LOGIN人によっては蒼は理想的な上司だったといえる。
蒼は人を純粋に能力で評価していた。
そして能力がある人をチームリーダーに起用し、実績をつけさせて昇進させていった。この点は素晴らしい。
でも、求める能力が自分基準だった。蒼自身も努力して身につけた能力かもしれない。でも蒼自身が自分をすごいと分かっていなかったから、同じことを周りの全員ができると思っていた。
「できない」を理解できなかった。
「できない」をできるはずなのにやらないだけの「甘え」や「怠慢」と誤解し、そう評価していた。
蒼は能力を評価するから、彼が手掛けるプロジェクトに参加すれば評価されると喜んで参加していた人たちも、複数のタスクを同時並行でこなす化け物の蒼の要求に応えられず、責め苦に耐えられず、数日後にはゲッソリしてフラフラと社内を歩いていた。
「できないは甘えである」という蒼の考えを全否定はしない。実際にそう言う人もいるから頭ごなしに否定できない。
でも、自分の態度が周りを威圧していることに気づかず、周りを委縮させて「できない」を大量生産してしまっていた。
そんな自分に気づいていただろうに、態度を改めなくてもいいと蒼が判断したのには、藤嶋建設の花形といえる設計部には仕事ができる上にメンタルも強いという人たちが大勢いたからだろう。
蒼の周りが人手不足になることはなかった。
こうして自己を振り返ることなく、立場とその才覚から最強のチームを作り上げた蒼。
今の心理状況から非難気味にこき下ろした気もするが、その豪快さと強気の姿勢に当時の私は憧れた。いや、いまもその点には憧れている。
蒼は周りが自分に向ける負の感情を気にすることはない。
凱ほど常に自信満々ではないが、蒼の振る舞いは自分に自信のある人の振る舞いだ。
私には無理。
どうしても人の目を気にしてしまう。
人間には性格があるし、今さら変えるのは難しいから、蒼や凱のように振る舞えなくてもいいけれど、ないものには憧れる。
きっと、この憧れが蒼が好きになるキッカケだったと思う。
この憧れが恋に変わるのはあっという間、では全くなかった。
憧れはするけれど、でき過ぎ設定の蒼は現実味がなさ過ぎた。
恋愛対象として有り得なさ過ぎた。
スーパーマンに恋をする?
それはないでしょ?
こんな感覚だった。
*蒼とはじめて話したのは、蒼と同じ藤嶋の姓をもつ先輩の尻拭い。
「頼むね」なんて軽い一言で、お願いする気の欠片もない尊大な態度で、彼は私に失敗が目に見えている大きなプロジェクトのリーダーを押しつけた。
一族経営の藤嶋建設だから、“藤嶋”の姓をもっているというだけで社内カーストの上位。
その大きなプロジェクトのリーダーに、その藤嶋先輩は“藤嶋”のネームバリューで就いたが、納期も近いというのに“いい報告”が一切ないそれは失敗確実と目論まれていた。
藤嶋先輩は、“失敗”のレッテルを嫌がった。
だからそのレッテルを、代わりに私に貼ることにした。なぜ私だったのか、多分丁度良かったのだろう。
入社して三年以上、小規模プロジェクトとはいえプロジェクトリーダーをそこそこ経験している。どれも低予算かつ少人数の小さなプロジェクトだったけれどリーダーはリーダー。
押しつけられたことはみんな、特に藤嶋先輩の取り巻き社員たちは分かっていただろうに、途方に暮れる私から目を逸らし、失敗の余波を受けないことに彼らは必死だった。
そんな状態で、失敗目前のプロジェクトを成功に導ければそれはそれは格好いい。
しかし私にそんな能力はない。
そしてそのプロジェクトは失敗に終わり、社に莫大な損失を出した。あれは私の力不足だから、失敗を陳謝する報告書を何枚も書いた。
そう、私の力不足。
お願いを断る力が足りなかったのがいけなかった。小さなプロジェクトの終わりは課長への報告で終わるが、大規模プロジェクトの場合のラスボスは部長、つまり蒼だった。
課長から時間を提示され、嫌なことは早くすませたい性分だから最も早い日時で面談を申し出て、私はいろいろと脳内で言い訳のシミュレーションをしながらラスボスの部屋に向かった。
「一人か?」
初めて交わした会話がこれ。
この言葉、あの雰囲気、部屋で待ち構えていたラスボスが「よくぞここまできた」的なものを体感した。
