Masukイーサン・タンは朝倉倫子の手から受話器を抜き取った。「桐生さん。仕事先にプライベートな電話をかけてくるのは、いかがなものでしょう。冷遇していた元妻に、今さら泣きつくのはやめてください」『あ……申し訳ない。動揺してしまって、つい……』「患者さんの方が心細い思いをしているでしょうから、付き添ってあげたらいかがでしょう。失礼します」 イーサンは受話器を置いた。 倫子は自分が興奮してしゃべりすぎたことに気付いて、赤面した。 疲れすぎていて、自分のコントロールができなかった。「では、帰りましょうか」 イーサンに促されて、倫子は自分の荷物を持った。「みなさん、お騒がせしました。今の話は、どうか聞かなかったことにしてくださいね」 イーサンは人差し指を唇の前に当て、少しおどけるように言った。 倫子とイーサンが部屋を出ると、ひそひそと言葉が交わされた。「電話をかけてきた人って、桐生智也という名前だったよね」「あの美人女医の旦那さんでしょ。雑誌に出てた。IT関係の社長さん」「美人女医が首席卒業するために、朝倉先生を嵌めたって言ってた?」「そういう内容だったよね」「怖いねぇ」「でも、首席ってどこの大学かが重要じゃん。日本最高峰の大学のトップファイブに敵わないって、ざらにあるだろ。そんな肩書きにこだわられても、笑っちゃうことあるよな」「それは、自分の自慢かな?」「まあね」「そういえば、医師の国家試験を替え玉で他人に受けさせたって噂、あったよね」「本当だったのかな。だとしたら、医療を舐めてるよ。腹立つ」「美人女医の旦那さんが、朝倉先生の元夫? つまり結婚して離婚した?」「人間関係が複雑だなぁ。今の妻と子どもが入院中で、弱音を吐きたくて電話してきた?」「あんな元旦那がいたら、私だって海外の病院に就職して逃げるかも。まあ、語学力と採用されるかっていう問題はあるけど」「ふふ。あのコーディネーターが、がっちがちにガードしてたね」 智也の強引な電話は、倫子を疲れさせただけでなく、美琴への関心を集める結果になった。 *** そうとは知らない智也は、通話が切れたスマートフォンを眺めていた。「やっと本音を言ってくれたな」 智也はそう呟いた。 どんな境遇も黙って受け入れていた元妻。逆らったのは、離婚しようと言ったあのときだけだ。『職場に電話
朝倉倫子は手術を終えて、ぐったりしていた。 機材が古くて視界が少し悪いくらいで、手術自体は普通に執刀できた。 問題は、手術助手の方だ。 打ち合わせのときにプライドを傷つけてしまったのか、もともとの性格なのか。ことあるごとに突っかかってくる。 言っていることは間違いではない。だが、今回は別のやり方の方が適している。それを丁寧に説明するのに疲れた。 相手は純粋な疑問を口にしているわけではなく、揚げ足を取ろうとしているのが伝わってきたからだ。隙を見せまいと神経を張り詰めさせることに、すっかり疲れてしまった。「朝倉先生にお電話が入っています」 着替えて帰ろうとしているところに、電話交換の人から内線が回ってきた。 医療コーディネーター兼護衛のイーサン・タンと合流する前の、ほんの僅かな隙だった。「……はい」 仕方なく電話に出る。この病院では、容易に倫子に取り次がないことという通達が行き届いていないようだ。 元夫の桐生智也だった。 どうして出張先の病院がわかったのだろう。今日の患者か家族がSNSにでも載せたのか。「職場に電話をかけるなんて、非常識です」「倫子が携帯に出てくれないから、仕方ないだろ」 倫子は疲れて、イライラしていた。「下の名前で呼ばないで。結婚しているとき、あなたも電話やメールに返事をしなかったじゃない。お互い様でしょう。私のことだけ責めるのはやめて」 感情的に言い返してしまう。「わ、悪かったよ。だけど、直也が交通事故で入院して、美琴も流産してしまって、どうしていいかわからないんだ」 智也は電話の向こうで、泣き言を言いだした。「……私が流産したと言われたとき、あなたは慰めてくれた?」「いや、だって、あれは本当に妊娠していたわけじゃ……」「……」 つまり智也も、妊娠偽装に協力していたのだ。美琴が首席で卒業するために、倫子を退学させるという浅ましい計画に。 ひどい。 倫子は頭に血がのぼり、周囲に医師や看護師がいることを忘れてしまった。「私の人生を何だと思っているの? 直也に怪我をさせられたときに、あなたは私を心配してくれた? 血が止まらないのに、自分で何とかしろって言ったのよ。 直也も美琴も病院にいるんでしょ? 医師が診てくれているのだから、安心して任せればいいのよ」「
