既に酷いことをやらかしているけど、人を傷つけて(殺して)逃げ去るなんて真似は死んでもできない。急いで階段を駆け下り、地面に伏せている青年を抱え起こした。
血だらけで見るも無残な姿だが、首に手を当ててみるとまだ脈があった。
「良かった……!」
死者を甦らせるような大術は千年かかっても自分は習得できないが、生きていれば望みがある。
自分が持っている全ての生気を、唇の一点に集めた。青年の体内に注ぐ方法だけは簡単である。ただ、青年からすれば災難でしかない。
わるいな……。
彼の後頭部を引き寄せ、口を塞いだ。
いきなり階段から叩き落とされて瀕死状態に陥り、男に接吻までされるなんて、この青年はなんてついてないんだろう。
なけなしの神力を、底が尽くまで青年の体内に送り込む。
頼む。……生きてくれ。
願いが通じ、青年の傷はみるみる塞がっていった。
規則的な寝息も微かに聞こえる。青白い顔だった青年は、今は穏やかな表情で眠っていた。
彼を起こさないよう、そっと横にする。脈拍も安定しているし、何とか大丈夫そうだ。ほっと息をついた途端、急激な目眩に襲われた。
「……っ!」
ただでさえ慣れない地上の空気。激しい頭痛と動悸に襲われ、意識が遠のいていく。
でも、彼が助かるなら……。
全身の力が抜け、千華は地面に倒れた。最後に見えたのは綺麗な青年の顔で。こんな時に意味が分からないが、……ほんの少しだけ、触ってみたいなんて思った。
パチパチと耳元でなにかが鳴っている。
それに温かい。……近くでなにか燃えているようだ。
火は何もかも灰にしてしまう危険なもの。嫌というほど知っているので、反射的に飛び起きた。
狭い正方形の天井が真上に広がっている。千華は暗い民家の中で目を覚ました。寝台の上に横になり、腹には薄い毛布が掛けられている。
暗い……静か……。
小窓から射し込む光と、灰だらけの暖炉に灯る炎がいくらか仕事している。
あの程度の火なら燃え移る心配はないか。胸を撫で下ろし、乱れた髪を適当に整えた。
「起きたか」
「ハイッ!」
心臓が飛び出しそうなほど驚いてしまった。おそるおそる声の方へ向くと、先程千華が階段から叩き落とした、黒髪の青年が佇んでいた。
すっかり顔色も良く、着替えをしたのか服のどこにも血はついていない。
大体の年齢も予想がつく。恐らく人間の中で一番元気な時代だろう。一番元気な……確か二十歳ぐらい。
「気分は? 痛い場所はないか?」
「……大丈夫です。久しぶりに寝たからむしろ元気になりました」
本当、三十年ぶりぐらいによく眠った。
「そうか。俺が目を覚ました時に隣で倒れているから驚いたんだよ。ここは街の宿だ。金は心配ない」
「あ、ありがとうございます」
そこまでしてくれるなんて、随分親切なひとだ。
師の言葉が蘇る。人間は弱いが、慈愛に満ちた者が多い。そういう者は天から見守って時に助けてやるべきなのだと。
まったくもってその通り。だのにそんな優しい青年を殺しかけたというのは心痛である。
「俺の名は紫弦(しげん)。お前は?」
「私……俺は、千華といいます」
一瞬ドキッとしたが、彼に自分の正体など分かるはずもない。人間ということにして、素知らぬ顔で立ち去ろう。
「それじゃ、色々ありがとうございました。俺は用があるのでもう行っ!」
さりげなく横を通ろうとしたのだが、腕を掴まれ再び床の上に倒れてしまう。突然のことに視界だけでなく思考も反転した。
「な、何するんですかっ!」
「まぁ待て。色々訊きたいことがあるんだ」
両腕をひとまとめに押さえつけられ、体重を乗せられる。視界は青年の顔で覆われ、薄暗い影を落とした。よく見れば精悍な顔つき、白皙な肌。天上でもそうそう見な美貌の青年だ。しかし今はそんなことどうでもいい。
彼はただの人間のはずだ。どれだけ屈強な相手でも簡単に振り解けるはずなのに、慣れない地上の空気を吸っているせいかビクともしない。力関係に気付き、ようやく焦りを覚えた。
「お前、さっき俺にしたこと覚えてるか?」
「えっ?」
さっき……って、あぁ。首に一撃を撃ち込んで叩き落としたことか。やっぱり覚えていたか……!