大きく口を開けた、『暴君』の名を持つ恐竜Tレックスに見えた。
「……そう、です」
言い訳の『い』の字でも口にしたらぱくっと捕食されてしまいそうな恐怖に震えながら答えれば、蒼が立ち上がった。私は恐怖の最高潮。
机をまわってくる蒼の姿に悲鳴を挙げなかった自分を褒めてあげたい。
でも、まあ、それは杞憂だったのだけれど。
「――え?」
私の目の前に立った蒼は、驚いたことに頭を下げた。
信じられなかった。
信じられずに、私は現実逃避をしていた。蒼の頭につむじを見つけて「暴君にもつむじがあるんだな」なんて阿呆なことを考えていた。
「俺の配慮が足りず、失敗とその後始末を君一人に押しつけて大変申しわけなかった」
頭を下げただけでなく謝罪の言葉も加わって、思考が停止して――。
「暴君竜が謝った!」……そう叫んだ私は悪くないはずだ。
「え、暴君?」
蒼のぽかんとした顔に一層慌てた私。
「安心してください、暴君竜と言っているのは私だけ、他の人は『暴君』ですから。いや、でも、褒めていますよ? 暴君竜ってあの有名な恐竜映画にも出てくるT-REXのことで、格好いいではありませんか。言葉が一切通じない傍若無人ぶりが特に……」
……ないわ。
いま思い出しても、あれはないわ。
「部長、そろそろ出る時間ですが……えっと、どうしました? 何がありました?」
あの時間が止まった部長室に入ってきた黒崎さんの言葉で私は我に返り、「お忙しいところ、大変申しわけありませんでした!」とまくし立てて走り去った。
『お前、なんでここにいる?』はあ?『ここは俺の部屋だ。俺がいて何が悪い』李凱は眉間に皺をよせ、部屋の中を見る。手前、奥、右、左、また奥……なんだ?『ヒナはどこだ?』『はあ?』唖然とした李凱の言葉に俺が驚くと、李凱の顔はめまぐるしく変化する。何語かも分からない言葉でまくしたてて、焦った様子で李凱は髪を掻き上げた。 『お前がヒナを拉致したんじゃないのか?』『なんだって?』どうして俺が?李凱は何やら唾を吐き捨てるかのように毒づくと俺に詰め寄り、胸ぐらをつかむ。『拉致したのがお前なら、身の安全はともかく命の心配はなかったのに!』なんだって?『身の安全はともかく? お前、俺が彼女に何かするとでも思っているのか?』もともと李凱のことは気に入らなかった。ささくれた感情は荒れやすい。喧嘩越しの李凱に俺の頭にも血が上り、視界が赤くなる。俺の目の熱に気づいた李凱は鼻で笑い、喧嘩に誘うような挑発的な笑みを向けた。『ヒナを孕ませて手元におきかねねえだろ』「はっ」陽菜を孕ませる?コイツにだけは言われたくない! 『俺と彼女の問題に部外者が口を出すな!』『口を、出すな?』李凱の顔が怒りで歪んだ。『口も手も出すつもりはなかったさ! お前がちゃんとヒナを幸せにしていれば、俺は……「こんなときに喧嘩はお止めなさい!」』 祖母さん!どうしてここに……は? 部屋の入口を見れば祖母さんがいた……それは分かるけど、なぜ第二秘書はバケツを持っている? 「頭を冷やさせて!」 * 『状況を整理します、いいですね?』
今でこそこんな風に冷静に分析しているけど、赤ん坊の写真を見た直後は荒れた。「どうして」って、いま思えば陽菜に理不尽だと呆れられそうなことを思って、でもかけなしの理性がここで陽菜を問い詰めてはいけないと俺の衝動を抑えて……辛うじて俺は何もせずにすんだ。体調不良と言って青山のマンションに逃げて、そこのあった酒を飲んで、それでも足りないからデリバリーで注文して、いまの時代なんでも届くなって思いながら暴飲を重ねて二日酔い。胃をぐるぐるさせながら気分の悪さに耐えて、ただベッドに横になりながらあの赤ん坊の写真を思い浮かべた。最初は、陽菜の裏切りだと、許せないと思った。俺を捨てたこと。李凱に抱かれたこと。そして、李凱の子どもを産んだこと。……完全に八つ当たりだ。許せない?それは違う。許さないという、ただ単に俺の我侭。陽菜にだって幸せを求める権利があり、そのために俺との別れを選んだのだから、陽菜はもう俺の赦しなんて求めていないのだ。陽菜が求めた幸せが、李凱との子どもだったというだけ。……俺は我侭だから、陽菜は寂しさで人肌を求めただけだと思おうとした。李凱が陽菜の傷心につけ込んだとか、あの李凱の見た目に陽菜がちょっと蹌踉めいたとか、自分に言い聞かせようとした。……馬鹿だな、陽菜のこと、分かっていたくせに。陽菜はそんなに弱い女じゃない。――― I love you, Kai.陽菜は電話でそう言っていた。愛しているって……とても優しい顔と声で、李凱に「愛している」と言っていた。あれを見て、分かってしまった。陽菜は李凱を愛している。あの言葉を、表情を、感情を俺は疑うわけにはいかない。――― 愛しているわ、蒼。あの全てはかつて俺に与えられ
