ログイン結婚して3年。私・柴田紬(しばた つむぎ)と夫の柴田響(しばた ひびき)は、いまだに手も繋いだことのない仮面夫婦だ。 ほんの出来心と密かな復讐心から、私はセクシーなランジェリー姿の自分の背中を撮り、裏垢を使って響に送りつけた。 どうせ既読スルーされるだろうと思っていたのに。予想に反して2分後、ブブッとスマホが震え、画面にこんな通知が光った。 【ご家族様が本日付の帰国便の航空券を購入しました】 【紬はお前で暇つぶしをしてるだけだ。見つけたらただじゃおかないぞ、この下劣な野郎が……】
もっと見る「売れるものは今のうちに売っておくことをお勧めするよ。さもないと、破産手続きが始まった時には、父さんの老後の資金すら残らないだろうから」ドアがバタンと閉まり、峰行の「この親不孝者が!」とか「このろくでなしが!」という罵声も完全に遮断された。部屋は束の間の静寂に包まれた。私は以前、響の母親についての噂を聞いたことがあった。何かの病を患い、いくら治療しても良くならず、最後は骨と皮だけになって息を引き取ったと。おそらく慎也は、あの時と同じ手口を峰行に使ったのだろう。響の母親が原因不明の病で苦しんだのは、当時、慎也の母親が邪魔者を完全に排除するため、峰行と一緒に病院の検査結果を改ざんしたからだった。峰行がその事実を知らなかったわけではない。ただ、慎也の母親がもたらす莫大な利益のために、峰行はすべての悪事を見て見ぬふりをしたのだ。そして何年もの時を経て、今度は峰行自身が同じ運命を辿ることになった。「病院へ慎也の面会に行くか?鬱憤を晴らさせてやる」私は何度も首を縦に振った。ガラス越しとはいえ、すっかり常軌を逸した慎也の姿には肝を冷やした。片手はベッドの枠に手錠で繋がれ、全身をギプスと包帯でぐるぐる巻きにされている。無精髭が伸び放題の顔に、血走った両目。目の下には狂気が滲んでいた。たった数日で、まるで別人のように成り果てていた。「お前ら、よくも俺をこんな目に遭わせやがって!絶対にただでは済ませない!」唯一動かせる手で点滴のスタンドを掴んで床に転げ落ちると、異様な姿勢で這いずりながらこちらへ向かってきた。だが、凄まじい激痛のせいで、2歩も進まないうちに気を失いかけていた。響が指を曲げてガラスをコツンと叩くと、慎也は悪魔でも見たかのように表情を一変させ、泣き喚いて命乞いを始めた。「ここから出してくれ!頼む、あの記事を流したのは俺じゃない……全部嘘だったって、俺が証明してやるから!」顔中を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、慎也は床に頭を打ち付けながら叫び続けた。看護師が拘束帯を持って入室すると、やがてその声は完全に途絶えた。……すべてが決着し、柴田家の崩壊はもはや確定事項となった。その後も峰行は何度か響のもとを訪れたが、面会すら叶わなかった。挙句の果てには人づてに私を探し出し、喚き散らした。「お前は響の妻であり、
「帰ってからじゃダメなの?眠いから邪魔しないでよ」私は背もたれにもたれて眠ろうとしたが、揺さぶり起こされた。「告白も後回しにする気か?」「告白なら尚更後回しよ」「じゃあ、慎也への復讐はどうする?その話をしようか」「あの人、去勢できないかしら?」慎也の数々の女性スキャンダルを思い出し、私は大真面目に答えた。「極刑にするのは無理かもしれないが、あいつの罪なら十数年の刑は確実だ」「お父さんが黙ってるかしら?」峰行が慎也を溺愛しているのは明らかだった。あんなにも不出来な息子を、ひたすら庇い続けているのだから。響は肯定も否定もしなかった。「明日から、俺の寝室で寝ろ」私は飛び起きて背筋を伸ばした。「どうしてよ?」「ゲストルームの監視カメラは外した。寝室には独立した警報システムがある」「あなたのお兄さんはまだ何かする気なの?」私は思わず声が大きくなり、手に冷や汗をかいた。「実の親にすら薬を盛るような奴だ。君になら何をしてもおかしくない」響は車載冷蔵庫から冷えた水を取り出した。「去年、父さんの健康診断の結果を、慎也は3度も改ざんしている」「じゃあ、お父さん自身にその事実を気づかせようってこと?」