「お、覚えてます! でもその、わざとじゃなくて。この街に来たばかりで色々興奮してたっていうか……初めて解放されてはしゃいじゃったんです! 色々抑圧されていたものが弾けて、周りが見えないまま走り出しちゃって! 身体以上に、心が!」
焦り過ぎて言い訳にもならない、支離滅裂な訴えをした。しかも色々を二回言ってしまった。色々……、色々って色々便利な言葉だ。
「抑圧? じゃあお前も隠して生きてたのか?」
「は、はい。隠してというか、隠れてというか」
「そうか。じゃあ一緒に逃げるか?」
「はい! ……はい?」
一度は肯定したものの、意味が分からず聞き返す。
一緒に逃げるって、一体何の話だ。
理解できず呆然とする千華の髪を梳き、青年は苦しげに顔を歪めた。
「お前も同性愛者なんだろう? 俺もそうだ。家の仕来りや周りの目が嫌で逃げ出してきたばかりなんだ。さっきは何故か、気付いたら地面で倒れてたんだけど……これも何かの縁だし、この街から出て共に東に行こう。この王国よりは寛容で自由な生き方ができる場所だから」
「…………」
馬乗りにされたまま、恐ろしい誘いを受けている。
一生分の汗を流した気がする。自分は不死だが、それでも身体の全水分が蒸発したような感覚だった。
いや、でも待て。そもそも何で。
「何で……俺が同性愛者だと?」
「何でって。俺に接吻したことが何よりの証拠じゃないか。しかも今色々興奮してた、って自分で言っただろう」
あぁ……!!
ようやく合点がいった。確認してみると、彼は自分が口付けして生気を与えたことを覚えていたのだ。
だが階段から叩き落としたことは覚えていなかった。
彼は突然目に見えない速さで何者かに攻撃され、気付いたら空を見上げていた。そこへ千華がやってきて、突然接吻をして倒れたと思っているようだ。
いやいや何でそこだけ覚えてんだ。いっそ全部忘れろ!
こういう時のために記憶を奪う術も教わっておくべきだった。
「でも不思議だな。あれだけ出血もして痛かったのに、お前に口付けされてからどこにも怪我がないんだ」
「へ、え……貴方が強靭な身体をしてるんじゃないですか? 俺は……その、そこに唇があったから塞いだだけで」
とても痛い沈黙が流れる。寝起きで尚さら頭の回転が遅いのか、言い訳が思いつかない。
彼は呆気に取られた様子だったが、途端に吹き出した。
「お前身なりは立派なのに変わった奴だな。口付けは、俺の家ではとても特別な行為だ。永遠に連れ添うことを誓い、入内する為の大切な儀式……」
入内?