出張した大病院の院長が「こんなに古い設備で、申し訳ない」と頭を下げる。「いいえ。型は古いですが、よく手入れされています。年代的に、私の父が関わった電子顕微鏡かもしれません」 朝倉倫子は冗談めかして笑った。 本当に父が関わった可能性があると思ったわけではない。機械の型式を見てわかるほど、機械に詳しくもない。 ただ、そんなことで恐縮する院長を和ませたかった。「ほう。お父上は設計の仕事をなさっているのですか」「いえ。設計者のサポートがメインだったようです」 亡くなった父は、故郷にある医療関連の会社に務めていた。医療機器の開発部署で、設計者と製造現場の間に立って調整する仕事をしていたそうだ。「では、明日、改めてよろしくお願いします」 祖父くらいの年齢の院長から丁寧に言われて、倫子は気後れした。 横にいたイーサン・タンが、小さくうなずいて退出の合図を出す。「全力を尽くします」 倫子はそう言って、その場を辞すことにした。「海外で働いているということと、『再生の魔術師』の名前が一人歩きしてることで、VIP扱いよ。あんな年上の方に恐縮されてしまうと、居たたまれないわ」 二人は病院の駐車場に向かっている。 この辺りはタクシーが少ないため、レンタカーを借りている。倫子は助手席に座った。 イーサンは運転席で、シートベルトを締める。「うっ……」 イーサンが小さく呻いた。「痛いのね?」「少し、引きつっただけですよ」 イーサンは、逆上したヌール・ファラが倫子に向かってかけた劇薬を、代わりに浴びたのだ。「ホテルに着いたら、診せて」「いえ、結構です」 イーサンははっきりと断った。 倫子は一瞬、傷ついた表情になる。 車の窓からは、水田が見える。稲は空に向けて葉を伸ばし、気持ちよく風に揺れている。 日本らしい景色
桐生直也が目を覚ましたとき、白い天井が見えた。「直也くん。目が覚めたのね」 美琴の声がする。 腕が固定され、身体のあちこちが痛い。「検査では脳に異常は見られなかったけど、気分が悪くなったらすぐに言ってね」 まるで心配しているかのように、優しい声をかけてくる。 病院だから、人目を気にしているのか。そんな、ひねくれた考えが浮かんだ。「……美琴ママが本当のママなら、どうして倫子ママが産んだ子どもって言われてたの?」「それは……いろいろ、事情があるのよ。そういうことは、元気になって退院したら話せばいいでしょ」「嘘つき! そんなの信用できるか」 直也は薄い掛け布団を跳ね上げ、美琴を蹴った。 子どものちょっとした癇癪のつもりだった。 少し暴れたかっただけだ。 けれど、直也の足は美琴の腹を蹴っていた。 美琴はよろめいて点滴スタンドにぶつかり、そのまま床に倒れ込んだ。「きゃっ」 その美琴の身体の上に、ぐらぐら揺れていた点滴スタンドが倒れかかる。 直後、スタンドが美琴の上から転がり落ち、床に衝突してけたたましい金属音を立てた。 直也の腕から点滴の針が抜けて、血が腕を伝う。「や……そんなつもりじゃ……」 直也はベッドから床を眺める。「うう、い、痛い」 美琴はお腹を抱え、起き上がれずに呻いている。 騒がしい音を聞きつけて、看護師が様子を見に来た。「桐生さんの奥さん? どうしました?」 美琴は答えることができない。「ごめんなさい。僕がスタンドを倒してしまって……」 直也は咄嗟に嘘をついた。自分が暴れて母を蹴ったなどと、言えないではないか。 看護師たちが慌てて、ストレッチャーを持って来た。 直也は身体が痛くて、ベッドの上から降りることができない。「あの、ママはどうしたんですか?」「ちょっと検査が必要なの。直也くんはここで休んでいてね。お父さんが戻ってきたら、ナースステーションに声をかけるように伝えてくれる?」 看護師は早口でそう言うと、ストレッチャーを押しながら、病室を出て行った。 直也は罪悪感で青ざめた。「蹴ったのは、まずかったかな。でも、大丈夫だよね」 そんなことを呟いていると、智也が戻って来た。 智也は倫子と電話をした後で、表情が暗かった。 元妻に助けを求めたのに、軽くあし
