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#3

last update Last Updated: 2025-09-25 12:03:22

深夜、彼の寝息を聞いてからこっそり部屋を抜け出した。外は無限の闇に包まれ、虫の鳴き声が響いている。空には丸く大きな発光体が浮かんでいる。多分、あれが月というやつだろう。

「ふう……」

逃げていいはずだ。このまま紫弦を置いて、好きな場所へ行く。最初からその予定だったし、彼の逃避行に付き合う義理はない。

だが気になるのは何故なのか。三歩進んでは二歩下がるを繰り返してしまい、なかなか宿から離れられない。

要所要所で確かに王族の誇りや威勢が感じ取れるのに、頼りなくて心配になる面もある。

会ったばかりの俺にもまぁまぁ優しいし……。

自分を悩ませている元凶が分からず葛藤した。何度目かのため息をついて、結局戸口へ戻る。しかしそれと時同じく、宿の周りをうろつく人影が見えた。相手も音を殺した歩き方をしていた為、反射的に物陰に隠れた。

宵闇の中でも自分の眼にはよく見える。現れたのは大柄な二人の男で、声を潜めて話し出した。

「……本当にこの宿に王子が泊まってるんだな?」

「あぁ、宿の主人が言っていた。悪いが一緒に死んでもらおう。そうすりゃ王族反対派の奴らから報酬がもらえるさ」

男達の顔がパッと明るくなる。そうさせたのは、ひとりが手にしているたいまつだ。彼は壁に手をつくと、格子しかはめられていない窓から、その炎を中へ投げ入れた。

「何してるんだ!」

予想外の行動に、思わず叫んでしまった。男達は見られていたことに驚愕し、一目散に逃げ出した。追いかけようとしたが、消火が先だったと思い直す。すぐに屋内へ戻って火事だと叫んだ。眠りについていた宿泊客も皆飛び起きて、千華のいる一階へ降りてきた。

「火事!? 大変だ!」

火を投げ込まれたのは誰もいない倉庫だった。男達で協力し、幸い木箱や樽に燃え移る前に消火することができた。怪我人がいないことを思えば間違いなく幸運だった。ただ床は黒焦げになり、部屋全体に異臭を放っている。

「火を放った奴は、皇子がここにいると知ってたみたいで……」

目撃者として黙っておくわけにもいかない。静かに紫弦に伝えると、それを聞いた宿の主人や客がざわめき出した。だけどそれ以上に、紫弦の反応が気に掛かった。

彼は一歩前に出て、千華に退るよう手で合図する。そして深々と頭を下げた。

「……俺のせいで危ない目に合わせて申し訳ない。今すぐここを出る。燃えた床は後日必ず修理するから許してくれ」

国土を統治する、下界では神の子とすら謳われている皇子が立場も顧みず、精一杯の謝罪をした。

自分は宿の人間ではないので何も言えない。彼らの怒りがおさまるまでは見守ることしかできなかった。

紫弦は周りが落ち着きを取り戻した頃立ち去ろうとした為、人の間を縫って追いかけていた。

月はまだ同じ位置に浮かんでいる。

「紫弦様!」

呼び掛けると、彼は驚いた顔で振り返った。

「何で来たんだ。お前はあの宿に泊まっていて大丈夫だと思うぞ」

「でも貴方だって、悪いことは何もしてない」

彼はやはり驚いて……しかし今度は恥ずかしそうに頬を掻いた。

民家が並ぶ路地の一角に佇み、同じ夜風を吸う。紫弦は困ったように腕を組んだ。

「悪いことはしてないけど、迷惑をかけたことに変わりはない。強いて言うなら王族であることが悪いんだ。従わせるばかりで何も恵みを与えないから。俺達を憎んでいる者は多くて、だから尚さらこの国を出たいと思ってた」

彼は昼間と打って変わって暗い顔をしていた。

彼が言っていることも分かる。どんな言葉を掛けたらいいか分からず困っていると、ハッとしたように顔を上げた。

「すまない、先ず礼を言ってなかったな。またお前に助けられた」

「いえ。……それに一度目は俺、何もしてませんから」

首を横に振って、思わず苦笑いした。大怪我を治す力があると思われたら困る。あんな大業はもう二度と使いたくない。

でも、見捨てることができないのは何故。

「いいや、お前はすごいよ。よく分からないけど、目には見えない力を持ってる。それに今後も世話するつもりだったのに宿に置いていくのは間違いだったな。すまん」

手が繋がる。彼に引かれるままに前を歩いたせいで何度か前につんのめった。

「あと立ち去ることに頭がいっぱいで、持ち金は全部宿に置いてきてしまったんだ。またしれっと戻るわけにも、こんな危険な状況で野宿するわけにもいかないし……仕方ない。帰るか」

「え? 帰るって……」

「俺の家だ。宿のことも説明しないといけないし、いっそお前を城に迎え入れたら……あの窮屈な空間でも楽しくやっていけそうだ」

城?