聞き慣れない言葉に千華は眉根を寄せる。しかし彼……紫弦はその視線に気付くとハッとして首を横に振った。
「いや、それはいい。もう家は捨てたんだ。新しい人生を歩まないとな」
「はぁ……でも俺はその、口付けとか接吻……が特別な行為、ってわけではないので」
地上ではそういうものらしいが、天上では何でもない。強いて言うなら肌に触れること自体が特別で、それ以上の行為は全て同じ重さなのだ。ひとたび触れてしまったのなら、接吻しようが交合しようが同じこと。
だがこの言い方が良くなかった。紫弦は途端に目を輝かせ、満面の笑みをたたえて千華を抱き締める。
「おお! ということは、お前もかなりの好色だな? ますます気が合う」
「ち、違うっ!」
とんでもない期待を与えてしまった。全力で否定したものの、紫弦は止まらない。照れ隠しと思われ、むしろ悪戯に首筋を愛撫してきた。
「そうだな……大丈夫、心配するな。こう見えて俺は後宮中の使用人を抱いた。お前が今まで寝た誰よりも上手い自信がある」
わ。なんて嫌な自信だ。
しかもさっきから恐ろしいことを言っている。後宮と言うからには、恐らく彼は人間の中でも身分の高い存在だ。それが家出して、行きずりの男を襲う男色強姦魔だなんて。
「あっ!」
内心罵詈雑言を吐いていたが、下から差し込んできた手に全ての思考を持っていかれた。そんな場所を他人に触られるのは生まれて初めてのことで、息をすることすら忘れそうになる。
「い……いやっ、どこ触って……」
冷たくて大きな手のひらが、自分の陰茎を包み込んでいる。怒りやら羞恥心やらで気を失いそうだった。なにかの間違い……いや、夢であってほしい。そう願うものの、性器を激しく扱かれた途端、脆い理性は全て弾け飛ぶ。
「あっ! や、そんな……っ」
「ウブな反応だな。ますます気に入った」
熱を発する根元を握り、先端へ向かって滑らす。下の袋に詰まっているものを搾り取るような動きに戸惑った。
初めは緊張していたはずなのに、徐々に高まる順応性が憎い。柔かった性器は硬度をもち、次第に自ら上を向いた。
「あっ……やだ、や、いや……っ」
下半身だけじゃない、どこもかしこも熱い。腰が痙攣する。つま先が痺れる。
冷たい床に倒れ、仰向けで天井を見上げていた。
おかしい。いや、おかしくなる。何でこうなった……。
少しずつ腰紐を解かれ、道士服を剥ぎ取られる。突き飛ばして逃げ出したいのに、昂った性器を握られていると抵抗できない。
手足が小刻みに震え、女のように喘いでしまう。自分の身体ではないような恐怖を覚え、涙を流した。
肩を震わせて嗚咽する千華にようやく気付き、紫弦は息を飲んだ。
差し出された手を取る。紫弦の笑顔は太陽のように眩しくて、正直困っていた。嬉しい気持ちと、このままではいけない、という切迫感の板挟み。人として渡っていきたいから、道士であることは隠しておきたい。だが彼とずっと一緒に居ると不器用な自分は必ずどこかでボロが出る。天界の者が人界へ下ることはまずなく、その珍しさや秘術を求めて悪巧みをする人間もいると父から聞いたことがある。恐らく人界については師叔よりも父の方が詳しい。人の素晴らしさも醜さも、きっと天界の誰より熟知している。「俺は普通の人とは違うと思っていた。良くも悪くも目立ってしまう」前を行く紫弦に続き、長い通路を渡る。彼は振り返ることもせず、一定の速度で先を歩いた。「子どもの頃は本当にたまに、城の外へ出ることが許されたんだ。けど長く付き合える友人はもつくれなかった。やっと気が合った奴は、俺が王族だと分かると離れていった。同い年の中で遊離していると気付いたら、さすがにちょっと虚しかったよ。共にひとりつくれないなんて……」国王の父には数えきれないほどの友がいる。だがそれはほとんど親類で、身分が近い者ばかり。権力に頼りたくない。自分は、立場を越えた友を作りたかった。「結局大人になるまで交流関係は全然広がらなかったけど。お前と会えて良かったよ」「あ……ありがとうございます」気恥ずかしくなって、礼を言いつつ顔を逸らした。俺達も“友人”とは違うと思うけどな……。昨夜のことを思い出して鳥肌が立ったとき、紫弦は急に手を叩いた。