Share

9-2

Auteur: 海野雫
last update Dernière mise à jour: 2025-09-22 19:00:00

 土曜日の朝、俺は鉛のように重い心で身支度を整えた。

 蓮とは午前十時に駅で待ち合わせることになっている。彼が「見せたい場所」がどこなのか、俺には見当もつかなかった。でも、それが彼にとって特別な意味を持つ場所だということは、メッセージの行間から伝わってきた。

 駅に向かう途中、俺は何度も足を止めそうになった。引き返したい衝動が、波のように押し寄せてくる。携帯を取り出して、「体調が悪いので今日は中止にしてください」とメッセージを送ろうかと、指が何度もスマホの画面を撫でた。

 でも、結局送ることはできなかった。蓮を裏切ることはできない。三年間も俺を想い続けてくれた彼を、傷つけることはできない。俺がどれほど迷っていても、彼の気持ちは本物なのだから。

 駅の改札前で、蓮が待っていた。

 いつもの警備員の制服ではなく、紺色のセーターにベージュのチノパン。休日らしいカジュアルな服装が、彼をより親しみやすく、そして若々しく見せていた。でも、その清々しい笑顔を見た瞬間、俺の胸は息苦しくなるほど締めつけられた。

 こんなにも純粋に俺を想ってくれている人を、俺は裏切ろうとしているのではないか。

「おはようございます」

 蓮の声が、いつもより弾んでいる。今日のデートを心の底から楽しみにしていてくれたのだろう。その気持ちが痛いほど伝わってきて、俺の罪悪感をさらに深くした。

「おはようございます」

 俺は努めて明るい声で返事をした。でも、心の重さは声帯にまで伝わり、どうしても自然な響きにならなかった。

「今日はありがとうございます。楽しみにしていました」

 蓮の瞳が、まるで子どものようにキラキラと輝いている。その純粋さが、俺をさらに苦しめた。俺は彼の期待に応えられるだろうか。この重い心を隠して、一日を過ごすことができるだろうか。

「こちらこそ。どちらへいくんですか?」

「隣の県の小さな町です。電車で一時間ほどかかりますが、大丈夫ですか?」

「ええ、問題ありません」

 俺たちは電車に乗った。休日の朝の電車は空いていて、二人並んで座ることができた。窓の外に流れる景色を眺

Continuez à lire ce livre gratuitement
Scanner le code pour télécharger l'application
Chapitre verrouillé

Latest chapter

  • 離婚から始まる恋   番外編 あの日の笑顔を探して

    第一節:公園の出会い 夜勤明けの空は、いつも俺の心と同じ色をしている。 灰色に染まった雲が重く垂れ込めて、今にも雨が降り出しそうな夕方だった。警備会社の制服を着たまま、俺は川沿いの公園のベンチに腰を下ろした。体の芯まで染み込んだ疲労が、ずしりと肩にのしかかっていた。 橘蓮、28歳。警備員として働き始めて三年目。 毎日、同じ現場を巡回し、同じ内容の報告書を書き、上司からも似たような小言を聞く日々が続いた。気がつくと、心にぽっかりと穴が開いていた。「今日も一日お疲れ様でした」 同僚たちは帰り際にそう声をかけてくれるけれど、俺にはその温かさがどこか遠くに感じられる。家に帰れば、一人きりの部屋でコンビニ弁当を黙々と食べるだけ。テレビをつけても、ニュースの音が虚しく響くだけだった。「何のために生きてるんだろうな」 独り言が口から漏れた。公園には俺以外誰もいない——いや、正確にはいないと思っていた。「ははは、それは確かに面白いね」 突然聞こえた笑い声に、俺は顔を上げた。 声の方向を見ると、五十メートルほど離れたベンチに一人の男性が座っていた。手に本を持ち、携帯電話を耳に当てていた。きっと誰かと通話しているのだろう。 でも、俺の視線を釘付けにしたのは、その人の表情だった。 心の底から楽しそうに笑っているその顔が、夕暮れの薄明かりの中でとても優しく見えた。年は俺より少し上に見える。スーツ姿で、きっと会社員なのだろう。少し乱れた髪と緩んだネクタイが、一日働いた疲れを感じさせる。しかし、その笑顔は疲れをまったく感じさせず、むしろ輝いているようだった。「そうそう、その通り! 君の発想はいつも斬新だよ」 また笑い声が聞こえた。相手に向ける言葉なのに、なぜか俺の胸に響いてくる。その人の笑い方には作り物っぽさがまったくなく、子供のような純粋さと、大人の包容力の両方を感じさせた。 俺は気づけばその人をじっと見つめていた。 この人は誰と話しているんだろう。恋人だろうか、それとも友人だろうか。どんな話をすれば、こんなに楽しそうに笑えるんだろう。 胸の奥にじんわりと温かさが広がった。それは今までに味わったことのない感覚だった。他人の笑顔を見ているだけなのに、なぜか自分の心まで軽くなっていく。まるで凍りついていた感情が、少しずつ溶けていくような——そんな不思議な気持

