そこまで考えたところで、ふっと空気が揺れた気配がした。
ちらりと視線を上げれば、ティボー公爵が口元を手で覆っている。そして僅かに揺れる肩。何か? と訝し気な視線を無礼にならない程度に送ってみると、何度か空咳を繰り返した後、ティボー公爵が口を開いた。
「……いや、我が息子は前途多難だと……思ってね」
……公爵様の息子……と言えば、絶賛女装中のアラン様の事だろう。表向きには隣国に留学中だという。
そりゃまぁ、ご子息が女装してれば前途は多難だろうなと思わず遠くを見てしまう。 因みにアラン様は今この屋敷のどこかにいると思う。朝、今日は実家に顔を出すっておっしゃってたから。なんでも月に一回は実家に顔を見せる約束らしい。 念の為という事で、公爵家から迎えに来た馬車をこっそり点検したら、まぁ案の定だったんですけどね。 車軸に細工がしてあって、あのまま走り続けていれば、公爵家へ辿り着く前に車軸は折れて脱輪していたであろう。 なので、アン様がお出掛けになる前に、馬車の再手配をしつつ、脱輪した時にでも襲い掛かるつもりだったらしい暗殺者を片付けるよう公爵家の護衛さんにお願いしたりと、何かと慌ただしかった。 そして、ご帰宅されるアラン様、いや女装中だからアン様か? の護衛をしつつ、公爵様への定期報告に上がった次第だ。 さすがに公爵邸の中までは護衛は必要ないだろうと言うことと、アン様の護衛の合間を縫って報告を上げるよりは、このタイミングの方がいいだろうと言う、ご依頼人(ティボー公爵)様の配慮もあって、この場が秘密裏に設けられた訳で。「アンはね……隣国に狙われてるんだ」
おもむろに公爵様が話し出す。
って、聞きたくないんですが? それ、下手したら国に関わる機密ですよね? そんなわたしの内心を知ってか知らずか、公爵様のお口は止まらない。「どうやら隣国は、我が国の王太子に王女を輿入れさせたいらしくてね。
で、一番の候補であろうア「ティボー様ぁ!」 うわぁ、既視感。 もはや何かが起こるならココ! とまで言わしめそうないわくつきになってしまった回廊で、件の伯爵令嬢に声をかけられ、二人同時に足を止めた。 くるりと振り返れば、異様なほど瞳を炯々と光らせたご令嬢が走り寄ってくるところだった。 んっと気づかれないように咳払いをして、喉の調子を整える。「……何か……用かしら?」 あり得ない程近い距離で足を止めたご令嬢から、後ずさって僅かに距離をとる。 そうすれば、ご令嬢が前にでて、わたしが後ずさり……と続けていくと、背中にとすりと自分以外の温もりが触れた。 うぅん。もう少し離れてほしい。 ちらりと背後に視線を向ければ、長い前髪に隠された瞳が油断なくご令嬢を見つめていた。 どうやら、この場を離れるつもりはないらしい。「ティボーさまぁ! いいえアンさま! いいえいいえアラン様!!」 興奮した甲高い声が回廊に響いた。 ご令嬢が声をかけてきた段階で、既に手配は完了しているので、彼女の声が無関係な人間に聞かれることはないだろう。「……あなた……何をおっしゃってるの?」 こてりと首を傾げれば銀(・)の長い髪が、わたしの動きに合わせてゆらりと揺れた。「うふふぅ! もうしってますものぉ! アンさまなんてぇホントはいらっしゃらないんですよねぇ? アラン様が女装してぇ、アン様になってるんですよねぇ! うふふぅ~! 公爵家のご令息が女装趣味とかぁ。 世間にバレたら大変ですよねぇ」 ねっとりと張り付くような声で声高に主張するソレは、ある意味真実だけど……。『女装趣味』の言葉に、アラン様が僅かに身じろいだ。恐らく致し方なく行ってた女装を、好き好んでしてたみたいに言われて微妙な気持ちになったのだろう。「……もう一度言うけど&he