「そういえば。幼い時に、とても綺麗な青年と会ったことがあるんだ。ただ昔のことだから綺麗だったことしか覚えてない。困ったもんだな」「子どもの頃なら仕方ありませんね」「あぁ。告白したことは覚えてるんだけどな」「あはは! それは大胆……」笑いながらおどけた時、突然過去の映像が脳裏に流れた。────僕のお姫様になって。自身の前髪を軽く掻き上げる。馬鹿な。あれは……いや、そんな偶然あるわけない。「千華、着いたぞ。俺の後に来てくれ」前を歩く彼の声でハッとし、急いで襟元をなおした。両側に大きな柱がいくつも並び、前方には立派な絨毯が直線上に敷かれている。紫弦はその上を躊躇いなく進んだ。いいや、待てよ……。以前父と人界へ下りたときから、人界の王は変わってないはずだ。ならば王と会うのはこ
骨の髄まで溶かされた。愛情と欲情が綯い交ぜになった、本気で自惚れそうな情事だ。紫弦は千華の細い腰を支え、首から爪先まで愛撫を繰り返した。既に性器は萎えており、それは千華も同じだったが、相変わらず寝そべって密着していた。動く度に淫らな糸が引き、自分達の卑猥な行為を自覚する。恥ずかしい……。慣れずについつい離れようとしてしまうが、紫弦はこれまで幾度と経験してきたのだろう。そう思うと何だかやりきれない気持ちになる。息苦しさもあって自身の首を加減せずに掴んだ。それに気付いた紫弦が律動を止め、千華の腕を掴む。「何してる。窒息するぞ」「ん……っ」傷を負いそうなところでしっかり止めてくれる、その優しさが今は煩わしい。このまま本当に息が止まれば……彼は少しは慌ててくれただろうに。でもこんなことで死ぬのは馬鹿だ。情事中に自死なんて、冥界へいくこともなく消滅しそうである。ほとんどヤケになって、せめて声を出さないよう唇を噛み締めた。だがそれも早々に阻まれる。彼は千華の鼻を掴み、無理やり口を開かせた。「だから、自分の身体を傷付けるな」「そん、な……っ!」気が狂いそうなほど攻めてくるくせに、あんまりだ。この絶倫め。思いつく限りの罵詈雑言を浴びせたいけど、これでも彼は国父の息子だ。下手に憤激させたら惨いやり方で処刑されるかもしれない。でも……ないかな。そんなことをする奴には見えない。と言うのも、またひとつの自惚れなのか。「あっ、ん、ふあ……っ」両腕を押さえられ、口付けをせがまれる。女のような喘ぎ声が、千華の耳元でずっと聞こえている。自分のものと思いたくないのに、それは紫弦が身動ぎする度にはしたなく響く。本当に、一番会ったらいけない人。一番捕まったらいけない人に捕まってしまった。意識が水にとけていく。押し寄せる後悔と快楽は、透明な世界に飲み込まれた。快楽から解放された頃────。窓から陽光が射し込み、鳥の囀りが聞こえた。微かではあるが、人が慌ただしく動いてる音も聞こえる。小さな変化を感じつつ、千華は未だ紫弦と同じ毛布にくるまっていた。きっと城の者は朝餉や朝会の支度などで忙しいのだろう。ぐうたらしていることに罪悪感が募るが、動きたくても動けないのが実情だ。紫弦は後ろから千華を抱き留め、長いこと放そうとしない。「あの~……。そろそろ起きないと誰か来
そんな無茶な。だが文句を言う間もなく、愛撫は激しさを増す。いやらしい水音が大きくかる毎に、羞恥心も肥大した。頭の中では混乱の渦が巻き起こっている。”愛されること”って、何なんだ……。どれだけ考えても答えに辿り着けない。けど紫弦の必死な表情を目にすると思考が止まってしまう。これらは全て欲求を満たす行為のはずなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。分からないから、尚さら困惑して力が抜ける。「千華……俺を見ろ」今度は仰向けに寝かされる。舌は離れたが、紫弦の冷たい指が柔らかくなったそこに入り込んできた。「見て……」鈍い痛み。冷や汗をかいた。怖い……怖いけど、真っ直ぐ見てくる彼から目が離せない。片手だけ繋いだ。紫弦のもう片手の指は、自分の中に潜り込んできている。どう受け止めていいのか分からず、何度も腰を揺らした。彼の指は角度を変え、中の出っ張りを擦る。時に優しく、時に激しく。指の数も増え、圧迫感に呼吸が荒くなる。