Masuk「その反応は、ちょっと傷つくなあ」声は軽い。でも、完全な冗談にも聞こえない。胸が、また変なところで鳴った。「……翔太、今日なんか変だよ」「そうですか?」「うん」「まあ。そんな楽しいデートの話されたら」翔太は缶を手すりに置いた。「もっと楽しいことに誘いたくなるもんでしょ」その言い方に、また動揺する。「アートバー行くじゃん」「そういう話じゃなくてさ」翔太がこちらを見る。夜の暗さのせいで、表情の輪郭がいつもより少し柔らかい。けれど、目だけはやけに真っ直ぐだった。「愛子の楽しい時間は、俺の方がもっと自然に作れると思ってるだけ」少しだけ口元を上げる。「俺ら、好きなもの似てるじゃないですか」軽く言った。軽く言ったのに、胸に残る。正人は、正人の生活へ私を招いてくれた。それは本当に嬉しかった。でも翔太は、私の中にある“楽しい”を、説明する前から知っているように話す。そこが少し怖い。そして、少しだけ悔しい。当たっている気がしてしまうから。「じゃあ」私は少しだけ挑むように言った。「なんか楽しいことに誘ってくれるの?」翔太は少し考え込んだ。いつものように、すぐ適当なことを言うかと思ったのに、案外真剣に空を見ている。夜風で、少し湿った髪が揺れた。「イマーシブシアターとか、行ってみます?」「イマーシブシアター?」「体験型の劇場みたいなやつ。観客も空間の中に入って、物語を追うやつです。ニューヨークで一回見て面白くて」翔太の声が少しだけ熱を持つ。「最近、東京でもちょっとずつ増えてるんですよ。知り合いのアーティストの子が関わってるのがあって」「へえ」「まあ、ちょっと最近は距離置いてたんですけど」その言い方に、何かあったのだと察した。でも、聞かなかった。翔太もそれ以上は言わなかった。その代わり、缶を持ち直して、少しだけ笑う。「そんな楽しそうな顔してるのを今日見ると」胸がまた少し騒ぐ。「隣人として。ちょっと嫉妬したからさ」さらっと言った。でも、嘘ではない温度だった。隣人として。その言葉をつけたのは、逃げ道なのか。線引きなのか。それとも、私を困らせないためなのか。分からない。分からないから、余計に落ち着かない。「なんか新しい体験、俺も愛子に提供したいなって思ったから」言葉が出なかった。顔が
部屋に戻ってからも、しばらくコートを脱げなかった。玄関の明かりだけがついた部屋の中で、バッグを持ったまま立ち尽くす。正人の言葉が、まだ身体のどこかに残っていた。――でも、もうしょうがないよね。好きだから。タクシーの中の静けさ。窓に流れていた夜の光。情けないみたいに笑った正人の顔。それなのに、あの人は最後まで優しかった。待つと言った。困らせることは想定していたと言った。水族館に行きたいという唐突な言葉にも、呆れながらちゃんと受け取ってくれた。私はようやく靴を脱ぎ、コートをソファの背にかけた。シャワーを浴びるべきだと思う。明日は月曜だ。でも、身体の奥にまだ熱が残っていて、すぐに眠れる気がしなかった。正人のことを思い出すたび、胸が静かに温まる。それは、翔太に揺らされる時のような急な熱ではなかった。もっと深いところで、ゆっくり染みてくるようなものだった。今日また、正人を知ってしまった。そう思う。ピアノを弾く横顔。私を「大事な人」と言った声。好きだから、と少し情けなく笑った顔。今まで同期として見ていた人の輪郭が、少しずつ男の人の形を帯びていく。その変化が、嬉しくて。同時に、怖かった。スマホが震えたのは、その時だった。翔太だった。『起きてます?』私は少しだけ息を止めた。隣。また、隣。今日の正人の話を思い出して、胸が少しざわつく。それでも、返信画面を開いてしまう。『起きてる』数秒後。『ちょっとベランダで飲みません?』私はスマホを見つめた。今日はもう飲んだ。しかも、コンサートのあとバーまで行った。明日は仕事。普通なら断るべきだ。でも。少しだけ、飲み足りない。正人との時間が悪かったわけではない。むしろ、良すぎた。良すぎたからこそ、胸の中に残ったものを、まだ一人で抱えきれなかった。『少しだけなら』送ってから、小さく息を吐いた。ベランダに出ると、夜風が少し冷たかった。隣のベランダでは、翔太がすでに缶を開けていた。黒いスウェットに、少し濡れたような髪。たぶん、シャワーのあとだ。ラフなのに、やっぱり目立つ。夜の薄い光の中でも、肩の線や首元の影がきれいに見える。何も作っていない姿のはずなのに、気を抜いた色気がある。そう思ってしまって、私は少しだけ視線を逸らした。「おかえり」翔太
