LOGIN翌朝。
目が覚めて、最初に思い出したのは仕事ではなかった。
キッチンに置いた、翔太のコンビニ袋。
時計を見る。
午前八時を少し過ぎている。
休日にしては早く目が覚めた。
カーテンの隙間から入る光が、まだ片づいていない段ボールを照らしている。
私はベッドを出て、キッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。
水。
サンドイッチ。
昨夜預かったものが、そのまま入っている。
翔太は取りに来なかった。
忘れているのか。
夕食がなくても困らなかったのか。
そこまで考えて、冷蔵庫を閉める。
どうでもいい。
返せば終わる。
私は袋へ水とサンドイッチを戻した。
コーヒーも入れる。
そのまま玄関へ向かいかけて、足を止めた。
まだ部屋着だった。
髪も整えていない。
五年前なら、この程度で翔太の前に出ることを気にした覚えはない。
寝起きのまま、彼の部屋で朝を迎えたこともあった。
けれど今は違う。
元恋人で。
隣人で。
昨日、ようやく普通に話せただけの相手。
私は洗面所へ行き、髪を軽く整えた。
顔を洗い、薄くリップを塗る。
そこまでしてから、鏡の中の自分と目が合った。
「……忘れ物を返すだけなのに」
誰に言い訳しているのか分からなかった。
***
袋を持って隣の部屋の前に立つ。
インターホンへ手を伸ばす。
少し迷ってから、ボタンを押した。
ピンポーン。
すぐには反応がなかった。
まだ寝ているのかもしれない。
日を改めようかと思った時、室内から足音が聞こえた。
鍵が開く。
扉の隙間から現れた翔太を見て、私は一瞬言葉を失った。
黒いスウェット。
眼鏡。
寝癖のついた髪。
仕事帰りの整った姿とも。
女性を部屋へ入れていた夜の姿とも違う。
気の抜けた、休日の翔太だった。
「……おはようございます」
翔太も少し驚いた顔をする。
「おはよう」
私は袋を持ち上げた。
「昨日、これ預かったままだった」
翔太が袋を見る。
「ああ」
今気づいたような反応だった。
「忘れてた?」
「完全に」
「夕飯だったんじゃないの?」
「ほかにも食べるものあったので」
翔太は袋を受け取った。
「わざわざありがとうございます」
「隣だから」
私が答えると、翔太の口元が少し緩んだ。
「便利ですね、隣って」
また言われた。
「それ、いつまで言うつもり?」
「愛子さんが使わなくなるまで」
「もう使わない」
「昨日も使ってましたよ」
「覚えてない」
「都合の悪いことだけ忘れるんですね」
「翔太に言われたくない」
名前が自然に口から出た。
翔太の目が、ほんのわずかに止まる。
私も気づいた。
これまでは、呼びかける必要がなかった。
五年ぶりに初めて、目の前の本人へ名前を向けた。
翔太は何も言わなかった。
ただ、少しだけ目元を和らげる。
「サンドイッチ、冷蔵庫に入れてたから」
「助かりました」
「コーヒーはそのまま」
「はい」
用事は終わった。
帰ればいい。
それなのに、私も翔太もすぐには動かなかった。
半分開いた扉の向こうから、コーヒーの香りがした。
昨夜のボトルではない。
淹れたばかりの香り。
「コーヒー、淹れてたの?」
私が聞くと、翔太が室内へ一度振り返った。
「今ちょうど」
「相変わらず飲むんだね」
「愛子さんも、飲むでしょ」
「飲むけど」
翔太は少し考えるように私を見る。
「飲みます?」
あまりにも自然に聞かれた。
反射的に、扉の奥へ視線を向ける。
整った玄関。
壁際に置かれた革靴。
奥に見える、落ち着いた色の家具。
五年前とは違う翔太の部屋。
その中へ入る自分を想像した瞬間、胸が落ち着かなくなった。
「いや、いい」
すぐに断った。
翔太は無理に勧めなかった。
「そうですか」
そのまま扉を閉めるのかと思った。
けれど、私の顔を見たあと、何かに気づいたように視線を止める。
「少し待ってください」
「え?」
翔太は扉を半分閉めた。
完全には閉めず、室内へ戻る。
私は廊下に取り残された。
帰ってもいいのだろうか。
何を待つのかも分からない。