  • 離婚から始まる恋   12-4

     夕方、仕事を終えて家に帰ると、蓮がすでに来て待っていてくれた。玄関の前に立つ彼の姿を見ただけで、俺の心は喜びで満たされた。「お帰りなさい」 蓮の『お帰りなさい』という言葉が、俺の心に深くしみた。「ただいま」 そう返したとき、本当に家に帰ってきたのだと実感した。もう、一人きりの部屋ではなく、愛する人が待つ場所に帰ってきたのだ。 俺たちは玄関でキスを交わした。一日の疲れが、一瞬で吹き飛んでしまった。 愛する人の唇の感触。それだけで、俺の疲れはすっかり消えた。「今日はどうでしたか?」 蓮の気遣いの言葉に、俺は今日一日のことを話した。仕事の内容、佐伯との会話、心の中で蓮のことを考えていたこと。何ということのない日常の報告だが、蓮は真剣に聞いてくれた。「俺の話も聞いてください」 今度は蓮が今日の出来事を話してくれた。警備の仕事の話、同僚との会話、俺からのメッセージがどんなに嬉しかったか。 俺たちは、こうやってお互いの一日を分かち合うのだ。これこそが、本当のパートナーなのだと実感した。 夕食の支度をしながら、俺たちは自然に会話を続けた。キッチンで料理の準備をする蓮の後ろ姿を見ていると、この情景がこれから続いていくのかと思うと、胸が熱くなった。 食事の後は、一緒にテレビを見ながらくつろいだ。蓮の肩に寄りかかって、彼の体温を感じていると、今日という日が完璧だったと思えた。「こんな日常が続けばいいですね」 俺の呟きに、蓮の手が俺の髪を優しく撫でた。「きっと続きますよ。俺たちが望む限り」「望みます。ずっと」 俺は蓮を見上げた。彼の瞳には、同じ想いが宿っていた。「俺もです。ずっと、藤崎さんと一緒にいたい」 俺たちは再び唇を重ねた。今日という一日を締めくくる、愛情のキス。 ベッドで抱き合いながら、俺は今日一日を振り返った。朝起きてから夜眠るまで、すべての瞬間が愛情に満ちていた。 これが、愛し合うカップルの日常なのだ。これが、本当の幸せな

