ログイン鉄板の上で、ソースが小さく弾けた。しばらくして、正人が小さく咳払いをした。「……えっと」少し苦笑い。「すごいしょうもない自覚あるし」言葉を探すみたいに、視線が泳ぐ。「自分が理解してない背景があるのも、分かってるんだけど」少し間。それから、ようやく顔を上げた。「……お隣の子、だよね」翔太。名前を出さない。でも、分かる。「その子とは」正人がヘラを置いた。カチ、と小さな音がした。鉄板の湯気が、二人の間に少し上がる。「弟くんも入れて遊びに行けるのに」少しだけ乾いた笑い。「日曜に、自分が会えないのはなんでだろうって」胸が少し痛む。「ちょっと考えた」責めていない。でも、傷ついている。その温度が、静かに伝わってくる。正人の視線は、まっすぐではなかった。少しだけ横へ流れている。でも、それは逃げているというより、自分の言葉を抑えようとしている目だった。言いすぎないように。責めないように。でも、黙ったままにもできないように。私は何か言おうとして、止まった。全部、言い訳になる。楓がいたから。翔太は隣だから。昔の恋人だから。ホラー映画とアートバーは前からの約束だから。でも。それだけじゃない。自分でも、分かっている。翔太は、“隣人”だけの距離ではない。だったら、これは何なのか。そう聞かれても、まだ答えは出ない。でも。一つだけ、確かなことがあった。私はゆっくり口を開く。「正人はさ」少し迷う。でも、逃げない。「ちゃんと告白してくれて」正人の目が、私を見る。「待ってくれてるじゃん」視線が少し下がる。「だから」息を飲む。「楓を、入れないでデートしたかったの」正人の表情が止まる。私は少しだけ苦笑いした。「言い訳じみてるけどさ」声が少し小さくなる。「……二人で会いたかったんだよ」沈黙。ほんの少しだけ。正人の肩の力が抜けるのが分かった。目元も、少しだけ緩む。でも、そのあと、困ったみたいに笑った。「でもさ」静かな声。「客観的に見たら」少しだけ苦い笑い。「俺と、その隣の子」間。「どっちが特別かって、明らかじゃない?」胸が痛くなる。すぐに正人が続けた。「ごめん」少し目を逸らす。「こんな形で嫉妬すべきじゃないの、分かってるから」綺麗に片付けようとする。いつ
お好み焼き屋の店内は、思っていたより落ち着いていた。金曜の夜らしく席は埋まっているのに、不思議とうるさすぎない。鉄板の上で焼けるソースの匂いと、少し甘いキャベツの香り。奥の席からは、グラスのぶつかる音と、小さな笑い声が聞こえてくる。古い木のテーブル。少し年季の入った鉄板。暖色の照明。どこか昔から変わらない店、という空気だった。正人っぽい。なんとなく、そう思った。流行りの店ではない。でも、ちゃんと美味しくて、気取っていない場所。安心感がある。席につくと、正人は慣れた様子でメニューを広げた。「苦手なものある?」「ない」「じゃあ適当に頼んでいい?」その言い方があまりにも自然で、少し笑ってしまう。「そこ、最近安心感あるから助かる」正人が少し目を細める。「任せるの、慣れてきたよね」「正人、外さないし」「珍しく褒められた」少し嬉しそうに言いながら、正人はジャケットを脱いだ。そのままシャツの袖を二回折る。腕まくり。少し筋張った手首。時計。普段、資料を持つ時に見慣れている綺麗な指先。それが、自然な動きでヘラを持つ。店員が置いていったボウルを迷いなく混ぜて、キャベツの量を見ながら生地を整えていく。動きが慣れていた。雑じゃない。でも、気取ってもいない。ちゃんと生活してきた人の手つきだった。私は少し目を丸くする。「……料理するんだ」正人が少し顔を上げる。「意外?」「かなり」「一人暮らし長いから」さらっと言って、鉄板へ生地を落とす。じゅう、と音がした。湯気が少し上がる。手際がいい。ひっくり返すタイミングも迷いがない。「え、普通に上手」「そこそこだから」少しだけ得意げな顔。その意外さに、思わず笑ってしまった。こういう正人を、少し前まで知らなかった。車を運転する正人。ピアノを弾く正人。妹の話をする正人。馴染みのバーへ連れて行ってくれる正人。そして今、鉄板の前で当たり前みたいにお好み焼きを焼く正人。知っているはずの人の中に、知らない生活がいくつもある。それを少しずつ見せてもらっていることが、嬉しかった。ふと、頭の片隅に翔太が浮かぶ。翔太は、こういうのをするんだろうか。しなさそう。いや、するのかもしれない。五年前、一緒にいた時に見たことがなかっただけで。カフェ。映画。