その息すらも奪われ、本気で殺されると思った。「ん……紫、弦様……っ」けど何故か、全身の緊張は解けてきている。殺され方としては酷く情けないけど、さっきよりも悪くない。彼がこちらの視線や仕草に神経を注ぎ、分かろうとしている。心で繋がろうとしている。そう気付くと小さな光が灯った。どれほど時間が経過したか分からないが、指は引き抜かれた。彼の指には卑猥な液体が絡みついている。それは彼が千華の為に用意した潤滑油だったが、自身の体内から零れているところを見ると羞恥でおかしくなりそうだった。「すごいな。とろとろ」「わざわざ言わないでください……!」「すまんすまん」紫弦は申し訳なさそうに笑い、千華の額に口付けした。「酷いことはしない。つもりだけど、お前が可愛いせいでやり過ぎる可能性があるから、先に謝っておく」もっと真剣に防ぐ努力をしろ。怒りを通り越して呆れ返ってしまう。けどそれすらも笑い流し、彼は千華の腰を掴んだ。「不思議なんだ。最初は鎮めてやろうと思っただけなのに……お前に触れてる時が今までで一番、気持ちいい」白い衣がはらはらと落ちる。紫弦のものはとっくに勃ち上がり、千華以上に熱をまとっていた。その先端が小さな入口に当たり、優しく刺激を与える。「気持ちよくておかしくなる。何でなんだろうな。出会った時からずっとだ。お前といると不思議な経験
理性を投げ打って快楽に溺れるなんて許されざることだ。頭では分かっているのに、彼に見つめられると自分が今いる場所すら忘れそうになる。自分を受け入れてくれる世界に溺れたいと思ってしまう。ここは人の為の世界で、天が決めた仕来りはない。だから尚さら揺らぎそうになった。またあの快感を……。紫弦の手に自分の手を重ねようとした、その寸前で我に返った。「すみません! ……もう寝ます」「え。おい、千華?」彼は自分を呼び止めようとしていたが、聞こえないふりをして部屋を飛び出した。暗いため壁に手を宛てながら先へ進む。今のは本気で危なかった。なにか悪い気に当たっている気がする。でもこちらが影響されるほどの気を人間が発することなんてできないし、単に自分が血迷っているだけだろう。自分と彼では立場が違い過ぎる。今以上の関係になってはいけない。「は……っ」だが、まださっきの熱が下がってくれない。長い廊下を歩きながら、とうとう堪えられず近くの柱の影に隠れた。身体中が火照って苦しい。ずり落ちるようにして床に座り、衣の中に手を伸ばした。怖々確認すると、性器はまた真っ赤に反り返り、刺激を求めている。「何で……っ」あまりに卑猥なので咄嗟に視界から外した。醜い、浅ましい、怖い。何十年も生きていながら、自分の身体に恐怖を覚えた。今この身体は地上に馴染みつつある。それは即ち、人に近付いているということだ。それとは別に、紫弦といると異常なまでに反応してしまう……自分が歯痒くて仕方ない。無人の広間は冥々たる闇が広がり、無力感を助長していく。こんな不安定な身体でこれからやっていけるんだろうか。地上へ下りた時はあれほど自信に満ち溢れていたのに、もうよく分からない。ただの人間になったらどうしよう。熱を帯びた性器を握ったとき、恐怖や不安はわずかに薄れた。生理的な反応だろうが、涙が流れて床にぱたぱた落ちる。訪れる熱い快感に対し、孤独はやたらと冷めた目で自分を見ている。「千華!」ふいに自分の名が響いたとき、胸がぎゅっと締め付けられた。遠慮がちに顔を上げると、肩で息をしながら佇む紫弦がいた。わざわざ追いかけてくれたらしい。けど最悪だ。よりにもよって一番酷い姿を見られた。追いかけてきてくれたことは嬉しかったけど、羞恥心に打ち勝つことはできなかった。気まずくて俯くも、抱き抱えられた