「さて……どうしますか……」「……お前にオトメゴコロを期待した俺が間違いだった……」 アラン様の、いや女学院の寮にあるアン様のお部屋で、二人掛けソファに並んで座る。 ピタリとくっ付いた身体からアン様の体温が伝わってきて、ちょっとくすぐったい。 腰に回された手も熱くて、大きくて……胸がきゅっとなる。 そんな甘い空気をぶち壊すのは百も承知だけど、相手は『厄介な隣人』だ。 あまり時間がないのも否めない。「仕方ないです。『厄介な隣人』の眷属だったらしいあの黒い鳥を消しましたので、異変に気付いた彼女が来るまであまり時間もないでしょう……」 わたしの言葉に、アン様が、いやアラン様が考え込む。 「……俺のこと、バレたと思うか?」「……まだ疑いの段階かとは思いますが……。ただ……心配なのはあの伯爵家のご令嬢ですね」「あぁ、確かに様子がおかしかったが……」 アン様が首を傾げる。「もしかしたらですが……彼女も『厄介な隣人』に魅入られた可能性があります」「……『厄災』に魅入られるとは一体どういうことだ?」「アレは人の欲望に付け込んで、甘言を囁くんですよ。『願いを叶えてあげよう』って。 隣国の王女さまは自分勝手な生活を手に入れる為、生国を捨てこの国の王太子の妃となりたかった。そんな身勝手な欲望に目を付けたアレが手を貸したのでしょう。ただ……『厄介な隣人』の手を取ることは破滅への最短距離を進むのと同意。 願いが叶うかもわからず……いいえ、叶うことなくアレの餌食となる。その結果は……」
「やっぱりアラン様が悪いですっ!」 きっとアラン様を睨みつけたわたしにアラン様が驚きを露にする。「なんだ突然!?」「わたしがバタンテールの人間だってご存じでしょう?! バタンテールがどういう存在かご存じでしょう? なのに! なんでわたしを遠ざけるんですかぁ……」「う、うわっ!? レア?! ちょっ……?!」 ボロボロと、ボロボロと水滴が頬を濡らす。 あぁ、涙を流すなんてどれぐらいぶりだろう? バタンテールの厳しい鍛錬でも泣いた事なんてないのに。 「うわっ! レア?! 泣くなっ!」 慌てた様子のアラン様が椅子から滑り降りる。 ぼたぼたと水滴を溢しながら醜い泣き顔を晒すわたしを抱き寄せた。「アランさまのばかぁ! わたしが強いって! バタンテールの中でも強いってもうご存じでしょう? バタンテールの歴史は『厄介な隣人』との攻防だっていうのもご存じでしょう? なのになんでぇ……」 そう、バタンテールは遥か昔から『厄介な隣人』とやり合ってきた関係だ。 アレは滅ぼせない。ひたすら叩いて弱らせるか、飽きて別のとこに行くように仕向けてして退けることしかできない。 そしてアレに対応できる力を持っているのが我が家(バタンテール)だけなのだ。 だからこそ、我が家はこの国の守護を務めているといわれている。 もちろん相対するのは『厄介な隣人』だけではないが、その実力も実績も確かなものなのだ。 『厄介な隣人』絡みの事件が起きた場合、バタンテールの人間が対処するのは常識といってもいい。 それを遠ざけるだなんて……! しかも『厄介な隣人』に見つかれば、その身が無事かどうかすらわからないのに!「あらんさまのばかぁ……」 ぽろぽろと止まらない涙が、アラン様の女学院の制服を濡らす。耳に触れるアラン様の鼓動はいつになく速い。「&
「なんだ……? アレは……」 僅かに動揺を乗せたアン様の声が、わたしの背後から聞こえてきた。 油断なく周囲を見回して、もう不審なモノがないことを確かめる。「……お部屋に戻りましょう」 そう告げると、殊の外素直に従ってくれた。 アン様のお部屋の扉を開け、用心深く部屋の中を見回す。 特に異変は感じられない。 窓から外を臨めば、そこにはいつも通りの景色が広がっていた。 もちろん黒い鳥の姿もない。「っ! まったく! なんなんだあれはっ!」 どさりと令嬢らしくない仕草で、制服のスカートが翻るのもものともせず椅子に腰を落とすアン様。「……淑女の鑑はどうされました? アン様」「……お前の前で取り繕う必要なんてないだろう?」 ふんと淑女らしからぬ仕草で鼻を鳴らすアン様。 さらには華奢に見えて意外とがっしりしている手を翻(ひるがえ)してわたしを手招く。 一つため息を吐いて、アン様のお側に寄れば、腰を落とすように指示された。 仕方なく椅子に座ったアン様の前に跪く。