数分もしないうちに、翔太が戻ってきた。
手には、紺色のタンブラー。
「これ」
差し出される。
「何?」
「コーヒーです」
「見れば分かるけど」
「部屋に入るのは嫌そうだったので」
言い当てられ、言葉に詰まる。
「嫌っていうか」
「気まずい?」
「……少し」
正直に答えると、翔太は特に傷ついた様子も見せなかった。
「ですよね」
あっさり認める。
「だから、持って帰ればいいかなと思って」
「でも」
「余ったので」
たぶん嘘だった。
タンブラーからは熱が伝わっている。
私のために、今入れたように見えた。
「返すの面倒じゃない?」
「隣なので、いつでも返せるでしょ」
また、その言葉。
今度は不思議と腹が立たなかった。
私はタンブラーを受け取る。
指先に温かさが広がった。
「ありがとう」
「熱いので気をつけて」
「うん」
「あと」
翔太が私を見る。
「朝、何か食べました?」
「まだ」
「やっぱり」
呆れたように息を吐かれる。
「コーヒーだけで済ませないでくださいね」
「何、その言い方」
「昔、よくやってたので」
また。
私の覚えていないような癖を、翔太は覚えている。
「今はちゃんと食べてる」
「この前、正人さんにも何か買ってもらってましたよね」
不意に正人の名前が出て、顔を上げる。
「見てたの?」
「袋、持ってたから」
「朝食を買っただけ」
「そうですか」
短い返事。
昨夜と同じだった。
感情は見えない。
でも、正人のことは覚えている。
「じゃあ、冷める前に」
翔太が扉へ手を掛ける。
「うん。ありがとう」
「どういたしまして」
扉が閉じる。
私は自分の部屋へ戻った。
***
キッチンの椅子へ座り、タンブラーの蓋を開ける。
湯気と一緒に、深い香りが広がった。
一口飲む。
少し苦い。
けれど、そのあとに柔らかな甘みが残る。
思わず、もう一口飲んだ。
知っている味だった。
五年前。
翔太が働いていた店で、私のためによく淹れてくれたコーヒー。
酸味が強いものが苦手で。
深煎りの方が好きだった。
砂糖は入れない。
ミルクもいらない。
でも、苦すぎるものは嫌い。
面倒な好みを、翔太は一度で覚えた。
今日のコーヒーは、あの頃の味に似ていた。
偶然かもしれない。
翔太自身が好きな味になっただけかもしれない。
五年も経っている。
私の好みを覚えていて選んだなんて、考える方がおかしい。
それでも。
タンブラーを両手で包む。
温かさが指先から伝わってくる。
昨日まで。
壁一枚向こうに翔太がいることが、ただ落ち着かなかった。
今朝は、その壁の向こうで淹れたコーヒーを飲んでいる。
少しずつ。
翔太の存在が、私の部屋へ入り込んでくる。
私は一度断った。
部屋には入らないと決めた。
それなのに、コーヒーは受け取った。
断れなかったのではない。
たぶん。
受け取りたいと思った。
その違いが、少しだけ怖かった。
バラバラの材料が、会話の中で整っていく感じ。自分が見ているものを、相手も違う角度から見てくれている安心感。それは恋愛とは別の場所にある信頼だった。でも今は、その信頼ごと、正人を好きになっていくのかもしれないと思う。ふと、正人の視線が少し長く止まる瞬間があった。私がカレーの辛さに少しだけ目を細めた時。水を飲んで、息を吐いた時。会議の話をしながら、身振りで資料の構成を説明した時。正人は何でもない顔をしている。でも、見ている。前からそうだったのかもしれない。ただ、今はその視線に少しだけ意味が乗っているように感じてしまう。気づかないふりをした。まだ少し、恥ずかしかった。カレー屋を出ると、空はほとんど夜になっていた。夕方の橙色はビルの向こうに消えて、街灯の光が歩道に落ちている。少しだけ冷たい風。スパイスで温まった身体には、ちょうどよかった。帰り道。気づけば、当たり前みたいに手を繋いでいた。昨日みたいな確認はない。でも、勝手ではない。二人とも、同じくらい自然に手を近づけて、同じくらい自然に重ねた。少しだけ力がある。信号待ちで、正人の親指が私の手の甲にほんの少し触れる。何気ない動き。でも、その小さな触れ方に、妙に慣れてしまいそうで少し怖い。