どれだけ考えても答えに辿り着けない。けど紫弦の必死な表情を目にすると思考が止まってしまう。これらは全て欲求を満たす行為のはずなのに、どうしてそんな顔をするのだろう。分からないから、尚さら困惑して力が抜ける。「千華……俺を見ろ」今度は仰向けに寝かされる。舌は離れたが、紫弦の冷たい指が柔らかくなったそこに入り込んできた。「見て……」鈍い痛み。冷や汗をかいた。怖い……怖いけど、真っ直ぐ見てくる彼から目が離せない。片手だけ繋いだ。紫弦のもう片手の指は、自分の中に潜り込んできている。どう受け止めていいのか分からず、何度も腰を揺らした。彼の指は角度を変え、中の出っ張りを擦る。時に優しく、時に激しく。指の数も増え、圧迫感に呼吸が荒くなる。その息すらも奪われ、本気で殺されると思った。「ん……紫、弦様……っ」けど何故か、全身の緊張は解けてきている。殺され方としては酷く情けないけど、さっきよりも悪くない。彼がこちらの視線や仕草に神経を注ぎ、分かろうとしている。心で繋がろうとしている。そう気付くと小さな光が灯った。どれほど時間が経過したか分からないが、指は引き抜かれた。彼の指には卑猥な液体が絡みついている。それは彼が千華の為に用意した潤滑油だったが、自身の体内から零れているところを見ると羞恥でおかしくなりそうだった。「すごいな。とろとろ」「わざわざ言わないでください……!」「すまんすまん」紫弦は申し訳なさそうに笑い、千華の額に口付けした。「酷いことはしない。つもりだけど、お前が可愛いせいでやり過ぎる可能性があるから、先に謝っておく」もっと真剣に防ぐ努力をしろ。怒りを通り越して呆れ返ってしまう。けどそれすらも笑い流し、彼は千華の腰を掴んだ。「不思議なんだ。最初は鎮めてやろうと思っただけなのに……お前に触れてる時が今までで一番、気持ちいい」白い衣がはらはらと落ちる。紫弦のものはとっくに勃ち上がり、千華以上に熱をまとっていた。その先端が小さな入口に当たり、優しく刺激を与える。「気持ちよくておかしくなる。何でなんだろうな。出会った時からずっとだ。お前といると不思議な経験ばかりする」「それは……」自分も同じだ。体内中の気が、紫弦によって掻き乱されている。唯一可能性があるとすれば、彼を助けたときだ。全ての神気を注いだことで、人と同じ存在に成り下がった
理性を投げ打って快楽に溺れるなんて許されざることだ。頭では分かっているのに、彼に見つめられると自分が今いる場所すら忘れそうになる。自分を受け入れてくれる世界に溺れたいと思ってしまう。ここは人の為の世界で、天が決めた仕来りはない。だから尚さら揺らぎそうになった。またあの快感を……。紫弦の手に自分の手を重ねようとした、その寸前で我に返った。「すみません! ……もう寝ます」「え。おい、千華?」彼は自分を呼び止めようとしていたが、聞こえないふりをして部屋を飛び出した。暗いため壁に手を宛てながら先へ進む。今のは本気で危なかった。なにか悪い気に当たっている気がする。でもこちらが影響されるほどの気を人間が発することなんてできないし、単に自分が血迷っているだけだろう。自分と彼では立場が違い過ぎる。今以上の関係になってはいけない。「は……っ」だが、まださっきの熱が下がってくれない。長い廊下を歩きながら、とうとう堪えられず近くの柱の影に隠れた。身体中が火照って苦しい。ずり落ちるようにして床に座り、衣の中に手を伸ばした。怖々確認すると、性器はまた真っ赤に反り返り、刺激を求めている。「何で……っ」あまりに卑猥なので咄嗟に視界から外した。醜い、浅ましい、怖い。何十年も生きていながら、自分の身体に恐怖を覚えた。今この身体は地上に馴染みつつある。それは即ち、人に近付いているということだ。それとは別に、紫弦といると異常なまでに反応してしまう……自分が歯痒くて仕方ない。無人の広間は冥々たる闇が広がり、無力感を助長していく。こんな不安定な身体でこれからやっていけるんだろうか。地上へ下りた時はあれほど自信に満ち溢れていたのに、もうよく分からない。ただの人間になったらどうしよう。熱を帯びた性器を握ったとき、恐怖や不安はわずかに薄れた。生理的な反応だろうが、涙が流れて床にぱたぱた落ちる。訪れる熱い快感に対し、孤独はやたらと冷めた目で自分を見ている。「千華!」ふいに自分の名が響いたとき、胸がぎゅっと締め付けられた。遠慮がちに顔を上げると、肩で息をしながら佇む紫弦がいた。わざわざ追いかけてくれたらしい。けど最悪だ。よりにもよって一番酷い姿を見られた。追いかけてきてくれたことは嬉しかったけど、羞恥心に打ち勝つことはできなかった。気まずくて俯くも、抱き抱えられた