水槽の光。小さな泡の音。遠くの子どもの笑い声。その全部の中で、正人の言葉だけがまっすぐ届いた。私は思わず視線を逸らした。「……そういうの、最近もう本当に照れるからやめて」声が少し小さくなる。正人が笑う。「やめないよ」「なんで」「だって」少しだけ近い声。「ちゃんと効いてるんでしょ?」確かめるような言い方だった。責めているわけではない。ただ、分かっている。私が照れていることも。本当は嬉しいことも。ちゃんと届いていることも。全部。顔が熱くなるのを感じながら、私はペンギンの方を向いた。「……うるさいな」照れ隠し。それ以外の何でもない。正人はそれ以上追わなかった。ただ、隣で少しだけ笑っていた。その余白がまた、正人らしかった。でも。楽しい時間の中で、ふと気づく。正人の顔に、少し疲れがある。目元。肩の落ち方。ふとした時に息を吐く感じ。さっき車で迎えに来てくれた時は、嬉しさと緊張の方が先に来て、ちゃんと見えていなかった。今日もギリギリまで仕事だった。最近は、PPMも撮影調整も媒体確認も詰まっている。それでも、私に「本当に行く?」と聞いて、車を出して、水族館の動線まで考えてくれた。私はペンギンの水槽から少し離れたところで立ち止まった。「正人」「ん?」「疲れてない?」正人が少し驚いたようにこちらを見る。「無理そうだったら、もう帰ろうよ」思っていたより、自分の声が真剣だった。正人はそれを聞いて、少しだけ表情を和らげる。「最近、夜まで調整多かったから」正直に言った。「ちょっと疲れてるのはそう」その返事に、胸が小さく沈む。やっぱり。「じゃあ——」「でも」正人が続ける。「愛子とプライベートで時間作ってるのに、それ以上に優先させることなんてないし」軽い口調だった。でも、軽くない。言い慣れているようで、言い慣れていない。その少しだけ照れを隠すような声に、胸が詰まった。「弟くんのせいだとは言っても、普通に今日キャンセルさせたくなかったから」胸の奥が、痛くなる。嬉しい。でも、痛い。最近、その二つが同時に来る。正人は、変わらず真摯だ。待つと言った。急かさないと言った。それなのに、会うたびちゃんと時間を作ってくれる。疲れていても、こうして来てくれる。しかも、押し付けでは
水族館の中は、夜の街とは少し違う青さに満ちていた。ガラス越しに揺れる水の光が、壁にも床にも淡く反射している。子どもの声が少し遠くで響き、どこかの水槽からは小さな泡の音が聞こえた。金曜の夜だからか、人は思っていたほど多くなかった。混んでいない。広すぎない。歩く距離も、ちょうどいい。入ってすぐに、正人がここを選んだ理由が分かった。疲れていても楽しめる場所。それでいて、ちゃんと気分が変わる場所。私は入口近くの水槽を見ながら、小さく言った。「本当にしご出来だね」正人は隣で少し笑った。「まだ入って五分だけど」「五分で分かる」「それは褒められてる?」「かなり」正人は少しだけ満足そうに目を細めた。その横顔が、水槽の青い光に照らされて、いつものオフィスより少し柔らかく見えた。仕事中の白い照明の下では、正人の表情はもう少しきちんとしている。判断が早くて、無駄がなくて、頼れる同期。でも今は違う。青い光の中で、少しだけ肩の力が抜けている。私の歩幅に合わせて、自然に速度を落としてくれている。人が近づくと、さりげなく私の外側に立つ。そういう小さな気遣いが、前よりちゃんと目に入るようになっていた。ペンギンの水槽の前に着いた時、私は思わず足を止めた。水の中を勢いよく泳ぐペンギン。岩場でじっと立っているペンギン。少し離れたところで、毛づくろいをしているペンギン。それだけでも十分可愛かった。でも。その横にあった掲示を見た瞬間、完全に持っていかれた。「待って」正人が隣で立ち止まる。「どうした?」「なにこれ」そこには、ペンギンの関係図があった。誰と誰がペアで。誰が片思いで。どの子が元恋人で。どのペンギンが少し気が強くて、どの子がのんびり屋で。説明が、思った以上に細かい。しかも、人間関係みたいだった。「え、すごい」私は掲示に顔を近づける。「この子、元カレと同じエリアにいるの気まずくない?」正人が吹き出した。「完全に人間として見てる」「だって見て。こっちの子、今のパートナーと元パートナーが近い」「ペンギン界も大変だね」「大変どころじゃない。これ修羅場じゃん」正人は笑いながら、少しだけ私の横へ寄った。二人で同じ掲示を覗き込む。肩が触れそうで、触れない距離。水槽の光が、正人の白いシャツに淡く揺れている