見上げれば、銀の髪を揺らしてこちらを見つめる紅い瞳。 気まずくなって目を伏せれば、くっと顎を掴まれた。 わたしの平凡なヘーゼルの瞳とアン様の真紅の瞳が交差する。 「……主の命を聞けない護衛など信用ならんな」「わたしはわたしのご依頼主様の指示に従ったまでです」 紅い瞳を覗き込んできっぱりとそう言い切れば、アン様のお顔が悔し気に歪んだ。「だからって……だいたいなんだその格好はっ! お前は性別を偽って俺を騙していたのかっ?!」 それ、そっくりそのままお返ししますが?「最初に性別を偽ってたのはわたしじゃないです」「っ! 屁理屈言うな! レアッ!!」
「なんなのかしら……? 彼女……?」 僅かに困惑を乗せた言葉が、アン様の形の良い唇から零れた。「……アン様、彼女にはしばらくお近づきにならぬよう……」 低くそう告げると、前を歩いていたアン様が銀の髪を揺らして振り向いた。「レオハルト? 何か気づいたことでもあるのかしら?」「……いえ。でも万が一ということもありますので……。どうか……」 わたしの言葉に、アン様が紅眼を瞬かせたが、ありがたいことに深追いはされなかった。 ……もしかしたらアン様も気づいているのかもしれないが。 先の伯爵令嬢の様子は、以前の隣国の王女の豹変に通じるものがある。 そう……『厄介な隣人』に関わったばかりに破滅への道をたどった隣国の王女サマに。 前を歩いていたアン様の足が止まる。「……どうかされましたか? アン様」「ねぇ? レオハルト? さっきの彼女はやはり……」 ア゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙ァ゙――――!!「っ?! アン様! わたしの後ろにっ!」 静かだった回廊の空気を切り裂いて聞こえてきたのは、あの黒い鳥の鳴き声だった。 神経を逆なでるような、悲嘆にくれた女性の悲鳴のような、獲物をいたぶる仄暗い悦びに歓喜する猛獣のようなその声に、びりびりと身体が震える。 回廊の壁と自分の背中との間にアン様を隠し、腰に佩いでいた剣を抜く。 油断なく視線を投げれば、回廊の向こう、裏庭の雑木林から黒い影が飛んできた。「……あれは……。そんな……まさか……?」 どこか呆然としたアン様の声が背後から聞こえてきた
「ティボー様ぁ!」 うん。あんなことがあったにも関わらずアン様に声をかけてくる胆力は認めたいと思う。 そんなことを考えてしまうのは、この前アン様を激怒させた伯爵令嬢が何の躊躇もなくアン様にお声をかけたからだ。 若干アン様も驚いている気配がした。「……何か用かしら?」 アン様が僅かに首を傾げる。 その瞳には当惑が浮かんでいた。「あ、あの! わたくし! わたくしを! アン様のお兄様であらせられるアラン様の婚約者に推挙していただけませんでしょうか?!」「……は?」 アン様の機嫌が氷点下まで冷え切った。「……兄には……婚約者がいるのだけど?」 冷たい声がいつもの回廊に響く。 ていうか、いつも何かが起きる時はここだな。この場所、なんか呪われてない? アン様の背後で油断なく周囲を見渡しながら、頭の片隅でそんなことをぼんやり考えていると、どんどん二人のご令嬢の話は不穏な方向へ進んでいく。 いや、正確に言うとご令嬢は喜色も顕わに話しかけてるのだが、その内容がどんどんアン様を不機嫌にさせていくのだ。「でもアン様の不興を買ったバタンテールの田舎者など直ぐに婚約破棄されるでしょう! なので、その後わたくしの事をお選びいただきたいのです! あの田舎娘の後釜というのは些か業腹ですが、アラン様の妻になれるのであれば些細なことでございますわ!」 くるくると踊り出しそうなほど機嫌のよい伯爵令嬢に、僅かな違和感を抱く。 半歩だけ前に出て、警戒を強める。 周囲に視線を走らせても、他の気配はない。……もちろん黒い怪鳥の気配も。「……あなた、何を言っているかわかっているの?」「もちろんですわぁ! アン様を義妹とお呼びできる日を楽しみにしておりますわぁ!」 そう言ってアン様に抱きつこうとするご令嬢。 って、何考えてるの?!
