「ふう……」
逃げていいはずだ。このまま紫弦を置いて、好きな場所へ行く。最初からその予定だったし、彼の逃避行に付き合う義理はない。
だが気になるのは何故なのか。三歩進んでは二歩下がるを繰り返してしまい、なかなか宿から離れられない。
要所要所で確かに王族の誇りや威勢が感じ取れるのに、頼りなくて心配になる面もある。
会ったばかりの俺にもまぁまぁ優しいし……。自分を悩ませている元凶が分からず葛藤した。何度目かのため息をついて、結局戸口へ戻る。しかしそれと時同じく、宿の周りをうろつく人影が見えた。相手も音を殺した歩き方をしていた為、反射的に物陰に隠れた。
宵闇の中でも自分の眼にはよく見える。現れたのは大柄な二人の男で、声を潜めて話し出した。「……本当にこの宿に王子が泊まってるんだな?」
「あぁ、宿の主人が言っていた。悪いが一緒に死んでもらおう。そうすりゃ王族反対派の奴らから報酬がもらえるさ」
男達の顔がパッと明るくなる。そうさせたのは、ひとりが手にしているたいまつだ。彼は壁に手をつくと、格子しかはめられていない窓から、その炎を中へ投げ入れた。「何してるんだ!」
予想外の行動に、思わず叫んでしまった。男達は見られていたことに驚愕し、一目散に逃げ出した。追いかけようとしたが、消火が先だったと思い直す。すぐに屋内へ戻って火事だと叫んだ。眠りについていた宿泊客も皆飛び起きて、千華のいる一階へ降りてきた。
「火事!? 大変だ!」
火を投げ込まれたのは誰もいない倉庫だった。男達で協力し、幸い木箱や樽に燃え移る前に消火することができた。怪我人がいないことを思えば間違いなく幸運だった。ただ床は黒焦げになり、部屋全体に異臭を放っている。
「火を放った奴は、皇子がここにいると知ってたみたいで……」
目撃者として黙っておくわけにもいかない。静かに紫弦に伝えると、それを聞いた宿の主人や客がざわめき出した。だけどそれ以上に、紫弦の反応が気に掛かった。
彼は一歩前に出て、千華に退るよう手で合図する。そして深々と頭を下げた。
「……俺のせいで危ない目に合わせて申し訳ない。今すぐここを出る。燃えた床は後日必ず修理するから許してくれ」
国土を統治する、下界では神の子とすら謳われている皇子が立場も顧みず、精一杯の謝罪をした。
自分は宿の人間ではないので何も言えない。彼らの怒りがおさまるまでは見守ることしかできなかった。
紫弦は周りが落ち着きを取り戻した頃立ち去ろうとした為、人の間を縫って追いかけていた。月はまだ同じ位置に浮かんでいる。
「紫弦様!」
呼び掛けると、彼は驚いた顔で振り返った。
「何で来たんだ。お前はあの宿に泊まっていて大丈夫だと思うぞ」
「でも貴方だって、悪いことは何もしてない」
彼はやはり驚いて……しかし今度は恥ずかしそうに頬を掻いた。
民家が並ぶ路地の一角に佇み、同じ夜風を吸う。紫弦は困ったように腕を組んだ。
「悪いことはしてないけど、迷惑をかけたことに変わりはない。強いて言うなら王族であることが悪いんだ。従わせるばかりで何も恵みを与えないから。俺達を憎んでいる者は多くて、だから尚さらこの国を出たいと思ってた」
彼は昼間と打って変わって暗い顔をしていた。
彼が言っていることも分かる。どんな言葉を掛けたらいいか分からず困っていると、ハッとしたように顔を上げた。
「すまない、先ず礼を言ってなかったな。またお前に助けられた」
「いえ。……それに一度目は俺、何もしてませんから」
首を横に振って、思わず苦笑いした。大怪我を治す力があると思われたら困る。あんな大業はもう二度と使いたくない。
でも、見捨てることができないのは何故。
「いいや、お前はすごいよ。よく分からないけど、目には見えない力を持ってる。それに今後も世話するつもりだったのに宿に置いていくのは間違いだったな。すまん」
手が繋がる。彼に引かれるままに前を歩いたせいで何度か前につんのめった。
「あと立ち去ることに頭がいっぱいで、持ち金は全部宿に置いてきてしまったんだ。またしれっと戻るわけにも、こんな危険な状況で野宿するわけにもいかないし……仕方ない。帰るか」
「え? 帰るって……」
「俺の家だ。宿のことも説明しないといけないし、いっそお前を城に迎え入れたら……あの窮屈な空間でも楽しくやっていけそうだ」
城?