「自分が一番愛している息子が、実は自分を早くあの世へ送ろうとしていると身をもって知らなければ、父さんが慎也を完全に見限ることはないからな」確かにその通りだ。人は皆、自分の目で見たものしか信じないのだから。……テレビでは、慎也が経済チャンネルのインタビューに応じている様子が流れていた。背景には、柴田家の本家の飾りが映っている。「最近、個人的な事情でバタバタしておりますが、身の潔白は証明されると信じています」慎也はカメラに向かって微笑んだ。「むしろ、姑息な手段で地位を掠め取った人間こそ、いずれ報いを受けることになるでしょうね」「では、本日の柴田グループの声明についてはどうお考えですか?社長職の解任は、別の役職への異動が理由なのでしょうか?」「声明?何のことだか存じ上げませんが、記者の皆さんも根も葉もない噂を信じないでいただきたい」一人の記者が声明の載った画面を突きつけるまで、慎也はそう嘯いていた。画面を見た瞬間、彼の顔から血の気が引き、みるみる青ざめていった。「本日の取材はここまでです」慎也の秘書が飛び出して
「紬は最近、東区プロジェクトにかかりきりで、手が離せない状態なんだ」響は顔色一つ変えずに言った。「プロジェクトと結婚式、どっちが大事だって言うんだ?」慎也が突然身を乗り出し、スマホの画面を私の顔すれすれまで突きつけてきた。「それとも……本当は式なんて挙げられない事情でもあるんじゃないか?」その時、トレンド画面が更新され、新たなハッシュタグ【#柴田グループの社長夫人の浮気確定】がトップに躍り出た。「兄さん、メディアまで買収したのか?」響がふっと冷ややかな笑みを漏らした。「いっそ、東区プロジェクトの入札の最低価格が欲しいと素直に言えばいいのに」峰行の杖が激しく床を叩いた。「慎也、いい加減にしろ」「いい加減にすべきはこいつの方だ!」慎也が突然ローテーブルを蹴り飛ばし、茶器が粉々に砕け散った。「隠し子が財産を狙い、どこの馬の骨とも知れない女が奥様面をする。柴田家も遅かれ早かれ……」乾いた平手打ちの音が、慎也の怒鳴り声を遮った。峰行の震える手が、空中で止まっていた。「出て行け」慎也は口角の血を拭い、陰湿な目で私と響を睨みつけた。「今に見てろよ」……本家を出てマイバッハに揺られながら、私は指輪のダイヤをぼんやりと見つめていた。時刻はすでに深夜。銀色の月光が指輪の台座をすり抜けて細かい光の斑点を描き出し、それはまるで、3年前の役所の窓ガラスについた雨粒のようだった。「監視カメラって……ずっと前から知っていたの?」私はようやく口を開いた。「ゲストルームのシーツ交換は毎週水曜日だ。君がパジャマを盗んだのは木曜日だったからな。紬、君の演技は下手すぎる」響の指先が、赤くなった私の頬をなぞる。「でも、俺はそれに合わせてやったんだ。君が警戒心を解かなくても構わない。俺から動くし、いくらでも待てる。君を逃さないためなら、3年だろうと何度でも待つ。チャンスさえくれればいい」「いつから待っていたの?」「ずっと前からだ。君がまだ俺を知らなかった頃から。あの契約だって、君に近づくための口実だった」記憶が3年前に巻き戻る。ぎこちなく響と条件交渉をしていたあの時。あのペンの先に反射していた光の裏には、とうの昔から、私を射抜くような熱い眼差しが隠されていたのだ。「変態」私は響の上着を引き寄せ、火照る顔を隠した。
「どこへ?」「指輪を受け取りに行く。結婚すると言ったからには……」「今そんな芝居をしている場合じゃないでしょ!」私は声を荒らげた。「あなたのお兄さん、私たちが別々の部屋で寝ている証拠を握っているのよ!」響が急ブレーキをかけ、私は彼の胸の中に投げ出された。「ゲストルームの監視カメラは1週間で上書きされるが、先週クラウドの契約を更新した。証拠なら俺たちが持っている」私は凍りついた。3年間、モデルルームのように整然としていたあのゲストルームに、カメラが仕掛けられていたなんて。「変態……最低だわ!」私は逃げ出そうとしたが、響は私の肩を押さえ、力任せにシートへ押し戻した。温かな唇が耳たぶをかすめ、私は震えた。「俺のパジャマを盗み着していた君も、相当なものだと思うが?」スマホが再び震え、慎也からメッセージが届いた。【父さんが戻れと言っている。今すぐだ】「ちょうどいい」響は私から手を離した。