろう」

雅は一瞬驚き、その後不満そうに彼を押した。

「逸生、そんな言い方は失礼よ」

私は苦笑し、彼の言葉の棘をそのまま受け取った。

「彼の言う通りです。恋人なら、お金持ちで、しかも私に惜しみなくお金を使ってくれる人じゃないと」

雅の顔に、複雑な色が浮かぶ。

「お金さえあれば、相手を愛してなくてもいいんですか?」

私は目を伏せ、重ねた自分の手を見つめた。

魂の手は透けるように淡く、指の隙間から床のカーペットが見えてしまいそうだった。

「構いません......お金がなければ、何も持てないんです」

五年前の豪雨の夜。

逸生は地下室の入口に溜まった水の中で、私のスーツケースを必死に握りしめていた。

「千遥、もう少しだけ時間をくれ。きっと良くなる、二人で必ず良くなるから......」

けれど私はその手を振り払い、一語一語を噛みしめるように言った。

「もういい加減にして!私は三年も逸生と費やしたのよ。

今の逸生は心臓が壊れて、生きながらの廃人よ!そんなあなたに、未来を約束できる?

もう自分勝手なことをやめて、私を解放してちょうだい」

「自分勝手」という一言が、彼の最後の支えを打ち砕いた。

彼はスーツケースから手を離し、私が車で路地を離れていく時も、まだ豪雨の中に膝をついていた。

その背中は、風にさらわれて消えてしまいそうな一枚の葉のように薄かった。

雅は逸生の腕をさらに強く抱き寄せ、不満げな声音を洩らした。

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