滝のように嫌な汗を流す千華に笑いかけ、紫弦は街の西側に聳え立つ巨大な城を指さした。
「俺が生まれた場所だ。お前にも是非見てほしい」
───“僕のお姫様になって”。遠く掠れた一場面が蘇る。
男相手にお姫様、か。王子なら百歩譲って分かるけど、人間の子どもって不思議だ。小動物と同じく本能のまま動き、思ったことを思料することなく口にする。自分は子どもの時もあんな性質じゃなかったように思う。
ひたすら修行に明け暮れて、恋愛を楽しむ余裕はまるでなかった。だから尚のこと衝撃的だったんだ。
……あの時会った子は元気だろうか。今は立派な大人になっているんだろうか。
「千華。いつまで寝てるんだ」「うわあっ!」
頬をぺちぺち叩かれて瞼を開ける。ひらけた視界の目の前に紫弦の顔があり、千華は大袈裟に飛び退いた。地上に下りてから何度も眠りについてるせいか、記憶がぐちゃぐちゃになっている。
ええ~と……確か夜中のうちに紫弦の家に来たんだっけ。家というか、王城。しかもここは、遥か昔に自分が父と来た場所だ。驚くことに紫弦は国王の第一皇子だというから、彼の父……現王にも会ったことがある。
彼が退位したら紫弦が正式な王になるかもしれない。そうなれば千華の父が再びここへ挨拶をしにくる。敢え無く居場所が見つかり、天界へ連れ戻されて処刑、という見事な未来図が描かれた。
「それは駄目。ほんと駄目……あの、申し訳ないんですけど、俺今日中にはここを出ていきます」 自分の為に用意された客室の寝台に腰掛け、千華は顔を手で覆った。申し訳ないが命に関わる問題なので、なりふり構っていられない。しかしそんな事情を知らない紫弦は不思議そうに腕を組む。「何言ってるんだ。帰る家がないんだろ?」
「ないけど、でも。きっと何とかなります」
人間の紫弦と違い、自分は野宿でも問題ない。食事が必要なわけでもないし、睡眠だって数年はとらなくて平気だ。いざとなったら着の身着のまま、どこまでも渡り歩いて土地を移ることができる。
ところが腹が鳴る音がして、わずかな緊張は打ち崩された。
「あれ……っ」
紫弦ではない。間違いなく自分の腹から聞こえた。
「ほら、腹も減ってるだろ。食事もちゃんと用意してるから着替えていこう」
「何で…………?」
紫弦が手を叩くと部屋に二人の女官が入ってきて、あれよあれよという間に着替えさせられてしまった。それも充分驚くに等しい出来事だったが、何よりも、自分が空腹だということに衝撃を受けていた。 腹が鳴ったのも、空腹感を覚えたのも生まれて初めてだ。 どうしてだろう。そういえばもう何度も眠ってるし、倦怠感が抜けきらない。地上に下りてからというもの、確実に体調に変化が表れている。
こちらの危惧も露知らず、紫弦は笑顔で自分を食事に連れ回した。
最初は会う者全てに怪訝な顔をされたが、紫弦から命の恩人だと紹介されると決まって感謝された。
紫弦が一日家出したことはやはり城中で騒ぎになっていたようで、むしろよく連れて帰ってきてくれた、とこっそり言われることもあった。彼は王族らしかぬ破天荒さがあるようだ。
……それともそれが普通なのか。若ければ若いほど、どこか知らない場所へ行ってみたいと強く願う。歳を重ねるごとにその想いが薄れるのは、体力が衰えて諦めが生じるからだ。
千華は当面、皇子の食客として城に泊めてもらうことになった。たが紫弦はというと、千華をずっとここに留めるつもりかもしれない。頭が痛いところだ。
「紫弦様は王族の立場を捨ててどこへ行こうとしていたのですか?」
「んー?」
城に来て二日目の夜。文を書いている紫弦の近くへ座り、思い切って問い掛けた。初めて自分と会った日に、彼はこの国を出て東へ行くと言っていた。そこで何をするつもりだったのか知りたかった。
飲みかけの茶器に視線を注ぎながら、姿勢だけは正して待っていた。紫弦は諦めたように筆を置き、千華に向き合う形で座り直す。
「大事な人と、自分を見つけに」
紫弦の瞳と台詞は、(恥ずかしくて)目を逸らしたくなるほど真っ直ぐだ。