キャメロットと打ち合わせしている会議室に行くと陽菜がいなかった。陽菜のサポートだと紹介された褐色の肌色をした女性に陽菜の所在を問うと、陽菜は別件で今日はこっちに来ないとのこと。様子を見にきたと言って顔を出しておきながら、陽菜がいないならとこの場を去るのはあからさま過ぎるのでしばらく会議室にいることにした。 始動してもう少しで一ヶ月、プロジェクトは順調に進んでいる。藤嶋は日本では有名企業だが、世界的に見れば知名度は低く、日本の知名度に奢って天狗になっていた藤嶋のメンバーはキャメロットのメンバーに最初は圧倒されていた。ここで例の『朝霧セラピー』の発動。陽菜の手助けで藤嶋のメンバーは自分を見直し、いまは自分が求められている長所をいかしてプロジェクトに取り組んでいる様子。自信を取り戻した彼らは陽菜を崇拝する目で見て、俺に「何で朝霧さんと別れたのか?」という疑問の目を向けることが増えた。あの目で見られると「別れていない」と言いたくなるが、「まだ別れていない」というだけでカウントダウンは残り少ない。陽菜には一ヶ月以内、遅くても四十日以内に離婚届を提出してほしいと言われている。遅くてもって、十日しか納期が伸びていないぞと文句は言いたくなるが、離婚届を俺に渡してから一年以上放置されていた陽菜の立場からしてみれば大した譲歩なのかもしれない。俺は、スーツの上から離婚届の入った封筒を押さえる。離婚届はすでに全項目記入済みで、いつでも渡せる。薄い紙切れ一枚入っただけのペラペラの封筒は軽いが、これを渡したら全てが終わりと思うと異様に重たい。 『ミスター・フジシマ。本日アサギリはおりませんが、このあと李がきますのでお話しなら……』『いや、進捗を確認したかっただけだから気にしないでくれ。そろそろ次の予定があるので失礼するよ、ミズ・トラオレ』社交的な笑みを心がけつつ、口の端が歪みそうになるのを必死に抑えて会議室を出る。後ろからついてくる黒崎の、次の予定なんてあったかと問う視線が痛い。でも、
あの子は、蒼の子どもじゃない。……私、いま喜んでいる。あの蒼に似た子どもがいたから、蒼は白川茉莉と関係を持ったと思っていた。でも、裏切ってはいないのではないかと思ったりもしていた。何かしらの手段で白川茉莉との関係を強要されたのではないか、とか……仕方がないという状況をそれなりに想像していた。だから、蒼にお兄さんがいて、あの子どもが蒼のお兄さんの子どもかもしれないという今、裏切りはなかったという可能性が高まって嬉しい。女として白川茉莉に負けたかなって思ってもいたから、そうじゃないかもしれないと気分も上がる。でも……それなら離婚はなしにしよう、とはやっぱり思えない。やっぱり、それとこれは別。これを聞いても、知らなかった蒼のことを知って、それなりに事情を理解しても、離婚するという気持ちは変わらない……変わらなかったことに、ホッとしている。我慢させられたという屈辱はあった。 この屈辱を海には味あわせない。 おそらく、蒼はあの子どもを守ろうとしているのだろう。経緯は分からないけれど、あの子どもの父親が西山蓮というなら、母親は白川茉莉なのだろう。あれだけ堂々と連れ歩いているのだから、あの子どもをどこかから攫ってきたとは考えにくい。子どもに対して母親が何をするのか、実母から虐待を受けていた蒼は白川茉莉に子どもを預けることを危惧した。でも、白川茉莉から親権を奪うことは難しい。私も調べたから、子どもがまだ幼い場合の親権争いは母親のほうが有利だということは知っている。父親が勝つのは大抵は母親が子どもに適した環境を与えられない場合で、白川家が背景にあることを考えれば環境を理由に子どもの親権は奪えないだろう。それに、なによりも父親が意識不明。二年も意識がないということは目覚めない可能性も高い。それでは親権争い……「祖母」や「叔父」でも争えるが、相手が白川茉莉では勝ち目はない。親権を奪えなくても、子どもの傍にいる……そのための条件が、恐らく、あの子どもを白川茉莉と蒼の子どもだという周囲の勘違いを蒼が否定しな
