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#2

last update Last Updated: 2025-09-24 14:30:14

……泣いてる?

自分がおとす影のせいで視界が悪く、後ろへ引くまで気付けなかった。

組み伏せていた華奢な青年は、大きな雫を零して泣いていた。不憫に思うほど小刻みに震え、唇を噛んで声を押し殺している。

てっきり自分と同じで色事が大好きだと思ったのに。……そういえば勃つのも遅かったし、緊張し過ぎる。最初はわざと嫌そうな態度をとってるんだと思ったが、この涙は演技には見えない。

そう分かった途端焦りと罪悪感が波のように押し寄せてきた。美しい見目の上好みの顔立ちだったからつい調子に乗ってやり過ぎてしまった。

大変なことをした……!

「すっすまん! 怖がらせるつもりはなかった……!」

狼狽えて何度も謝る紫弦に、千華も驚いて言葉を失った。先程とは打って変わり、申し訳なさそうに手を合わせている。

自尊心が高そうに見えたのに、こういう時は簡単に謝ることができるらしい。そう思うと何だか可笑しくて、涙は自然に止まっていた。

紫弦は不安そうに千華の頬に触れ、そっと本音を零す。

「俺なんか比にならないほど箱入り娘だったみたいだな」

娘じゃないと訂正したかったけど、ここで反抗しても拗れるだけだと思い口を噤む。

「中途半端にしてすまなかった」

紫弦は気まずそうに後退ったが、千華の性器は昂ったままだ。それに気付き、紫弦は気まずそうに咳払いする。

「後は自分でするか?」

「え! ……ど、どうしたらいいのか分からない」

千華は目元を袖で拭い、声を震わせた。

「こんなのしたことないから……」

「し、したことない、って……まさか自慰を?」

躊躇いながら頷く彼に、紫弦は今までにない衝撃を覚えた。

自慰をしたことない男がこの世に存在するのか。それは有り得ないだろう。貧民だろうと一国の王だろうと、生理的現象だし、欲望も等しく与えられるし、誰から教わらなくてもやることだ。

なんて細かいことを考えるのも段々馬鹿馬鹿しくなってきた。それより自分のせいで戸惑い、震えている青年を早く楽にしてあげたい。

「痛いことはしないから、ちょっとだけ我慢しろ」

白いが、熱の中心だけは椿のように紅い色を帯びている。素直に綺麗だと思った。これで今まで誰にも襲われなかったのが奇跡だと思うほど。

上下に激しく扱くと、千華はますます泣き喚いた。可哀想だと思う気持ちが半分。そしてもう半分は生まれて初めて抱く加虐心。可愛らしく泣く彼をもっと見たいと思ってしまった。

「やっ、何か……怖い、出ちゃう……!」

子どものように縋り付く彼を強く抱き締める。

陰茎を擦ってやってるだけなのに、不思議と、今彼と身体を繋げているような気がした。

「大丈夫。だから出して」

「ああぁっ!」

亀頭を指で強く押した時、彼は派手に仰け反った。手の周りに白濁の飛沫が跳ねる。何故かそれすら美しく見えて、口付けしたくなった。だが寸での所で我に返り、気持ちを留める。

「は、あ……っ」

「初めて……なんだよな。えらいぞ。気持ちよかったか?」

快感の余韻が強烈だったのか、千華は床に倒れたままだ。細い脚を淫らに広げ、震えている。その姿がまた妖艶で、つい端から貪りたくなった。

「これ、何……?」

自身の腹に飛び散ったものを指に絡ませ、不思議そうに見つめる。

「精液。本当に知らないのか」

「自慰も禁じられていたから……」

自慰を禁……っ!?