大事な人というのは何となくわかる。けど。
「自分とは……?」
「ほら、俺はほとんどこの城から出たことがないだろう。民の不満もこの国の良さも全部又聞きで実感がない。すると可笑しなことに、自分という人間も分からなくなる。俺が民の輪郭を上手く掴めないように、俺の存在も民にとっては希薄だろう。目の前に姿を現さないから実在しているのかと疑われる。いてもいなくてもいい、むしろ税を搾り取るくらいならいない方がいい……」
燭台の炎が揺れている。つい放火された時のことを思い出しそうになり、慌てて視線を窓の方へ向けた。
「何の為に生まれてきたのか。どうしたら人の役に立てるのか知りたいんだ。そして自分らしく生きたい。俺は女ではなく男が好きだけど、跡取りのことを考えたら男と結ばれることは許されないし……一度ここから飛び出して、ゆっくり探したいと思ってな」
「ふむ……」
彼は今二十歳だと聞いた。城の中に閉じこもっていたといっても、しっかりしていると思う。ちゃんと夢と信念を持っている。
それでも王族として生まれたからには、死ぬまで役目を全うしなければいけない。自分探しの旅に出るなど決して許されないだろう。
「尊敬します。貴方と違って俺は逃げただけだ。他にも方法があったのに一番最悪な選択をした。いつか必ず罰が下る……」
袖で両手を隠し、そっと息をついた。口で言うほど悲観はしていないが、紫弦は心配そうに寄り添ってきた。
「俺はお前と逢えて本当に良かった。城から出たのは許されないことだが……あれは間違っていて、そして正しかったと思っている」
頬に触れられる。その瞬間、いつかの熱が蘇った。
城にいる間はずっと誰かが付き添っていた。でも今は二人だけ。本来この部屋も部外者が立ち入ることは禁じられているが、紫弦の許しで留まっている。
差し出された手を取る。紫弦の笑顔は太陽のように眩しくて、正直困っていた。嬉しい気持ちと、このままではいけない、という切迫感の板挟み。人として渡っていきたいから、道士であることは隠しておきたい。だが彼とずっと一緒に居ると不器用な自分は必ずどこかでボロが出る。天界の者が人界へ下ることはまずなく、その珍しさや秘術を求めて悪巧みをする人間もいると父から聞いたことがある。恐らく人界については師叔よりも父の方が詳しい。人の素晴らしさも醜さも、きっと天界の誰より熟知している。「俺は普通の人とは違うと思っていた。良くも悪くも目立ってしまう」前を行く紫弦に続き、長い通路を渡る。彼は振り返ることもせず、一定の速度で先を歩いた。「子どもの頃は本当にたまに、城の外へ出ることが許されたんだ。けど長く付き合える友人はもつくれなかった。やっと気が合った奴は、俺が王族だと分かると離れていった。同い年の中で遊離していると気付いたら、さすがにちょっと虚しかったよ。共にひとりつくれないなんて……」国王の父には数えきれないほどの友がいる。だがそれはほとんど親類で、身分が近い者ばかり。権力に頼りたくない。自分は、立場を越えた友を作りたかった。「結局大人になるまで交流関係は全然広がらなかったけど。お前と会えて良かったよ」「あ……ありがとうございます」気恥ずかしくなって、礼を言いつつ顔を逸らした。俺達も“友人”とは違うと思うけどな……。昨夜のことを思い出して鳥肌が立ったとき、紫弦は急に手を叩いた。「そういえば。幼い時に、とても綺麗な青年と会ったことがあるんだ。ただ昔のことだから綺麗だったことしか覚えてない。困ったもんだな」「子どもの頃なら仕方ありませんね」「あぁ。告白したことは覚えてるんだけどな」「あはは! それは大胆……」笑いながらおどけた時、突然過去の映像が脳裏に流れた。────僕のお姫様になって。自身の前髪を軽く掻き上げる。馬鹿な。あれは……いや、そんな偶然あるわけない。「千華、着いたぞ。俺の後に来てくれ」前を歩く彼の声でハッとし、急いで襟元をなおした。両側に大きな柱がいくつも並び、前方には立派な絨毯が直線上に敷かれている。紫弦はその上を躊躇いなく進んだ。いいや、待てよ……。以前父と人界へ下りたときから、人界の王は変わってないはずだ。ならば王と会うのはこ