住宅街へ入ると、急に静かになった。コンビニの灯り。遠くの犬の鳴き声。夜の空気に混じる、どこかの家の夕飯の匂い。実家の近くまで来る頃には、どちらともなく歩く速度が少しだけ遅くなっていた。終わる空気。でも、終わりたくない空気。それが言葉にならないまま、繋いだ手の間に残っている。家の前で立ち止まる。門灯の下で、正人の横顔が少しだけ明るく見えた。「ありがと」私は小さく言った。「今日も」少し笑う。「楽しかった」正人も少し笑った。「うん」少し間。「俺も」それで終わっていいはずだった。おやすみ、と言って、手を離して、家に入る。それだけでいいはずなのに、空気が終わらない。帰るタイミングなのに、どちらも少し動けない。正人が少し視線を落とした。何かを言いかける。でも、やめる。小さく息を吐いて、困ったように笑った。「……いや」「何?」「なんでもない」その言い方が、妙にぎこちなかった。距離を測っている感じ。何かを飲み込んでいる感じ。それが分かったか
表参道から御茶ノ水へ戻る電車の中は、日曜日の夕方らしく少し空いていた。窓の外には、休日の終わりに近づいている街が流れていく。明るかった空は、少しずつ色を薄めていて、ビルの隙間に残る光も、昼間より柔らかい。紙袋を抱えた人。疲れた顔でスマホを見ている人。子どもの手を引く親。日曜日の夕方特有の、楽しかった時間がゆっくり終わっていくような空気が、車内にも静かに漂っていた。でも、隣に座る正人との距離は、昨日より少しだけ自然だった。肩が時々、ほんの少し近づく。電車が揺れた時、腕がかすかに触れる。わざとじゃない。でも、離れない。その曖昧な近さが、妙に落ち着いた。手は繋いでいない。けれど、その代わりに、身体の距離が少し変わった気がする。隣にいることを、必要以上に意識しなくてもいい。でも、完全に忘れることもできない。話すテンポも、沈黙も、前より少しだけ柔らかい。友達だった時の自然さが残っていて、そこにまだ慣れない甘さが薄く重なっている。少しずつ、恋人になってきている。そんな感覚があった。「眠い?」正人が小さく聞いた。私は窓に映る自分の顔を見て、少しだけ笑う。「ちょっと」「歩いたしね」「正人は?」「俺も少し」そう言いながら、正人は全然眠そうな顔をしていなかった。姿勢は変わらず綺麗で、膝の上に置いた手も落ち着いている。でも、よく見ると、目元だけがほんの少し柔らかい。休日の正人。仕事の時とは違う、余計な力が抜けた横顔。それを隣で見られることが、まだ少し不思議だった。彼氏。また、その言葉が頭の中で小さく転がる。今朝よりは少しだけ慣れた気がする。でも、完全にはまだ馴染まない。馴染まないまま、その違和感ごと少し嬉しい。御茶ノ水駅を出る頃には、空が少し橙色になっていた。ビルの隙間から夕方の光が斜めに落ちて、駅前の人の流れを薄く照らしている。昼間より風が冷たい。春の光なのに、夜へ向かう気配だけはちゃんと残っていた。正人がふと口を開く。「好きなカレー屋あるんだけど」私は顔を上げる。正人は少しだけ前を向いたまま、自然な声で続けた。「軽くディナー食べてく?」その言い方は、本当にさりげなかった。無理に引き止める感じではない。でも、ほんの少しだけ、もっと一緒にいたい、が滲んでいる。私がそれに気づく前に、正人
本屋を出たあと、少し歩いてカフェに入った。大通りから一本入った、静かな店だった。向かいの席も空いていたのに。 なぜか自然と、隣に座る。メニューを一緒に覗く。肩が近い。それだけのことを、まだ少し意識してしまう。正人がメニューをこちらへ傾けた。「これ、好きそう」「また?」「また」「見すぎじゃない?」「彼氏なので」最近、そればかりだ。でも言われるたび、少し照れる。コーヒーが届き、ケーキを半分ずつ分ける。話は自然と学生時代のことになった。サッカー。 本。 ピアノ。知っているつもりだった正人に、まだ知らない部分がいくつもある。「絶対モテたでしょ」何気なく言うと。 正人がコーヒーを飲みながら、少し困ったように笑った。「普通に友達のノリでそこまで聞かれると」カップを置く。