タクシーの中の静けさが、急に濃くなる。「意識してたのは、二年前くらいからかな」「二年前?」思わず聞き返した。「私、前の彼氏と付き合ってたし。正人も彼女いたじゃん」「うん」正人は苦いものを飲み込むみたいに笑った。「だから最初は、ないと思ってたんだよ。自分でも」少し間。「でも、気づいたら、一番話したいのが愛子だった」胸の奥が、静かに揺れる。「嬉しいことがあった時も、しんどい時も、先に顔が浮かぶのが愛子で」正人は窓の外に視線を向ける。「それでも、いやこれは同期としてだろって思ってた。仕事もあるし、彼女もいたし、愛子には彼氏がいたし」その声は、淡々としているのに、どこか痛かった。「でもまあ、彼女にも振られたよね」言葉を失った。正人は乾いた笑いをこぼした。「気持ちが離れすぎてるって」「……正人」「向こうが結婚したがってたのもあるけど」さらっと言う。でも、さらっと言うには重すぎる内容だった。「俺、ちゃんと向き合えてなかったんだと思う」何を言えばいいか分からなかった。正人の好きが、自分が想像していたよりずっと長い時間の中にあったこと。そのせいで、誰かが傷ついたかもしれないこと。正人自身も、きっと何度も誤魔化そうとしたこと。全部が一気に流れ込んできて、うまく飲み込めない。正人は、少しだけこちらを見た。「まあ、だから」声が少し柔らかくなる。「そんな簡単に諦められるって話でもないわけ」胸が詰まる。「だからって、どうしようもないのは知ってたけどさ」正人は苦笑した。「愛子が前の彼氏と別れた時は、正直かなり動揺した」息を止める。「一人暮らし始めるってなった時も」正人の声は穏やかだった。でも、そこにあった感情の熱は隠れていなかった。「愛子の気持ちは心配したよ。もちろん」少し間。「でも、諦めなくてもいいんじゃないかって、真剣に思った」その正直さに、胸がきゅっと痛んだ。「今までの距離感も、失う可能性も、仕事も、全部天秤にかけた」正人は自分でも少し呆れたように笑う。「でも、もうしょうがないよね」正人が私を見る。逃げない目。でも、少し情けないような笑み。「好きだから」その一言で、胸がひどく揺れた。かっこいい告白ではなかった。完璧に整えられた言葉でもなかった。でも、だからこそ響いた。長い間、
「日曜だし、今日は早めに帰ろう」バーを出る前、正人はそう言った。その言い方が、あまりにも自然だった。まだ話せる余白はあった。グラスをもう一杯頼むこともできたし、音楽の余韻にしばらく浸ることもできた。でも正人は、無理に引き延ばさない。明日が月曜で、私が疲れているかもしれないことも。今日初めての場所に連れてきたことも。全部ちゃんと計算に入れている。そういうところが、正人らしい。相手を大切に扱うことが、自然に身体へ染みついている人。それなのに。その気遣いすら、今の私には少しぎこちなく響いた。さっきのピアノ。鍵盤に落ちた指。午後の広場に、音がほどけていった瞬間。「ピアノ辞めなくてよかったって、今日一番思ってるかも」そう笑った顔。それらが、まだ胸の奥に残っていた。タクシーに乗る時、正人がいつものようにドアを押さえてくれる。ただそれだけなのに、私は少しだけ目線を泳がせた。気づかれたくなかった。今日、自分が思った以上に揺れていることを。正人が、ただの同期でも、頼れる友人でもなく、少しずつ男の人として近づいてきていることを。タクシーのドアが閉まる。車が走り出すと、窓の外に夜の街が流れた。バーのあった通りはすぐに後ろへ過ぎて、ネオンと街灯が黒い窓に滲む。日曜日の夜の道路は思ったより空いていて、タクシーの中にはエンジンの低い音と、ナビの小さな案内音だけが残った。会話は多くなかった。でも、不思議と気まずくはない。正人とは、話を繋がなくても平気だ。仕事の時もそうだった。資料を見ながら無言で並んでいても、気まずくならない。必要な時に言葉を置けば、ちゃんと相手に届く。それが、今日は仕事ではない場所でも同じなのだと、少しだけ実感していた。隣を見る。正人は窓の外に視線を向けていた。タクシーの薄い照明が、横顔の輪郭を静かに照らしている。昼間の明るいジャケット。少し開いたシャツの襟元。長い指。大きすぎないけれど、ちゃんと男の人らしい肩の線。今まで見慣れていたはずの横顔が、今日は少し違って見えた。仕事中の正人は、いつも近くにいた。隣に座って、同じ資料を見て、同じ会議に出て、同じ問題に向き合ってきた。なのに、こんなふうに意識したことはなかった。知らなかっただけなのかもしれない。正人が、ちゃんとかっこいい人だとい