骨の髄まで溶かされた。愛情と欲情が綯い交ぜになった、本気で自惚れそうな情事だ。紫弦は千華の細い腰を支え、首から爪先まで愛撫を繰り返した。既に性器は萎えており、それは千華も同じだったが、相変わらず寝そべって密着していた。動く度に淫らな糸が引き、自分達の卑猥な行為を自覚する。恥ずかしい……。慣れずについつい離れようとしてしまうが、紫弦はこれまで幾度と経験してきたのだろう。そう思うと何だかやりきれない気持ちになる。息苦しさもあって自身の首を加減せずに掴んだ。それに気付いた紫弦が律動を止め、千華の腕を掴む。「何してる。窒息するぞ」「ん……っ」傷を負いそうなところでしっかり止めてくれる、その優しさが今は煩わしい。このまま本当に息が止まれば……彼は少しは慌ててくれただろうに。でもこんなことで死ぬのは馬鹿だ。情事中に自死なんて、冥界へいくこともなく消滅しそうである。ほとんどヤケになって、せめて声を出さないよう唇を噛み締めた。だがそれも早々に阻まれる。彼は千華の鼻を掴み、無理やり口を開かせた。「だから、自分の身体を傷付けるな」「そん、な……っ!」気が狂いそうなほど攻めてくるくせに、あんまりだ。この絶倫め。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせたいけど、これでも彼は国父の息子だ。下手に憤激させたら惨いやり方で処刑されるかもしれない。でも……ないかな。そんなことをする奴には見えない。と言うのも、またひとつの自惚れなのか。「あっ、ん、ふあ……っ」両腕を押さえられ、口付けをせがまれる。女のような喘ぎ声が、千華の耳元でずっと聞こえている。自分のものと思いたくないのに、それは紫弦が身動ぎする度にはしたなく響く。本当に、一番会ったらいけない人。一番捕まったらいけない人に捕まってしまった。意識が水にとけていく。押し寄せる後悔と快楽は、透明な世界に飲み込まれた。快楽から解放された頃────。窓から陽光が射し込み、鳥の囀りが聞こえた。微かではあるが、人が慌ただしく動いてる音も聞こえる。小さな変化を感じつつ、千華は未だ紫弦と同じ毛布にくるまっていた。きっと城の者は朝餉や朝会の支度などで忙しいのだろう。ぐうたらしていることに罪悪感が募るが、動きたくても動けないのが実情だ。紫弦は後ろから千華を抱き留め、長いこと放そうとしない。「あの~……。そろそろ起きないと誰か来
そんな無茶な。だが文句を言う間もなく、愛撫は激しさを増す。いやらしい水音が大きくかる毎に、羞恥心も肥大した。頭の中では混乱の渦が巻き起こっている。”愛されること”って、何なんだ……。どれだけ考えても答えに辿り着けない。けど紫弦の必死な表情を目にすると思考が止まってしまう。これらは全て欲求を満たす行為のはずなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。分からないから、尚さら困惑して力が抜ける。「千華……俺を見ろ」今度は仰向けに寝かされる。舌は離れたが、紫弦の冷たい指が柔らかくなったそこに入り込んできた。「見て……」鈍い痛み。冷や汗をかいた。怖い……怖いけど、真っ直ぐ見てくる彼から目が離せない。片手だけ繋いだ。紫弦のもう片手の指は、自分の中に潜り込んできている。どう受け止めていいのか分からず、何度も腰を揺らした。彼の指は角度を変え、中の出っ張りを擦る。時に優しく、時に激しく。指の数も増え、圧迫感に呼吸が荒くなる。その息すらも奪われ、本気で殺されると思った。「ん……紫、弦様……っ」けど何故か、全身の緊張は解けてきている。殺され方としては酷く情けないけど、さっきよりも悪くない。彼がこちらの視線や仕草に神経を注ぎ、分かろうとしている。心で繋がろうとしている。そう気付くと小さな光が灯った。どれほど時間が経過したか分からないが、指は引き抜かれた。