「相野さん、お疲れ様」
自分の席でパソコンに向かっていると部長に声をかけられ立ち上がる。部長が直接話しかけてくるのはめずらしいことだ。 「例の企画が高評価だった。来春発売のゲームのパッケージもうちでやれるよう頑張ってほしい。なんせ世界的に有名なゲーム会社『パルティ』の案件だ。会社にとっても素晴らしいことだから期待しているよ」 「ありがとうございます。精一杯頑張らせていただきます」 「この仕事を取るとデザイナーとして大きく羽ばたいていけると思うぞ」 去っていく部長に私は頭を深く下げた。 ゲームのパッケージデザインを手がけるのは私にとっての大切な夢だ。昨年、病気で他界した親友の亜希子との約束だった。 入院生活が暇すぎるという亜希子にゲームをプレゼントすると、かなり熱中してくれた。 『ゲームの世界を教えてくれてありがとう』 『私は詳しくないけどさ』 『真歩がパッケージをデザインしたゲーム、やってみたいなぁ』 『そうだね。頑張る』 『約束だよ』 夢を叶える前に亜希子は亡くなってしまったが、今もきっと天国から見守ってくれているに違いない。 気合いを入れて頑張ろうとした時、修一郎と目が合う。なぜか不機嫌そうだった。そして立ち上がり部署から出ていく。『ティーオーユーデザイン企画』のデザイン部に所属する私は、この会社で夢を追いかける二十七歳。一九〇〇年に創業した企業でデザイナーや写真家を中心に作った会社だった。
それからだんだんと業種が広がっていき、広告代理店として成長し、現在では日本とアメリカに関連企業が五百あり、デジタル広告とパッケージデザインに力を入れている。 私の部署にはデザイナーが二十人いて、その他に補佐的要員も含めると全員で三十人いる。 私の恋人、田辺修一郎(たなべしゅういちろう)は大学時代からの付き合いだ。私と彼は芸術大学を出た。学んだことを活かせる会社に行きたいと話をして同じ会社を受け、二人ともまさかの内定だった。しかも同じ部署で働いている。 入社当時はただの同期ということで話をしていたけれど、だんだんと知り合いが社内に増えていくと、同棲していることが知られてしまい今では公認の仲になっている。 同棲のきっかけは、私の両親が旅行中に他界したことだ。 一人っ子で孤独な私に優しくしてくれたのが修一郎だった。 初めは彼の家にお邪魔していたがだんだん荷物が増えていって一緒に住むようになっていた。 年齢的に結婚間近と言われているけど、ここ三年ほどキスやハグをしていない。休みの日も別々に過ごしている。 私たちは本当に恋人という括りの中にいるのだろうか。もしかするとただの同居人になってしまったという可能性もありえる。でも本当のことを聞くのが怖くて私は何も言わずにただ一緒に過ごす日々。 掃除、洗濯、食事の準備は、すべて私の役割だ。お互いに正社員で仕事で忙しいので、少しは分担してほしいが、彼には私が必要なんだと言い聞かせていた。 ……やっぱり、最近、心から笑ってないかも。勢いよく家を出たのはいいが、私は立ち止まって考え込む。 財布を見てみると、残り一万円札しかなかった。生活費を折半し、その残りは貯金に回していたので自分のお小遣いなんてないに等しい生活を送っていた。 次の給料日までどうやって生きていけばいいのだろうか。 とりあえずゆっくりと歩き出す。 歩いていると胃の辺りが熱くなりイライラしてくる。 修一郎に捧げていた時間は何だったの? 結婚間近だと思っていたのに、家も恋人も財産も全てを失ってしまった。まさか自分が悲劇のヒロインになるとは思ってもいなかったのだ。いや……ヒロインにもなれていないかもしれない。ただの最悪な人生を歩んでいる人……かな。 悪い夢を見ているのかと疑いたくなってしまう。 行く場所がないので近所の公園に入った。夜ということもあって静かだ。遊具も営業終了をし、眠っている感じがする。「……きついなぁ」 ベンチに腰をかけて考え込む。野宿しながらとりあえず生きるしかないのか。いやいや、流石にありえない。一時的に避難する場所とかないのだろうか。スマホで検索して情報収集してみるが、私よりも世の中にはもっと大変な人がいて、自分のような人間が使う場所ではないと思って画面を閉じた。 そのうちに酔っ払っている人がやってきて、コロンと転がって寝てしまう。 ど、どうしよう。そっと近づいてみる。「大丈夫ですか?」「うーんー」 こういう場合は、警察に通報したほうがいいのか。 困っていると若者がチューハイの缶を手に持ちながら騒いで公園に集まってきた。治安があまりにも悪いし身の危険を感じたので、公園を後にして交番によって酔っ払っている人が寝ていたと告げてから、ネットカフェに泊まることにした。 とりあえず今夜の寝床を確保することはできたが、このままだと数日間しか持たない。 ネットカフェの個室でこれからどうしようかと考える。 誰かにお金を借りなければと考えるが、両親は他界しておらず、友達と言える人はほとんどが家庭を持っている。 お願いをすれば数日間泊めさせてもらうことはできるかもしれないけど、迷惑をかけたくない。 まずは住むところを確保しなければならないが、敷金すら払えるお金がないのだ。敷金や礼金など不要な物件もあるので、そういうところを探していこう。とは言っても給料日まではまだ三週間も残っている。どうやっ
