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第3話

作者: レイチェル
「気負うな。これも家の仕事の一部だ。秘書課の人たちはみんな接しやすい」

「家の仕事」という言葉に舞い上がっていたのも束の間、メールボックスに届いた300ページを超える資料を見て、私は絶望した。

泣き言も言えないほど周囲のタイピング音は激しく、私のデスクと社長室の間には、5人もの壁が立ちはだかっていた。

恋の火花を散らすどころか、その種火すら用意させてもらえない環境だ。

私は覚悟を決めた。神様が私に試練を与えたのだと自分に言い聞かせ、社畜としての使命に身を投じることにした。

午前中だけで、私はすでに新しい同僚たちと仲良くなり、腕を組んで食堂へ向かっていた。左にゲイ友、右に知的な姉系。ここはまさに顔採用の聖地だった。

ブラインドの隙間からこちらを見つめる響の視線に気づき、私は「順調よ」と元気よくウィンクを飛ばした。

光の反射のせいか、響の顔がさらに険しくなったような気がしたが、エレベーターの扉は非情にも閉じていった。

昼時の食堂は混雑していた。私たちがようやく席を確保したその時、入り口の方からどよめきが近づいてきた。

「えっ、社長がどうしてこんなところに?」

私は森田健二(もりた けんじ)の言葉に釣られて振り返ると、響が社員たちに笑顔を振りまきながら歩いてくるのが見えた。腕まくりしたシャツから覗く前腕のラインが綺麗だった。

「今月は福利厚生強化月間だから、社長が視察に来るのもその一環でしょう」二宮杏(にのみや あん)が私のお皿にチキンを乗せてくれた。私は響と無関係を装い、黙々と食事に集中した。

ふと視線がぶつかったが、慌てて逸らす。

「社長って本当にイケメンですよね。あの強引な感じがたまらないでしょう?」

健二がニヤニヤしながら耳打ちしてくるので、私は仰天した。

「えっ、ああいうタイプが好きなんですか?意外です」

「社長は若くしてご結婚されてるんですよ。もう3年になるはずですね」杏は創業時からのベテランで、社内の事情には精通していた。

情報を聞き出そうとしたその時、響がトレーを持ってこちらへ近づいてきた。

「ここは空いているか?」テーブルの脇に立つ響の瞳は、陽光を浴びた泉のように澄んでいた。

私たちは慌てて席を空け、響は私の正面に座った。

沈黙が場を支配した。私があまりの気まずさに逃げ出したくなる寸前で、響は口を開いた。

「食堂のメニューには満足しているか?何か要望があれば聞こう」

「最高です!福利厚生も完璧で、毎日幸せです!」健二がこれ以上ないほどの媚びを売った笑顔を見せ、見ているこちらが寒気を覚えるほどだった。

「社長!入社初日ですが、会社の温かい配慮のおかげで、まるで実家にいるような安心感です!」

媚び売りコンビの誕生だ。

響の顔色がみるみる曇っていく。どうやら今の発言は逆効果だったらしい。

「そうか。精々仕事に励んでくれ」絞り出すようにそう言うと、彼は席を立った。残された私たちは呆然と顔を見合わせた。

「社長、もう行っちゃうのでしょうか?」

「お腹が空いてなかったのかもしれませんね」

「紬さん、社長とどこかでお会いしたことがあるんですか?」杏の不安げな視線に、私は引きつった笑いで誤魔化した。

「いいえ、初対面です。きっと機嫌が悪かっただけじゃないでしょうか」

杏は私を気遣って、デスクに着くまでずっと励まし続けてくれた。

同僚の優しさが胸に染みると同時に、響との関係を隠している罪悪感で心が痛んだ。

私はせめてもの罪滅ぼしに雑務を片っ端から引き受け、気づけば定時を過ぎていた。スマホが震える。

響からのメッセージだった。

【仕事が終わったら、一緒に帰るか?】

背伸びをし、山積みの資料を眺めてから、私は断りの返信をした。

【私は初日から社員をこき使うような鬼上司じゃないの】

【私たち社畜は、自分から進んで働きに行く生き物なのよ】

響からの返信はなく、私は再び仕事に没頭した。

最後の資料を整理し終え、疲れ切った体で地下鉄の駅へ向かおうとしたその時。

会社の門を出ると、少し離れた場所に停まっていた黒いマイバッハの窓が、ゆっくりと下がった。

響が車から降りてきて、私のバッグをごく自然に受け取ると、助手席のドアを開けた。

「お疲れ様」

「ずっと待っていてくれたの?」定時からすでに3時間は経っている。

「ああ。初日くらいは一緒に帰りたかったからな」車内は暖かく、街灯の淡い光が差し込んでいた。

途端に、車内の空気が甘く色づき始めた。

助手席で身を縮めている私の隣で、響の指先が、触れるか触れないかの距離でハンドルをかすめる。

コロンの香りとエアコンの温風が混ざり合い、耳まで熱くなる。

「他人のふりをしたのは、同僚にバレるのが怖かったからか?」響が不意に、淡々とした口調で尋ねてきた。

「当たり前じゃない?」私はシートベルトを握りしめ、開き直って答えた。

「コネ入社した人間が、初日から正体を明かすわけないでしょ?これは職場で生き残るための知恵よ」

響は鼻で笑った。「森田の前で俺のことを褒めていた時は、随分と堂々としていたじゃないか?」

私は硬直した。

食堂で言った「あの強引な感じ」という言葉、聞かれてたなんて……

赤信号で車が止まると、響が突然こちらに身を乗り出してきた。

「それで、君は好きなのか?」

私は背中をシートに押し付けられ、喉が詰まる。「何が?」

「そういう強引な男は、好みか?」響のまつ毛が私の鼻先に触れそうになる。「あのランジェリー姿の写真……一緒に写っていた男物のパジャマ、先月俺がゲストルームに忘れたやつだろう?」

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