彼の指には卑猥な液体が絡みついている。それは彼が千華の為に用意した潤滑油だったが、自身の体内から零れているところを見ると羞恥でおかしくなりそうだった。「すごいな。とろとろ」「わざわざ言わないでください……!」「すまんすまん」紫弦は申し訳なさそうに笑い、千華の額に口付けした。「酷いことはしない。つもりだけど、お前が可愛いせいでやり過ぎる可能性があるから、先に謝っておく」もっと真剣に防ぐ努力をしろ。怒りを通り越して呆れ返ってしまう。けどそれすらも笑い流し、彼は千華の腰を掴んだ。「不思議なんだ。最初は鎮めてやろうと思っただけなのに……お前に触れてる時が今までで一番、気持ちいい」白い衣がはらはらと落ちる。紫弦のものはとっくに勃ち上がり、千華以上に熱をまとっていた。その先端が小さな入口に当たり、優しく刺激を与える。「気持ちよくておかしくなる。何でなんだろうな。出会った時からずっとだ。お前といると不思議な経験
理性を投げ打って快楽に溺れるなんて許されざることだ。頭では分かっているのに、彼に見つめられると自分が今いる場所すら忘れそうになる。自分を受け入れてくれる世界に溺れたいと思ってしまう。ここは人の為の世界で、天が決めた仕来りはない。だから尚さら揺らぎそうになった。またあの快感を……。紫弦の手に自分の手を重ねようとした、その寸前で我に返った。「すみません! ……もう寝ます」「え。おい、千華?」彼は自分を呼び止めようとしていたが、聞こえないふりをして部屋を飛び出した。暗いため壁に手を宛てながら先へ進む。今のは本気で危なかった。なにか悪い気に当たっている気がする。でもこちらが影響されるほどの気を人間が発することなんてできないし、単に自分が血迷っているだけだろう。自分と彼では立場が違い過ぎる。今以上の関係になってはいけない。「は……っ」だが、まださっきの熱が下がってくれない。長い廊下を歩きながら、とうとう堪えられず近くの柱の影に隠れた。身体中が火照って苦しい。ずり落ちるようにして床に座り、衣の中に手を伸ばした。怖々確認すると、性器はまた真っ赤に反り返り、刺激を求めている。「何で……っ」あまりに卑猥なので咄嗟に視界から外した。醜い、浅ましい、怖い。何十年も生きていながら、自分の身体に恐怖を覚えた。今この身体は地上に馴染みつつある。それは即ち、人に近付いているということだ。それとは別に、紫弦といると異常なまでに反応してしまう……自分が歯痒くて仕方ない。無人の広間は冥々たる闇が広がり、無力感を助長していく。こんな不安定な身体でこれからやっていけるんだろうか。地上へ下りた時はあれほど自信に満ち溢れていたのに、もうよく分からない。ただの人間になったらどうしよう。熱を帯びた性器を握ったとき、恐怖や不安はわずかに薄れた。生理的な反応だろうが、涙が流れて床にぱたぱた落ちる。訪れる熱い快感に対し、孤独はやたらと冷めた目で自分を見ている。「千華!」ふいに自分の名が響いたとき、胸がぎゅっと締め付けられた。遠慮がちに顔を上げると、肩で息をしながら佇む紫弦がいた。わざわざ追いかけてくれたらしい。けど最悪だ。よりにもよって一番酷い姿を見られた。追いかけてきてくれたことは嬉しかったけど、羞恥心に打ち勝つことはできなかった。気まずくて俯くも、抱き抱えられた
どれだけ考えても答えに辿り着けない。けど紫弦の必死な表情を目にすると思考が止まってしまう。これらは全て欲求を満たす行為のはずなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。分からないから、尚さら困惑して力が抜ける。「千華……俺を見ろ」今度は仰向けに寝かされる。舌は離れたが、紫弦の冷たい指が柔らかくなったそこに入り込んできた。「見て……」鈍い痛み。冷や汗をかいた。怖い……怖いけど、真っ直ぐ見てくる彼から目が離せない。片手だけ繋いだ。紫弦のもう片手の指は、自分の中に潜り込んできている。どう受け止めていいのか分からず、何度も腰を揺らした。