「怪我で私は足が不自由になり、夫と共にバリアフリーに改装したこの屋敷で暮しはじめたの。蒼と蓮も誘ったのだけど、学校もあるし、二人で大丈夫と言われたわ。あの子たちは優しいから、足が自由に動かない生活に私が慣れるのを邪魔したくないと思ったのでしょう……あのとき、強引にでもあの子たちを連れてくればと思わなかった日はないわ」翠さんは手を強く握った。「私がいなくなった屋敷で、香澄さんはあの子たちを虐待していた。最初は蓮だったけれど、誰もそれに気づかなかった。高校生の男の子だから虐待されることはないだろうという先入観もあったし、なによりも蓮自身がそれを隠した。蓮は、香澄さんがああなったのは司の隠し子である自分のせいだと思っていたの」「隠していたなら……どうして、それが分かったのですか?」「蒼が、証言したの。私たちと、そして父親を呼び出して、自分たちが母親に虐待されていたこと……母親に、性的暴行をくわえられそうになったと言ったわ」!「母親に襲われたなんて、言いたくなかったでしょうに……ただの暴力ならば躾ですまされるかもしれない、自分たちは男だから理解してもらえないと、だから自ら恥部を明かしたのだとあのあと蒼は言っていたわ」恥部……。「蒼のその行動は蓮を動かした。蓮は自分が香澄さんに虐待されていたこと、蒼と違って未遂ではなく被害にあったのだと言ったわ。襲われている間、自分は『司』と呼ばれていたと……だから香澄さんが蒼のことを『司』と呼んだから危険だと思い、執事に注意を促していたことも……。限界だったのでしょうね。まるでコルクの栓が抜けたみたいに蓮は全てを話したわ」……蒼は、母親から性的暴行を受けた。そんな母親がいるなんて、同じ子の母親として信じられない思いだけど、この世にはたくさん「あり得ない」が溢れている。蒼はそれを私に知られたくなかった。だから、養子にいった理由が
お手伝いさんが女性を連れてきた。西山三奈子と名乗ったその女性は、私の親世代になるだろうか。上品だけど、どこか疲れた雰囲気がある。「三奈子さん、そんなに不安がらないで。大丈夫よ、蒼に怒られるのは私だけだから」「そんな、あの温和な蒼君が怒るだなんて」蒼が怒ることを信じられないという西山さんに私のほうが驚いた。私としては「怒ります、むしろ短気です」と言いたかった。……あの蒼を“温和”なんていう女性。蒼とはどのような関係だろう。 「実はね、蒼には異母兄がいるの」……蒼にも?「名前は蓮。蒼の四歳上で、彼は十八歳のときに西山家に養子にいったわ」養子……西山家ということは、彼女は……。「私は蓮の養母です」「蒼さんから異母兄さんがいたと聞いたことはありません」さっき翠さんは蒼のお兄さんは彼が十八歳のときに養子にいったと言った。つまりそれまで彼は藤嶋家で育ったということになる。四歳差だから、お兄さんが養子にいったとき蒼は十四歳。流石に「知らない」はないだろう。「どうして教えてくれなかったのですか」二人は不仲だったなら敢えて教える必要はないと思ったのか。それなら、なぜ今になって彼の存在を私に教えているのか。 「陽菜さんは、蒼の母親が遠くにいることは知っているかしら?」「それは……まあ……」蒼の両親が別居状態であることは、藤嶋の社員なら誰でも知っている。妻が病気療養中であることから、蒼の父親はあの白川百合江を公然とパートナー扱いし、藤嶋がホストのパーティーでは彼女がホステス役を務めている。「息子の司と蒼の母親の香澄さんは政略結婚だったけれど、香澄さんは司を愛していた。司には幾人も愛人がいたけれど、公の場では香澄さんを妻として厚遇はしていたし、蒼という司の子どもの唯一の母親という矜持が彼女を支えていた。そんな香澄さんのもとに、生母が亡くなったからと引き取った蓮を司は連れていったの。その日から香澄さんの精神状態は目に見えて悪くなり、私と夫は蒼と蓮が彼女に近