「今、ちょっと答えづらいな」そこで、気づいた。あ。そうか。彼氏なんだ。昨日までなら、軽く聞けた。 元カノの話だって、友達なら笑って聞けたかもしれない。でも今は。 答えによっては、自分が傷つく側にいる。「……ごめん」「謝るほどじゃないよ」正人は笑った。それから、少しだけ私を見る目を細める。「愛子、まだ友達の聞き方するよね」「え?」「距離感が、たまに親友のまま」柔らかい声だった。責めているわけじゃない。 ただ、曖昧にはしない。「それはそれで愛子らしいけど」正人がカップへ手を伸ばす。「俺、今は彼氏だから」胸の奥が、小さく跳ねた。「……慣れてないだけ」「うん。知ってる」すぐに返ってくる。少し安心したところで。「だから、慣らす」顔を上げる。正人は何でもない顔でコーヒーを飲んでいた。「それ、昨日も言ってた」「何回でも言う」「強い」「彼氏なので」笑ってしまった。でも。正人の言葉は、胸の中に残った。友達の距離。 彼氏の距離。私はまだ、その違いをうまく掴めていない。正人は急かさない。 けれど、友達のままでいるつもりもない。「正人って、恋愛観とかある?」聞くと、正人は少しだけ窓の外へ目を向けた。しばらくして。「俺、相手に合わせすぎるんだよね」さっきまでより、声が落ち着いていた。「合わせようとして、無理して」少し苦笑する。「自分でダメにすること、多かった」それ以上を軽く聞いてはいけな
日曜日になった。少しだけ遅く起きた朝だった。実家のリビングは静かで、楓も母もいない。 窓から入る春の光だけが、床にぼんやり落ちていた。何も起きていない朝。なのに、私の中だけが少し落ち着かない。昨日、別れ際に繋いだ手。思い出そうとしているわけでもないのに、ふとした瞬間、その熱だけが蘇る。少し大きかった手。 思っていたより骨ばっていた指。 信号待ちで、ほんの少し強くなった力。『思ったより、嬉しい』正人の低い声まで思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。付き合うと決めた。 手を繋いだ。 彼氏になった。まだ、どれも少し現実味がない。スマホが震えた。正人だった。『おはよう』 『13時くらい、表参道で大丈夫?』いつも通り、余計な飾りのない文章。でも。彼氏。その言葉にはまだ慣れないのに。 会うのが楽しみだと思っている自分には、ちゃんと気づいていた。*休日の表参道は人が多かった。交差点の少し外側。 街路樹の近くに、正人は立っていた。白いシャツ。 濃いネイビーのパンツ。 袖を二回だけ無造作に折っている。休日なのに、姿勢が綺麗だ。通り過ぎる女の人が、一度だけ正人を見る。たぶん、普通にモテる。派手ではないのに目に留まる。 本人がそれを武器にしていないところも、たぶんずるい。けれど今日は、いつもと少し違った。時々スマホを確認しては、人混みへ視線を戻している。あ。緊張してる。そう気づいた瞬間。 正人も私を見つけた。目元が、分かりやすく緩む。「おはよ」「おはよう。待った?」「いや」少しだけ視線が逸れる。「ちょっと早く着いただけ」思わず笑った。「何、その言い方」「待ってた感じ出るの、何か悔しいじゃん」「別に、待ってたでいいじゃん」正人が苦笑する。「彼女のこと待ってた、って?」自分で言って、自分で照れたみたいに笑うから。 今度は私が視線を逸らした。「……慣れない」「俺も」交差点を渡る。昨日までと同じように隣を歩いているだけなのに。 正人の腕や、シャツの袖から覗く時計が、妙に目に入る。今まで見ていなかったわけじゃない。ただ。 意味を持たせていなかっただけなのかもしれない。青山通り沿いの本屋が見えて、私は足を止めた。「ちょっと寄っていい?」「また?」「この前の続き」