定時で仕事を終えて家に戻ると荷物の整理を始めた。もし私が別れを告げたら、引き止めてくれるだろうか? 片付けをしながらふとそんなことが頭の片隅によぎった。万が一引き止められたとしても私はここに残るつもりはない。 今日彼が帰ってきて別れを告げてから出て行くつもりでいた。 そのためにはある程度の資金が必要だ。二人で結婚のために貯めていた通帳を確認する。 折半すればマンションもすぐに借りられるはず。しかし残額を見て私は言葉を失った。ゼロだった。「ひどい」 完全に信用していた私も悪かったが、絶対に修一郎は私のことを裏切らないと信じていたのに無断でお金を使っていたなんて……。深く裏切られたような気がした。 学生時代は好きだと言って大切にしてくれたのに、いつから心が離れていたのだろう。 震える手で通帳を持って確認しているとドアの開く音がした。彼が戻ってきたのだ。喉の奥がぎゅうっと締め付けられるような感覚に陥る。どんなふうに話を切り出したらいいのかわからない。 怖くて不安で体に震えが走ったが、しっかりと考えを伝えて完全に関係を終わらそう。 リビングのドアが開くと修一郎と目が合った。「ただいま。腹減ったんだけど」「……修一郎、大切な話があるの」「話? 後にしてくれないかな。今日めちゃくちゃ腹が減ってるんだよね。まさか作ってないとか言わないよな?」 ネクタイを外してソファーの上に投げ捨てる。ジャケットを脱ぎそれもそのままだ。全部拾い上げてシワができないようにハンガーにかけるのも私の仕事だった。 めんどくさいと言ったような態度でソファーにドカッと腰をかける。「ったく、何?」 そこで彼は初めて私の手に通帳があるのに気づいたようだ。一瞬、表情をこわばらせたがすぐに真顔に戻る。「ごめん。大事な用事とか続いて金がなくなってちょっと借りただけだよ」「これは二人の結婚費用にって貯めていたものだよね。勝手に使うなんてひどいよ。困っているなら言ってくれたらよかったのに」「お前は優秀だからいつも残業ばかりじゃん。話しする時間なんてなかったんだよ」 まるで私が悪いというように言う。明らかに修一郎が悪いのに謝ろうとしないのだ。 その態度を見ていると悪いことをしたのは自分なのではないかと思ってしまう。怯んでしまいそうだったが私は強い視線を向けた。「私のこと家政婦
「相野さん、すごいですね」 岩本君が笑顔を向けてくれる。「心から応援しています」「ありがとう」 心優しい岩本君に励まされ、やる気が漲ってきた。 ドリンクを買ってこようと立ち上がると岩本君もついてくる。まるで親鳥にくっついてくる雛鳥みたい。ニコニコしていて、かわいいから嫌な気はしない。「僕も喉乾きました」「タイミングが同じっておかしくない?」「ですかね」 休憩室に入ろうとした時、修一郎の声が聞こえてきた。思わず足を止める。「今日も杏奈ちゃんは本当にかわいいね」「ありがとうございますぅ。素敵な田辺さんに言われるとすごく嬉しいです」「じゃあ今度デートしようか?」「えぇー? 田辺さんって結婚間近だって噂ですよね。同棲してるんでしょう?」 瀬川杏奈(せがわあんな)は去年入社した契約社員だ。甘い話し方と香りで男性社員の中から人気がある。「大学の同級生ってだけでさ。彼女、親がいなくなって困ってたからとりあえず家に住ませてあげたっていう感じ。恋愛感情とか全くないし。早く出て行ってくんないかなと思ってさ。家に置いてやってるんだ。まぁ家政婦の代わりみたいな」 金槌で頭を打たれたような衝撃で足がふらついた。岩本君が支えてくれる。「えー? だって相野さんってデザイン賞を何度ももらっているすごい人ですよね?」「たしかに仕事はできるけど、杏奈ちゃんのような魅力はないよ」 二十歳から交際始めての七年間、一途に修一郎を愛して、将来は一緒になるということを疑っていなかった。 心から信頼していた人に裏切られたという絶望感に打ちひしがれる。「相野さん、行きましょう」 岩本君が耳打ちし、私の手首をつかんで歩き出した。「ちょっと、どこ行くの?」 足がもつれそうになるがついていく。 連れて来られたのは階段だった。ひんやりとしていて周りの音が遮断されている空間だ。 呆然としている私を岩本君が長い手で包み込むように抱きしめてくれた。 心が弱っている時に優しくされたら甘えたくなる。しかし年下の後輩に甘えるわけにいかないし、こんなところを誰かに見られて変な噂が立ったら岩本君に迷惑をかけてしまう。 私は精一杯の力で岩本君の胸を押し返した。「やめて」 岩本君が悲しい目をする。「まだあんな男のこと、好きなんですか?」 混乱状態で感情の整理ができなかった。「