「お、正人。久しぶりだな」「ご無沙汰してます」仕事の正人より、少し砕けた声。その感じがまた新鮮だった。「今日は珍しく綺麗な子連れてるじゃない」「大事な子なので、変な絡み方しないでください」「はいはい」マスターが笑う。私は少しだけ頬が熱くなった。さっきから正人は、自然にそういう言い方をする。大事な人。大事な子。言い慣れているわけではないのに、迷わない。それが少しずつ、私の中に残っていく。料理は、想像以上に美味しかった。軽い前菜。香ばしく焼いた魚。小さなパスタ。バーなのに、ちゃんと食事として満足できる。グラスの中の白ワインを揺らしながら、仕事の話を少ししようとすると、正人が静かに止めた。「今日はプライベートでしょ」その言い方に、少しだけ止まる。正人は柔らかく笑う。「もっと愛子の話聞かせてよ」胸が、ふっと鳴った。仕事中なら、正人は私の話をいくらでも聞く。でもそれは、案件の話だったり、整理だったり、相談だったりする。今は違う。私自身の話を聞こうとしている。「だったら、正人の話もして」私が言うと、正人は少しだけ目を細めた。「何が知りたい?」「先週末、何してた?」口にした瞬間、少しだけ自分で驚いた。正人も、ほんの少しだけこちらを見る。「愛子は?」「私は、上野にモネ見に行ってた」言った後、少しだけ間が空いた。誰と、とは聞かれなかった。でも、正人はたぶん察した。グラスを持つ指がほんの少しだけ止まり、すぐに何でもない顔へ戻る。その変化が小さすぎて、見逃してもおかしくないくらいだった。でも、私には分かった。「楽しかった?」正人はそれだけ聞いた。「うん」「そっか」深くは聞かない。聞けるはずなのに、聞かない。その大人さに、少しだけ胸が痛む。正人は自分のグラスを置いて言った。「俺は地元でサッカーしてた。珍しく」「サッカー?」「大学の友達に誘われて。そろそろ身体動かさないと、中年まっしぐらだから」「正人が中年って言うの早くない?」「油断すると早いよ」「そういうところ、真面目」「健康管理も提案の一部なので」「また提案って」二人で笑う。空気が少し柔らかくなったところで、私はグラスを見つめながら言った。「私、楽器って全然縁がなかったな」正人がこちらを見る。「そうなの?」「
演奏は、想像していたよりずっと身体に響いた。最初は、どう聴けばいいのか分からなかった。けれど、弦が重なって空気が震えた瞬間、言葉で理解する前に、胸の奥が少しだけ開いた。知っているメロディもあった。テレビや映画で聴いたことのある旋律。それが、目の前で何十人もの人の手によって鳴っている。音が立ち上がるたび、ホール全体の空気が変わる。途中から、難しいことを考えるのをやめた。ただ聴いた。隣の正人は、静かだった。でも、ふと横を見ると、目元がいつもより穏やかで、少しだけ遠くを見ているようだった。正人の中にある時間。子どもの頃から聴いていた音。母親のピアノ。練習。コンクール。それらの一部が、今ここにあるのかもしれない。そう思うと、隣に座っている正人が、また少しだけ知らない人に見えた。終演後、ホールを出ると、午後の空気が肌に触れた。夕方にはまだ少し早く、街には明るさが残っている。「どうだった?」正人が聞く。私は少し考えてから言った。「面白かった。思ってたより、ずっと身体にくる感じだった」正人が嬉しそうに笑う。「よかった」その顔を見て、思う。この人は今日、自分の好きなものを見せてくれている。前回の箱根は、私が楽しめるように準備してくれた一日だった。でも今日は少し違う。正人の生活の中にある場所へ、入れてくれている。そのことが、思ったより嬉しかった。「少し歩いてから、下北沢行こうか」正人が言う。「うん」ホールの周りを抜けて、駅へ向かう道を少し遠回りした。日曜の午後の道は、どこかゆるい。親子連れや、散歩中の犬や、紙袋を持った人たちが、同じ速度で街を流れていく。しばらく歩くと、小さな広場に出た。屋根の下に、誰でも弾けるフリーピアノが置かれている。少し古びた黒いアップライトピアノ。鍵盤の上には、「ご自由にどうぞ」と書かれた小さなプレートがあった。「こういうのあるんだ」私が足を止めると、正人もピアノを見た。「たまにあるよね」「正人、弾けるの?」「一応」「一応って、絶対弾ける人の言い方」そう言うと、正人は少し困ったように笑った。「ここで?」「え、嫌ならいいよ」「嫌というか」正人は周りを見た。広場には、ベンチに座っている親子連れがいて、少し離れたところで若い男の人がスマホを見ている。誰かが弾