ロビーのソファに座ると、ようやく一週間の疲れが身体に落ちてきた。楓が帰った安心感。仕事が早めに終わった解放感。でも、その奥に、少しだけ緊張がある。正人と、仕事終わりに水族館へ行く。箱根。コンサート。下北沢のバー。タクシーの中の告白。その流れの先にある、金曜の夜。前より自然に会えるようになった。でも、自然になったからこそ、何かを見ないふりにはできなくなっている。少しして、正人が降りてきた。コートを片手に持ちながら、少し急ぎ足だった。「待たせた」「ううん」正人はまず私の顔を見た。ほんの少し、眉を下げる。「本当に行く?」少し笑う。「え?」「疲れてそう」その言い方が優しい。責めるでもなく。無理させない感じ。「無理なら、飯だけでもいい」私は少しだけ首を振った。「ペンギン見たい」正人が少し笑った。「了解」その顔が、どこか嬉しそうだった。私が何かをしたいと言うこと。行きたいと言うこと。それを正人は、いつも丁寧に拾ってくれる。拾って、ちゃんと形にしてくれる。「今日、車で来たから」正人は少し視線を逸らしながら言った。「ゆっくり移動しよ」「車?」珍しくて、少し驚く。「金曜の夜に電車で移動するより楽かなと思って」「そこまで考えてくれたの?」「楓くん対応で疲れてるって聞いてたし」さらっと言う。でも、その一言に、ちゃんと特別扱いがある。私が疲れていること。人混みがしんどいかもしれないこと。ヒールではないけれど、仕事帰りで長く歩きたくないかもしれないこと。全部を想像して、車にしてくれた。それが、自然すぎて。胸にじわっと入ってくる。「ありがとう」「どういたしまして」正人はいつものように軽く返した。でも、ドアを開ける手つきは丁寧だった。助手席に乗る。仕事帰りの東京。少し渋滞。車内は静かだった。でも、不思議と居心地が悪くない。無理に話さなくていい。沈黙が気まずくない。正人との距離感って、最近変わったなと思う。前は、何かを話さなきゃと思っていた。比較検討。提案。そういう言葉で、自分の気持ちを守っていた。でも今は、ただ隣に座っていられる。それが、少し怖いくらい楽だった。「墨田なら、ペンギン多いし」正人がハンドルを切りながら言う。「動線少ないから、疲れてても楽」
金曜日。ようやく。本当にようやく。楓が実家へ帰る日だった。「ほんとに帰るの?」玄関で聞くと、楓がスーツケースを閉じながら、不満そうな顔をした。「追い出すの?」「追い出してる」「冷たい」「三日って言った」「まだ一週間しかいない」「十分」本当に十分だった。洗面所は占領される。急にハグされる。冷蔵庫は荒れる。仕事中でも話しかけてくる。なぜか私の恋愛事情を勝手に観察してくる。しかも、いつの間にか翔太を気に入っている。本気で疲れていた。でも。なんだかんだ、少し寂しい気もする。家族って、たぶんそういうものだ。うるさくて。邪魔で。距離感がおかしくて。それでも、いなくなると少しだけ部屋が静かになりすぎる。「土曜また来る」「来なくていい」「映画あるじゃん」「それは翔太と——」途中で止まった。楓がにやっと笑う。「翔太と?」「……」「俺、楽しみにしてる」空気を読まない。本当に読まない。もともと翔太とは、ホラー映画を観て、そのあとアートバーに行こうという話をしていた。でも、楓が翔太の部屋でバスケの話で盛り上がってから、なぜか流れが変わった。楓が勝手に、「俺もちょうど映画観たかった」と言い出して。翔太が、「じゃあ一緒に行きます?」と、普通に受けてしまった。私はその場で止めようとした。でも楓は、「ホラーなら人数多い方が楽しいじゃん」と言い。翔太も、「愛子、怖いの好きだけど文句言うタイプなので、ツッコミ役増えるのは助かります」なんて言った。そこが妙に自然だった。変に私を取り合うような空気ではなく。男同士で気が合って、遊びの予定に一人増えただけみたいな軽さ。楓は陽キャで、距離を詰めるのが異常に早い。翔太はそれを嫌がらず、適度に受けて、適度に流す。会話のテンポが、意外と噛み合っていた。それが少しだけ面白くて。少しだけ落ち着かなかった。「映画はまだ確定じゃない」私が言うと、楓はスーツケースの取っ手を伸ばした。「確定でしょ。翔太がチケット見るって言ってたし」「なんでそんな仲良くなってるの」「相性?」「腹立つ」楓は楽しそうに笑った。そして、スーツケースを引きながら、なぜか隣のチャイムを押した。「ちょ、楓?」「挨拶」「いらない」でも、もう遅い。少しして、扉が開く