「相野さん、お疲れ様」 自分の席でパソコンに向かっていると部長に声をかけられ立ち上がる。部長が直接話しかけてくるのはめずらしいことだ。「例の企画が高評価だった。来春発売のゲームのパッケージもうちでやれるよう頑張ってほしい。なんせ世界的に有名なゲーム会社『パルティ』の案件だ。会社にとっても素晴らしいことだから期待しているよ」「ありがとうございます。精一杯頑張らせていただきます」「この仕事を取るとデザイナーとして大きく羽ばたいていけると思うぞ」 去っていく部長に私は頭を深く下げた。 ゲームのパッケージデザインを手がけるのは私にとっての大切な夢だ。昨年、病気で他界した親友の亜希子との約束だった。 入院生活が暇すぎるという亜希子にゲームをプレゼントすると、かなり熱中してくれた。『ゲームの世界を教えてくれてありがとう』『私は詳しくないけどさ』『真歩がパッケージをデザインしたゲーム、やってみたいなぁ』『そうだね。頑張る』『約束だよ』 夢を叶える前に亜希子は亡くなってしまったが、今もきっと天国から見守ってくれているに違いない。 気合いを入れて頑張ろうとした時、修一郎と目が合う。なぜか不機嫌そうだった。そして立ち上がり部署から出ていく。『ティーオーユーデザイン企画』のデザイン部に所属する私は、この会社で夢を追いかける二十七歳。一九〇〇年に創業した企業でデザイナーや写真家を中心に作った会社だった。 それからだんだんと業種が広がっていき、広告代理店として成長し、現在では日本とアメリカに関連企業が五百あり、デジタル広告とパッケージデザインに力を入れている。 私の部署にはデザイナーが二十人いて、その他に補佐的要員も含めると全員で三十人いる。 私の恋人、田辺修一郎(たなべしゅういちろう)は大学時代からの付き合いだ。私と彼は芸術大学を出た。学んだことを活かせる会社に行きたいと話をして同じ会社を受け、二人ともまさかの内定だった。しかも同じ部署で働いている。 入社当時はただの同期ということで話をしていたけれど、だんだんと知り合いが社内に増えていくと、同棲していることが知られてしまい今では公認の仲になっている。 同棲のきっかけは、私の両親が旅行中に他界したことだ。 一人っ子で孤独な私に優しくしてくれたのが修一郎だった。 初めは彼の家にお邪魔していたがだん
「相野さんは僕の初恋の人なんです。再会できるなんて思っていなかったので驚いています」 若きエースと言われている岩本圭介(いわもとけいすけ)君が爽やかな風が吹くオフィスの屋上でさらりと発言した。 この春から配属され一ヶ月が過ぎたところ。彼の言葉で脳内に桜の花びらが舞っているかのような感覚に陥った。「でも、恋人がいるんですね。相野さんを奪いたくてたまりませんが、相野さんが今幸せなら邪魔をしません。笑顔でいてくれるのが一番ですから」 岩本君の私を想ってくれる熱いメッセージが胸の奥底に届いて泣きそうになった。――笑顔でいてくれるのが一番 あれ? 私、最近、心から笑っていただろうか。「あぁ、でも……悔しいです。ずっと忘れられなかったので」 私のことを知っているような口ぶりだったが、顔を見てもこんなにイケメンの知り合いはいない。 彼は背が高くてスーツの上からでもほどよく体が鍛え上げられているのがわかる体型だ。サラサラとした艷やかな髪の毛は太陽の光が当たると輝いて見える。綺麗な二重に高い鼻と薄い唇。まるで貴族とか王子とかみたい。 対して私は肩までのストレートヘアーをハーフアップしていることが多く、奥二重と小さい鼻と口。体型はごく普通。どこにでもいる特徴のない人という感じだ。 岩本君の容姿があまりにも整っているから隣を歩くのが恥ずかしいが、教育係なのでいつも隣りにいる。「気持ちはすごく嬉しいよ、ありがとう。……でも、どこで会ったのかな?」「忘れてしまいましたか?」「うん、ごめんなさい」「残念です」 捨てられた子犬のような顔をされて、罪悪感で満たされていく。「本当にごめんなさい。それで何年前にどこで出会ったのかな?」「僕のことを考える時間を増やしてほしいので思い出してくれるまで、教えません」 岩本君は、小悪魔的な笑みを浮かべた。 かわいいと思ってしまうのは、彼は私よりも五歳年下だからだろうか。「では、お疲れ様です。先に戻ってますね」 清々しい笑顔を残して彼は去って行った。「何だったの? 告白され……た?」 直球の言葉を投げかけられて私はしばらくぼんやりする。ときめいている場合ではない。 どちらにしても、私には将来を約束した恋人がいて同棲もしているのだ。申し訳ないけれど、岩本君の気持ちに応えることができない。 それにしても……告白さ