「夫婦の絆というものを見せつけてやろうじゃないか」柴田家の本家は煌々と明かりが灯り、立ち込める香の匂いが鼻を突く。峰行は上座に構え、その鋭い視線はナイフのように私を射抜いた。「跪け!」慎也が卓を叩いて怒鳴った。「柴田家に、こんなふしだらな嫁を置いておく余裕はない」私が動くより早く、響が椅子を蹴り飛ばした。陶器の割れる音が響く中、彼は私を背後に庇った。「兄さん、そんなに急いで追い出したがるのは、来月の役員会で後継者に選ばれないのが怖いからか?」「黙れ!」峰行の杖が床を激しく叩いた。「本人の口から説明しろ」「写真は捏造です」私はスマホを掲げた。画面には加工された偽のチャット履歴が映っている。「だが、この指輪は本物だ」その場が一瞬、死んだように静まり返った。響がジャケットの内ポケットからベルベットの箱を取り出した。「父さんがかつて母さんにプロポーズした時のものだ」響は皆の前で私の指にリングを嵌めた。サイズは完璧だった。「買収案件が片付いてから挙式するつもりだったが」峰行は杖のヒスイを撫で、不敵に笑い出した。「母親よりも肝が据わっているようだな」「母さんに度胸があれば、父さんが他の女を家に迎え入れるのを黙って見ていたりはしなかっただろうな」「黙れ!無礼千万な!」痛いところを突かれた峰行は肩を震わ
【柴田社長って本当にお忙しいんですね。今月だけでもう3回目の出張ですよね?】撮りたての写真を選択し、私・柴田紬(しばた つむぎ)は息を殺して送信ボタンを押す。盗撮風の絶妙なアングル。右下には、男物のパジャマの一部が写り込んでいる。ピコン、と送信完了の音が鳴った瞬間、私は爆弾でも捨てるようにスマホを放り出した。「まったく。そんな度胸しかないくせに、よく旦那さん相手にこんな真似をしようと思ったわね」藤田晴香(ふじた はるか)が呆れ顔で言った。「自分で自分の浮気相手を演じてるのよ、緊張しないわけないじゃない?」私はクッションに顔を埋めて叫び、ビクビクしながら尋ねた。「ねえ、自作自
「気負うな。これも家の仕事の一部だ。秘書課の人たちはみんな接しやすい」「家の仕事」という言葉に舞い上がっていたのも束の間、メールボックスに届いた300ページを超える資料を見て、私は絶望した。泣き言も言えないほど周囲のタイピング音は激しく、私のデスクと社長室の間には、5人もの壁が立ちはだかっていた。恋の火花を散らすどころか、その種火すら用意させてもらえない環境だ。私は覚悟を決めた。神様が私に試練を与えたのだと自分に言い聞かせ、社畜としての使命に身を投じることにした。午前中だけで、私はすでに新しい同僚たちと仲良くなり、腕を組んで食堂へ向かっていた。左にゲイ友、右に知的な姉系。こ
先月、3年間の契約期限を迎えた。本来なら響との関係は先月で終わっているはずだったが、1ヶ月が過ぎても彼は何も言ってこず、私も知らぬ存ぜぬを決め込んでいる。響に出会うまで、一目惚れなんて嘘だと思っていた。私たちはこのまま、本当の夫婦としてずっと一緒にいられるのではないかと、密かに期待していた。欲というものは恐ろしい。それは時に、人に狂った決断をさせる。悩み抜いた末、私は自分自身に「恩を仇で返す不倫妻」というシナリオを用意した。毒を食らわば皿まで。愛よりも憎しみの方が長く記憶に残るものだ。だが悲しいかな、私という名の手製の爆弾では、響の最新鋭戦艦を揺るがすことすらできな
「結婚して3年、一度も連れてこなかった理由が分かった。これまでの女たちよりはマシだな」自分の味方をする者がいないと悟り、慎也の怒りは頂点に達した。「柴田家のためだと?どこの馬の骨とも知れん小娘が、一族の人間を気取るな!」「黙れ!帰ってきて早々、騒ぎ立てるな」響は私の手を取り、強引にリビングの奥へと歩き出した。背後では峰行が吐き捨てていた。「無能な上に、恥さらしめ!」慎也がドアを叩きつけて去り、シャンデリアが揺れた。私は皿を見つめたまま、指先のナイフとフォークが震えていた。「食べないのか?」響が私の皿にチェリー風味のフォアグラを置いた。何事もなかったかのような口調で。
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