彼の指は角度を変え、中の出っ張りを擦る。時に優しく、時に激しく。指の数も増え、圧迫感に呼吸が荒くなる。その息すらも奪われ、本気で殺されると思った。「ん……紫、弦様……っ」けど何故か、全身の緊張は解けてきている。殺され方としては酷く情けないけど、さっきよりも悪くない。彼がこちらの視線や仕草に神経を注ぎ、分かろうとしている。心で繋がろうとしている。そう気付くと小さな光が灯った。どれほど時間が経過したか分からないが、指は引き抜かれた。彼の指には卑猥な液体が絡みついている。それは彼が千華の為に用意した潤滑油だったが、自身の体内から零れているところを見ると羞恥でおかしくなりそうだった。「すごいな。とろとろ」「わざわざ言わないでください……!」「すまんすまん」紫弦は申し訳なさそうに笑い、千華の額に口付けした。「酷いことはしない。つもりだけど、お前が可愛いせいでやり過ぎる可能性があるから、先に謝っておく」もっと真剣に防ぐ努力をしろ。怒りを通り越して呆れ返ってしまう。けどそれすらも笑い流し、彼は千華の腰を掴んだ。「不思議なんだ。最初は鎮めてやろうと思っただけなのに……お前に触れてる時が今までで一番、気持ちいい」白い衣がはらはらと落ちる。紫弦のものはとっくに勃ち上がり、千華以上に熱をまとっていた。その先端が小さな入口に当たり、優しく刺激を与える。「気持ちよくておかしくなる。何でなんだろうな。出会った時からずっとだ。お前といると不思議な経験ばかりする」「それは……」自分も同じだ。体内中の気が、紫弦によって掻き乱されている。唯一可能性があるとすれば、彼を助けたときだ。全ての神気を注いだことで、人と同じ存在に成り下がった
理性を投げ打って快楽に溺れるなんて許されざることだ。頭では分かっているのに、彼に見つめられると自分が今いる場所すら忘れそうになる。自分を受け入れてくれる世界に溺れたいと思ってしまう。ここは人の為の世界で、天が決めた仕来りはない。だから尚さら揺らぎそうになった。またあの快感を……。紫弦の手に自分の手を重ねようとした、その寸前で我に返った。「すみません! ……もう寝ます」「え。おい、千華?」彼は自分を呼び止めようとしていたが、聞こえないふりをして部屋を飛び出した。暗いため壁に手を宛てながら先へ進む。今のは本気で危なかった。なにか悪い気に当たっている気がする。でもこちらが影響されるほどの気を人間が発することなんてできないし、単に自分が血迷っているだけだろう。自分と彼では立場が違い過ぎる。今以上の関係になってはいけない。「は……っ」だが、まださっきの熱が下がってくれない。長い廊下を歩きながら、とうとう堪えられず近くの柱の影に隠れた。身体中が火照って苦しい。ずり落ちるようにして床に座り、衣の中に手を伸ばした。怖々確認すると、性器はまた真っ赤に反り返り、刺激を求めている。「何で……っ」あまりに卑猥なので咄嗟に視界から外した。醜い、浅ましい、怖い。何十年も生きていながら、自分の身体に恐怖を覚えた。今この身体は地上に馴染みつつある。それは即ち、人に近付いているということだ。それとは別に、紫弦といると異常なまでに反応してしまう……自分が歯痒くて仕方ない。無人の広間は冥々たる闇が広がり、無力感を助長していく。こんな不安定な身体でこれからやっていけるんだろうか。地上へ下りた時はあれほど自信に満ち溢れていたのに、もうよく分からない。ただの人間になったらどうしよう。熱を帯びた性器を握ったとき、恐怖や不安はわずかに薄れた。生理的な反応だろうが、涙が流れて床にぱたぱた落ちる。訪れる熱い快感に対し、孤独はやたらと冷めた目で自分を見ている。「千華!」ふいに自分の名が響いたとき、胸がぎゅっと締め付けられた。遠慮がちに顔を上げると、肩で息をしながら佇む紫弦がいた。わざわざ追いかけてくれたらしい。けど最悪だ。よりにもよって一番酷い姿を見られた。追いかけてきてくれたことは嬉しかったけど、羞恥心に打ち勝つことはできなかった。気まずくて俯くも、抱き抱えられた