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第4話

Author: 別れ無し
窓の外を流れる夜の景色を見つめながら、胸の奥にびっしりと痛みが広がっていった。

一生。

彼らにとっての一生は、果てが見えないほど長い。

でも私にとっては、夜が明ければ残りわずか四日しかない。

歯を噛みしめ、身を翻して寝台へ。

隣からカサカサと音がして、雅が逸生と昔のアルバムをめくっていた。

雅の声は、まるでハチミツを溶かしたように甘い。

「見て、これ、南フランチに行ったときの写真。ラベンダーの花言葉は『愛を待つこと』だって言ったよね。ついに私にめぐり会えたんだもの。

それにこの一枚。アジーランドでオーロラを見たとき。震えながらも『寒くない』って強がってたっけ......」

かつて私と逸生が指切りで約束した場所を、彼は雅と一緒にすべて巡っていた。

涙が頬を伝い、枕を濡らす。

布団を強く握りしめ、天井を見つめた。

悲しむべきじゃない。

逸生が平穏で幸せなら、それが私の望みだったはずだ。

時が過ぎ、やがて声は小さくなっていく。

残るのは鉄道を轟々と走る車輪の響きと、衣擦れの細やかな音。

雅の声が甘く濡れて、熱を帯びていく。

「逸生......キスして」

狭い個室に、絡みつくような吐息が広がった。

私は背を向け、布団に身を埋めた。

翌日の昼、列車は終点駅に到着した。

雅は逸生の腕に絡みつき、通路で振り返りながら言った。

「笹本さん、本当に一緒に行かないのですか?

それか住所を教えてください。私と逸生の結婚式には、招待状を送らせてください。笹本さんも祝福してくれたら嬉しいです」

私は傘を差し、首を横に振った。

「結構です。お二人には末永くお幸せに」

逸生の表情が、一瞬で曇った。

私は視線を逸らす。

分かっている。

私はその時まで生きられない。

計算すれば、あと三十分。

三十分後には、病院のベッドに横たわる「私」が血圧の急降下で救急室に運び込まれ、昏睡に陥り、二度と目を覚まさなくなる。

意識が途切れる直前、「私」が思い出すのは、逸生と地下の狭い部屋で肩を寄せ合った日々。

「千遥、あそこの神山は神の山で、愛し合う二人を一生守ってくれるんだって。三十歳になったら、あそこで結婚しよう?」

あと四日。

ちょうど三十歳の誕生日だった。

けれど「私」は、もう辿り着けない。

どうしても逸生の声が聞きたかった。

たとえ一度の呼吸音だけでも。

だから「私」は電話を取り、五年間心に刻んできた番号を押した。

心臓がぎゅっと縮み、私ははっとして顔を上げた。

ほとんど同じ瞬間、鋭い着信音が駅の喧噪を切り裂く。

逸生のスマホに表示されたのは、病院に横たわる「私」が、最後の力を振り絞ってかけた電話だった。

もし彼が出てしまえば――

私の死も、心臓を差し出した秘密も、すべて彼に知られてしまう!

「出ないで!」

思わず叫んだ。

だが声が落ちるより早く、逸生の指が通話ボタンを押していた。

受話口から、消え入りそうなか細い声が、途切れ途切れに響く。

「いつき......私、神山の約束を......守れなかった......」

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