桐生智也は救急車とパトカーを呼んだ。 相手方は、赤信号で飛び出すのが悪いと責めてくる。 美琴が何事かと様子を見に来た。 直也が事故に遭ったと知り、美琴はオロオロするだけだった。 その姿を見て、本当に医師としての経験がないのだと思い知った。 朝倉倫子と結婚している間に、直也が怪我をしたことがある。彼女は医学生時代の知識しかなかっただろうが、テキパキと様子を観察し、問診をして安心するように声をかけていた。 実に頼もしかった。 救急車には美琴が同乗した。 警察官とやり取りをしてから、智也は路肩に止めたままの車で搬送先の病院へ向かった。 運転しながら、いろいろなことを考えてしまう。 美琴は医師免許を剥奪されるのだろうか。 首席卒業にこだわって、倫子の人生を滅茶苦茶にするなんて、どういう神経をしているんだ。 ああ、倫子に詫びなければ。 ……自分は、罪を犯していない。美琴の策略に協力してしまったが、男女関係のもめ事と言い張れる内容だ。 智也は、美琴のどこを好きだったのか疑問に思ってしまった。 キラキラと輝いて、一緒に並ぶと羨望の眼差しを受けた。いつも堂々としているのに、自分の前では涙ぐみ、頼ってくるのが堪らなかった。 純粋な娘どころか、あんなに腹黒くあざとい女だったとは―― 裏切られた。「……はは」 智也は自嘲した。 息子の直也も、先ほど「裏切られた」と腹を立てていたことを思い出したのだ。 智也は、直也が運ばれた病院に到着した。 受付で教えてもらい、手術を受ける患者たちの家族控え室へ向かった。 美琴は震えて、目元をハンカチで押さえている。「大丈夫か」 美琴の肩を抱くと、智也の胸に顔を寄せてきた。 この仕草に庇護欲が湧くと思っていたな、と他人事のように思った。 美琴によると、直也は様々検査をしてから手術室に運ばれるという。「あなたがいないから、同意書のサイン、私がしたのよ」 責めるような口調が、勘に障った。「君が書いても問題ないだろう」「そ、そうだけど……」 美琴がさりげなくお腹を庇うように手を当てる。 妊婦だったことを思いだし、智也は美琴を椅子に座らせた。 手術中のランプがついたまま昼の時間が過ぎ、智也と美琴は交替で食事をすることにした。 その時間に、智也は倫子にメ
「美琴ママ? 僕を産んだのは倫子ママじゃないの?」 桐生美琴は、直也の問いかけに答えることができなかった。「その話は、後にしよう」 智也が深刻な顔で言う。「なんだよ。嘘ついてたのか?」「うるさいわね。今、それどころじゃないのよ」 美琴はヒステリックに叫んだ。 前方に赤信号が見え、智也は車を止めた。 ガチャリ。バタン。 直也は車から飛び出した。信号で止まっている車の隙間を縫い、歩道を目指して走っていく。「おい、何を……!」「智也。チャイルドロックしてないの?」 美琴が助手席から怒鳴る。「もう、そんな子どもじゃないだろう」 信号が青に変わる。周囲の車が動き出し、智也も前進せざるを得ない。「路肩に止める」 智也はそう言って、少し走行してから車を止めた。「……行ってくる」 美琴がシートベルトを外さないで座っているのを見て、智也は車を降りた。 美琴は人のために動くタイプじゃない。母性本能も、結婚してからは感じない。 倫子は、実子ではないことを知りながら、直也に手をかけていた。本当の母親のように。 だから、直也も生意気なことを言いながら、どこかで本当の母親だと信じていたのだろう。 あのまま、倫子と結婚生活を続けていたらよかったんじゃないか? 初めて、そんな考えが浮かんだ。 倫子を嘘つきだと思い込んで、冷たく接していた。 それが誤解だとわかった今、心から彼女に優しくできそうな気がする。 直也が植え込みのところにしゃがんでいるのが見えた。 智也は大股で近づく。 靴音に直也は顔を上げ、睨みつけてきた。「大人なんか、嘘ばっかりだ!」 直也の目は赤くなり、涙が溢れている。 本当に、なんで美琴の嘘に簡単に騙されてしまったのだろう。虐げられるヒロインを救うヒーローになったような気がしていた。 他の奴らにはできないことだと誇らしく思った。 美琴が妊娠したときに、医師になる夢を諦められないと泣かれた。 すべてが狂いだしたのは、そこから……。 一瞬、直也を疎ましく思った自分に気づき、智也はすぐにその感情を打ち消した。 この子だって、振り回された犠牲者なのだ。「直也。まず、家に帰ってから、話そう」 手を差し伸べたが、直也はその手を弾いた。「パパの嘘つき!」「事情があ