「……よろしかったのですか?」 まだ僅かに怒りの気配を纏っているアン様の背中に声をかける。 寮へと向かう回廊は、レリアーヌが以前先程のご令嬢と相対したところであり、黒い鳥の接触を受けたところでもあった。「なぁに? 護衛が口を出すの?」 未だ冷たさを帯びた声が石造りの回廊に響く。「……いえ、出過ぎた真似をいたしました」 レオハルトとしてアン様の背中に視線を送る。 だけど。 心の中では感情が嵐のように吹き荒れていた。 そこまでバタンテールを理解(わか)っているなら……! そこまでバタンテールを理解(わか)っているのに……! なぜ! レリアーヌ(わたし)を遠ざけられたのですか!『厄介な隣人』と渡り合える唯一の存在、それがバタンテールだというのに! だけど……アン様のお気持ちもわからなくはない。 それだけ……『厄介な隣人』に関わった人間の末路に恐怖したのだろう。 『厄介な隣人』と関わった結果の隣国王女の成れの果てを。彼女によって『厄介な隣人』の生贄に差し出された人間の末路を。 アレに自身が狙われる恐怖ではなく、アレに関わったことによって巻き込まれる人間がどうなるかということに恐怖した。 だからレリアーヌ(わたし)を遠ざけた。 あのご令嬢のような考えをする人間は、アン様がレリアーヌを見限ったと考える人間は多いだろう。 それがアレン様とレリアーヌの婚約にどう影響するか考えなかったわけではないのだろう。 だけど、それを差し引いたとしても、レリアーヌを遠ざけたかった。 『厄介な隣人』に近づけたくなかった。危険から引き離したかった。 そのお気持ちは……嬉しいけれど……。「アラン様は……優しすぎます」「え? レオハルト? 何か言ったかしら?」 くるりと振り返ったアン様からは、先程までの怒気は消えていた。 だけど少しの諦念と寂し気な雰囲気は消えていない。 だからこそ……わたしはわたしのできることをして
「まぁまぁまぁ! とうとうあの身の程知らずな小娘を断罪なさいましたのねっ! ティボー様に付き纏うなんてなんて罪深いのでしょう! 女学院にも来ていないとか……! 今更どんな顔で貴族社会に顔を出せるというのでしょうねぇ!!」 アン様の行き先を塞いで、きゃあきゃあと騒ぐ女生徒は、相変わらずのあの伯爵家のご令嬢だった。「……レアが、女学院に来ていない……?」 アン様……。足を止められたのを疑問に思ってましたが、引っかかったのはそちらでしたか。「そうですわぁ! あの身の程知らず! 恥ずかしくてお顔を出せないのではないのでしょうかぁ~! まったくそれもこれもティボー様に付き纏うからですわぁ~!! そろそろティボー公爵令息様とのご婚約も破棄されるのではないのでしょうか~?」 ざまぁみさらせと高笑いするご令嬢に、冷たいアン様の声が冷や水を浴びせた。「それはないわね。わた……アランお兄様はレアを可愛がってますもの。手放すワケがありませんわ。 そもそもなぜわたくしが、可愛いレアを断罪などしなければならないの? 何度も言うようだけど、わたくしがレアに側にいてほしいと望んだのよ?」 そこまで言うなら何故遠ざけたのか……と声を大にして言いたいが、現状アン様の護衛騎士レオハルトとしてこの場にいるので、口を開くわけにはいかない。「そ、そうはおっしゃいましてもぉ! 現にあの身の程知らずはティボー様のお隣にいらっしゃらないじゃないですのっ! 何か粗相をしてティボー様に見限られたと噂になっておりますわぁ!!」 伯爵令嬢の言葉に、アン様が僅かに舌打ちした。 まぁ、令嬢のいうこともさもありなんだけど。 あれだけアン様と行動を共にしていたレリアーヌ(わたし)の姿が急に見えなくなったのだ。 周囲から見ればレリアーヌ(わたし)が何らかの不敬を買ったのだろうと思われてもおかしくない。 ちらりとアン様に視線を投げれば、ものすごく顔を歪めている。 こほんと注意を促せば、その表情(かお)もあっという間に淑女の完璧な笑みに覆われていった。「そう……。そんな事実はないのだけ
「本日より護衛の任をたまわりましたレオハルトと申します。どうぞよろしくお願いいたします」 美しい銀の髪を艶やかに輝かせ、紅玉のような瞳を瞬かせた美しい佳人の前で騎士の礼をとる。「……貴方が……護衛ですの?」 さらりと銀の髪を揺らし、アン様が首を傾げた。「はい。お父君であるティボー公爵様より女学院にいる間の護衛を申し付かっております」 下を向いたまま、声色を変えそう答えると、さらりと制服を揺らしながら僅かに動揺したアン様の声が聞こえてきた。「あの……貴方殿方よね? 女学院にいる間ということは寮にはついてこないのよね?」「いいえ。寮でもお供させていただきます」「女性しか入れないはずなのだけど?」「……公爵様より女学院にお伝えいただき、例外として認められております。お休みの際には寝室の扉の前で待機させていただきます」 普通の護衛騎士ならあり得ない対応だろう。 異性を女学院の寮に、それどころか貴族令嬢の私室にまで入れて待機させるのは。 だけど今回ばかりは例外だ。 色々と。そう色々と。 「……そう。部屋にも入るの……」 当惑したような、そしてちょっぴり嫌そうなアン様の声が頭上に落ちてきた。 そりゃそうだ。 アン様は今まで私室ではアラン様に戻ったり結構自由にされていた。 わたしが同室の間も、早々にバレたこともあって男の格好に戻ったりしていて自由だった。 それが今日からは寝室以外はアン様の姿でいなければならなくなったのだ。 それはちょっぴり窮屈なことだろう。 ……ふんだ。わたしを遠ざけるからですよ。 そう、女装には男装を。 という訳で、わたしは今男装して騎士の姿でアン様の前に姿を現していた。 動きやすいよう改良を重ねたシークレットブーツのおかげで、今のわたしの目線はアン様と変わらない。 ミルクティー色の髪は黒髪のカツラに収め、我が家に伝わる変装術を駆使しているので、近くで見てもレオハルト