「……ちょっとくらい」小さく笑う。でも、その声には、さっきまでの照れとは違う温度があった。「彼女として、距離近くなってもいいのかなって思う」胸が少しだけ跳ねた。風が吹く。髪が揺れる。さっきまでのジャズバーの煙草の匂いが、まだ少しだけ正人に残っていた。その匂いが、妙に近い。少しだけ大人っぽくて。少しだけ、ずるい。私は思わず視線を逸らした。正人が少し苦笑いする。「愛子が嫌なことはしないけど」その声は静かだった。当たり前みたいに言う。でも、その当たり前が胸に触れる。急がない。勝手に踏み込まない。ちゃんと確認する。その丁寧さが、思ったより温かい。そして、ふとよぎる。危機感なさすぎ。翔太に言われた言葉。強引だった距離。急だった熱。考えないようにしていたこと。でも、隣にいる正人は違う。近づきたいと思っていても、ちゃんと止まる。確認する。私が困らないように、先に逃げ道を作る。その距離の作り方に、少しだけ安心する。同時に、その安心がまた少しだけ苦しい。正人を選んだのは、この優しさがあるからだ。そう思いたい。でも、それだけではなくて、私はきっと、正人のこういう丁寧さに救われている。正人が、空気を軽くするみたいに少し笑った。「でも」少し間。今度は少しだけ軽く。「手くらいは握ってもいいでしょ」その言い方は、少しだけずるかった。冗談みたいに聞こえる。でも、ちゃんと聞いてくれている。それでいて、少しだけ本音も見える。私は少し止まった。聞くんだ。ちゃんと。そのことに、少し驚く。そして、少しだけ嬉しい。「……いいよ」小さく答えると、正人が少しだけ目を伏せた。「よかった」本当に小さい声だった。でも、少しだけ安心したみたいだった。なのに、すぐには触れない。少し沈黙がある。二人で歩幅を合わせながら、ゆっくり歩く。何も変わらないみたいに。でも、さっきより少しだけ距離が近い。ふと、指先がかすかに触れる。離れる。また、少しだけ近づく。まるで確かめるみたいに。正人の手が、すぐ隣にある。私は自分の指先が少し冷えていることに気づいた。緊張しているのか、夜風のせいなのか分からない。それから、少し間を置いて。躊躇うように。でも、もう離したくないみたいに。そっと、手を包まれた。
「本当に、何もない?」正人の声は低かった。強いわけではない。責めているわけでもない。でも、さっきまでの柔らかさとは違う、静かな重さがあった。私はグラスを置いたまま、しばらく何も言えなかった。ジャズバーの低い照明。グラスの氷が溶ける音。煙草の残り香。ピアノの音。全部が少し遠くなる。胸の奥に、あの日の記憶がまだ残っていた。翔太の部屋。近すぎた距離。逃げるなら今だと言われた声。触れた唇。私は、その全部を正人に言えていない。だから、本当に何もないのかと聞かれた時、すぐに答えられなかった。でも。今ここで、その記憶を言葉にすることもできなかった。正人と付き合うと決めたばかりで。正人が私を信じようとしてくれているこの夜に。私は、喉の奥に残っている罪悪感を押し込めるようにして、静かに答えた。「……ないよ」声は思ったより小さかった。でも、ちゃんと聞こえたと思う。正人はすぐには返さなかった。グラスに添えていた指を少しだけ動かして、それから、ゆっくり私を見る。その目は、優しかった。優しいのに、少しだけ探っていた。たぶん、私の声が完璧ではなかったことに、気づいている。でも、正人はそこを追わなかった。少しだけ間が空く。その沈黙が、胸に触れる。やがて、正人が小さく息を吐いた。「そっか」こぼれるような声だった。信じる、と決めた人の声に聞こえた。全部を分かったわけではない。完全に安心したわけでもない。でも、今はそれ以上踏み込まない。私がそう答えたなら、そこに立つ。そんな声だった。その大人っぽさが、また胸に痛かった。私は少しだけ視線を落とした。言えなかった。また、ひとつ。言えないものが増えた。正人はそれ以上、その話をしなかった。灰皿の上の煙草は、もう消えていた。彼はグラスの底に残ったカクテルを少しだけ飲んで、店内の奥へ視線を流す。その横顔は、いつも通り落ち着いているように見えた。けれど、さっきまでより少しだけ口数が減った。それは怒っているからではなく、きっと考えているからだった。私も、うまく話せなかった。付き合い始めたばかりなのに。本当なら、もっと浮かれてもいい夜のはずなのに。私たちの間には、甘さと同じくらい、慎重さが残っていた。それでも、正人は最後に店員を呼び、いつものように会計を