そんなところに生まれていたら自分は発狂していた。紫弦は戦慄しながら千華を抱き起こす。

ところが、彼はそのまま眠りに落ちてしまった。

「大変だ……」

大変な拾いものをしてしまった。

とても冷静ではいられない。宝石のような存在を抱き締め、紫弦は深いため息をついた。

身体が宙に浮いているようだ。でも手足に枷をつけられているように、下へ引っ張れている気もする。所々引き攣って、重い痛みをぶら下げている。

目を覚ますと、また同じ部屋で眠っていた。

「あれ……」

全身の倦怠感を覚えつつも、千華は寝床から這い出して衣服を整えた。窓からは強い斜陽が輝きを放っている。

痛みや怠さももちろん気になるが、……それ以上に下の方がムズムズする。

初めて経験したことなのに、身体は懸命に順応しようとしていた。性欲を抑えるのも修行の一環だったし、大して気持ち良いものじゃないと思ったから気にしてなかったけど……さっきの衝撃は、意識が飛びそうになるほど気持ちよかった。

佇んだまま、服の上から太腿をなぞった。あの感覚をもう一度味わってみたい。できれば自分の手ではなくて……“彼”の。

「あ、起きたか」

「はあっ!」

背後から掛かった声に驚愕し、後ろの壁に張り付いた。声の主は朗らかに笑う紫弦で、いつの間にか部屋の中に戻ってきていた。

おっかしい。

人の気配を感じないなんて、やはりどうかしてしまったのかもしれない。それか、紫弦が気配を殺すのが特別得意なのか。どちらにしても深刻な問題だ。

「驚きすぎだろ。……まあいいや。もう夜になるし、腹減ったろ。厨房を借りて粥作ってきたから一緒に食べよう」

「え?」

どう返せばいいのか分からずに呆けてしまう。しかし紫弦は上機嫌で踵を返し、今度は大きな鍋を持って戻ってきた。

促されるまま座布団の上に座り、器を受け取る。鍋の中には野菜や茸のような具がたくさん入っていた。

「初めて作ったけど、料理って楽しいな。これからは毎日したいぐらいだ」

「は、はぁ……」

変な気分だ。

さっきはあれだけ淫らに絡まり合ったというのに、今は和やかに二人で鍋を囲んでいる。

あの情事を思い出すと気が遠くなりそうなので、努めて意識を鍋に向けた。

天界に生きる者は基本何も口にしない。ところが紫弦がよそってくれた粥には猛烈に惹かれた。今も湯気が立ち上り、美味しそうな匂いを漂わせている。

香草だけでなく肉も入っているが、鶏だろうか。天界では絶対食べてはいけないけど……。

「んっ!」

意を決してひと口飲み込む。その時の感動は筆舌に尽くし難いものだった。

「美味いー!」

「本当? 良かった、じゃあもっと食べな」

やばい、本当に美味しい。

天界で気紛れに口にしていた木の実や野菜の淡白な味とまるで違う。ひとつひとつの食材が持つ旨味、そして出汁が抽出され、見事に調和している。米もそうだけど、人が手がけた料理を食べたのは初めてだ。

「こんな美味しいもの食べたことない……っ!」

一息つきながら零すと、紫弦は目を丸くし、それから頬を赤らめた。

「あは、俺も何か夢見てるみたいだ。料理を作って、それを誰かと食べているなんて」

「……貴方は、今まで何をして生きていたんですか?」

「何をしてた、って訊かれるとちょっと困るな。生まれた時から城から出たことはほとんどなかった」

文武を極め国政を統治するように言われて育ったと彼は言った。

「王朝の象徴と言えば聞こえは良いけど、俺はお飾りみたいな存在だった」

持っていた箸を置いて、改めて向き合う。

「王族ですか」

「ああ、でもまだ王位は継承してない。現王、扇帝陛下の第一皇子だ。……ところで俺の名前も知らないということは、やはりお前はよその人間だな?」

警戒混じりの問い掛けは難なく流され、鋭い視線で逆に追い詰められる。

恐らく、大多数の人間は天界の存在を知っている。正直に天界からやってきたと言えば信じる可能性はあるが、逃げてきたと言うのは少々都合が悪い。

奇特な術を狙い、無茶苦茶な要求をされたら面倒だ。彼は正義感が強いように見えるが、人間性まで完全に理解してるわけではない。

沈黙を貫いていると、彼はにっこりと笑って器を置いた。

「お前も訳ありみたいだな。心配するな、言いたくないなら言わなくていい。とりあえず今晩はここに泊まろう」

「……」

人間性……は分からないが、性格は大雑把。良く言えば大らかのようだ。

紫弦は自分と同じに酷い世間知らずだ。洗い物はともかく洗濯も下手だし、布団を敷くのも適当だし、小さな虫に大層驚く。

でも、本来居るべき場所が嫌で逃げ出してきた。それだけが自分と共通している。

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