滝のように嫌な汗を流す千華に笑いかけ、紫弦は街の西側に聳え立つ巨大な城を指さした。

「俺が生まれた場所だ。お前にも是非見てほしい」

───“僕のお姫様になって”。

遠く掠れた一場面が蘇る。

男相手にお姫様、か。王子なら百歩譲って分かるけど、人間の子どもって不思議だ。小動物と同じく本能のまま動き、思ったことを思料することなく口にする。自分は子どもの時もあんな性質じゃなかったように思う。

ひたすら修行に明け暮れて、恋愛を楽しむ余裕はまるでなかった。だから尚のこと衝撃的だったんだ。

……あの時会った子は元気だろうか。今は立派な大人になっているんだろうか。

「千華。いつまで寝てるんだ」

「うわあっ!」

頬をぺちぺち叩かれて瞼を開ける。ひらけた視界の目の前に紫弦の顔があり、千華は大袈裟に飛び退いた。地上に下りてから何度も眠りについてるせいか、記憶がぐちゃぐちゃになっている。

ええ~と……確か夜中のうちに紫弦の家に来たんだっけ。

家というか、王城。しかもここは、遥か昔に自分が父と来た場所だ。驚くことに紫弦は国王の第一皇子だというから、彼の父……現王にも会ったことがある。

彼が退位したら紫弦が正式な王になるかもしれない。そうなれば千華の父が再びここへ挨拶をしにくる。敢え無く居場所が見つかり、天界へ連れ戻されて処刑、という見事な未来図が描かれた。

「それは駄目。ほんと駄目……あの、申し訳ないんですけど、俺今日中にはここを出ていきます」

自分の為に用意された客室の寝台に腰掛け、千華は顔を手で覆った。申し訳ないが命に関わる問題なので、なりふり構っていられない。しかしそんな事情を知らない紫弦は不思議そうに腕を組む。

「何言ってるんだ。帰る家がないんだろ?」

「ないけど、でも。きっと何とかなります」

人間の紫弦と違い、自分は野宿でも問題ない。食事が必要なわけでもないし、睡眠だって数年はとらなくて平気だ。いざとなったら着の身着のまま、どこまでも渡り歩いて土地を移ることができる。

ところが腹が鳴る音がして、わずかな緊張は打ち崩された。

「あれ……っ」

紫弦ではない。間違いなく自分の腹から聞こえた。

「ほら、腹も減ってるだろ。食事もちゃんと用意してるから着替えていこう」

「何で…………?」

紫弦が手を叩くと部屋に二人の女官が入ってきて、あれよあれよという間に着替えさせられてしまった。それも充分驚くに等しい出来事だったが、何よりも、自分が空腹だということに衝撃を受けていた。

腹が鳴ったのも、空腹感を覚えたのも生まれて初めてだ。

どうしてだろう。そういえばもう何度も眠ってるし、倦怠感が抜けきらない。

地上に下りてからというもの、確実に体調に変化が表れている。

こちらの危惧も露知らず、紫弦は笑顔で自分を食事に連れ回した。

最初は会う者全てに怪訝な顔をされたが、紫弦から命の恩人だと紹介されると決まって感謝された。

紫弦が一日家出したことはやはり城中で騒ぎになっていたようで、むしろよく連れて帰ってきてくれた、とこっそり言われることもあった。彼は王族らしかぬ破天荒さがあるようだ。

……それともそれが普通なのか。若ければ若いほど、どこか知らない場所へ行ってみたいと強く願う。歳を重ねるごとにその想いが薄れるのは、体力が衰えて諦めが生じるからだ。

千華は当面、皇子の食客として城に泊めてもらうことになった。たが紫弦はというと、千華をずっとここに留めるつもりかもしれない。頭が痛いところだ。

「紫弦様は王族の立場を捨ててどこへ行こうとしていたのですか?」

「んー?」

城に来て二日目の夜。文を書いている紫弦の近くへ座り、思い切って問い掛けた。初めて自分と会った日に、彼はこの国を出て東へ行くと言っていた。そこで何をするつもりだったのか知りたかった。

飲みかけの茶器に視線を注ぎながら、姿勢だけは正して待っていた。紫弦は諦めたように筆を置き、千華に向き合う形で座り直す。

「大事な人と、自分を見つけに」

紫弦の瞳と台詞は、(恥ずかしくて)目を逸らしたくなるほど真っ直ぐだ。

大事な人というのは何となくわかる。けど。  

「自分とは……?」

「ほら、俺はほとんどこの城から出たことがないだろう。民の不満もこの国の良さも全部又聞きで実感がない。すると可笑しなことに、自分という人間も分からなくなる。俺が民の輪郭を上手く掴めないように、俺の存在も民にとっては希薄だろう。目の前に姿を現さないから実在しているのかと疑われる。いてもいなくてもいい、むしろ税を搾り取るくらいならいない方がいい……」

燭台の炎が揺れている。つい放火された時のことを思い出しそうになり、慌てて視線を窓の方へ向けた。

「何の為に生まれてきたのか。どうしたら人の役に立てるのか知りたいんだ。そして自分らしく生きたい。俺は女ではなく男が好きだけど、跡取りのことを考えたら男と結ばれることは許されないし……一度ここから飛び出して、ゆっくり探したいと思ってな」

「ふむ……」

彼は今二十歳だと聞いた。城の中に閉じこもっていたといっても、しっかりしていると思う。ちゃんと夢と信念を持っている。

それでも王族として生まれたからには、死ぬまで役目を全うしなければいけない。自分探しの旅に出るなど決して許されないだろう。

「尊敬します。貴方と違って俺は逃げただけだ。他にも方法があったのに一番最悪な選択をした。いつか必ず罰が下る……」

袖で両手を隠し、そっと息をついた。口で言うほど悲観はしていないが、紫弦は心配そうに寄り添ってきた。

「俺はお前と逢えて本当に良かった。城から出たのは許されないことだが……あれは間違っていて、そして正しかったと思っている」

頬に触れられる。その瞬間、いつかの熱が蘇った。

城にいる間はずっと誰かが付き添っていた。でも今は二人だけ。本来この部屋も部外者が立ち入ることは禁じられているが、紫弦の許しで留まっている。

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