  • 離婚から始まる恋   12-3

     食事の後、俺たちはソファでテレビを見ながらくつろいだ。蓮の膝を枕にして横になっていると、彼の手が俺の髪を撫でてくれる。その手つきは優しくて、愛情に満ちていた。「こんなに穏やかな時間を過ごすのは、いったいいつ以来でしょうか」 俺の呟きに、蓮の手が一瞬止まった。「美奈さんとのご結婚生活は……大変だったんですね」 蓮の気遣いのある言葉に、俺は胸が痛んだ。「彼女が悪い人だったわけではありません。ただ……愛し合っていなかっただけです」 今振り返ると、美奈との結婚は間違いだったのかもしれない。でも、あの経験があったからこそ、今の蓮との愛の素晴らしさを実感できる。 すべての出来事に意味があったのだと思いたい。「でも、今は違います。心から愛し合える人と出会えました」 俺は身体を起こして、蓮を見つめた。「蓮さん、ありがとう。俺の人生を変えてくれて」 蓮の瞳が潤んだ。「俺の方こそ、ありがとうございます。藤崎さんがいなかったら、俺は一生一人のままだったでしょう」 俺たちは深くキスを交わした。愛情と感謝の気持ちを込めて、心を込めて。 夜が更けても、俺たちは離れたくなかった。ベッドで抱き合いながら、互いの体温を感じ、心臓の鼓動を聞いていた。言葉はいらなかった。ただ、お互いがそこにいることの幸せを噛み締めていた。「明日からは、また仕事ですね」 蓮の言葉に、俺は少し寂しくなった。でも同時に、希望も湧いてきた。「でも、帰る場所ができました」「帰る場所?」「蓮さんのところです。一人の部屋に帰るのではなく、愛する人の元に帰るんです」 蓮の腕が俺をぎゅっと抱きしめた。「俺も同じです。藤崎さんがいてくれるから、毎日が楽しみになります」 蓮の言葉が俺の心に深くしみた。これからの人生が、こんなにも希望に満ちて見える。 愛する人がいる人生。支え合い、愛し合いながら歩んでいく人生。「蓮さん」「はい」

  • 離婚から始まる恋   12-2

    「藤崎さん」「何ですか?」「昨夜のことを後悔していませんか?」 蓮の声には、ほのかな不安がにじんでいた。自然と、俺は彼の顔を見つめてしまった。「どうしてそんなことを?」「男性同士で愛し合うということに、戸惑いを感じているのではないかと思って」 蓮の心配そうな表情を見て、胸が締めつけられる思いだった。彼は、こんなにも自分のことを気遣い、思ってくれているのだと実感した。 「後悔なんて、微塵もありません」 俺は蓮の手を両手で包み込んだ。その手は大きくて、少し冷たくて、でもとても温かかった。「確かに、男性とお付き合いするのは初めてですし、戸惑いもあります。でも……」 俺は蓮の瞳を真っすぐ見つめた。「それ以上に、あなたと一緒にいると心が満たされるんです。こんなに愛されていると実感できるのは、生まれて初めてです」 俺の言葉に、蓮の表情が安堵でふっと和らいだ。「俺も同じです。藤崎さんといると、今まで知らなかった幸せを感じます」 俺たちは自然に唇を重ねた。朝の優しいキス。昨夜の激しいものとは違う、愛情を確かめ合うような穏やかなキス。唇を離すと、蓮が俺の髪を撫でた。「これからのことを、一緒に考えていきましょう」「はい」 現実的な問題はたくさんある。職場の人たちにどう説明するか、住む場所をどうするか、お互いの家族にどう話すか。でも、それらの問題も、蓮と一緒なら乗り越えていける気がした。「まずは……お互いの仕事のことを考えなくてはいけませんね」「そうですね。でも、急ぐ必要はありません。ゆっくりと、一つずつ解決していけばいい」 蓮の落ち着いた声に、俺の不安がすっと和らいだ。この人は、いつも俺の気持ちをわかってくれる。そして、一緒に最善の方法を考えてくれる。 こんなに頼もしいパートナーがいるなんて、俺は本当に幸せ者だ。「蓮さんと出会えて、本当によかった」 俺の心からの言葉に、蓮の表情が愛おしそうに和ら

  • 離婚から始まる恋   第十二章 新しい人生へ

     目を覚ましたとき、最初に感じたのは蓮の体温だった。 俺の身体に密着する彼の腕、規則正しい寝息、そして肌から立ち上る男性的な香り――それらすべてが現実であることを実感させてくれる。昨夜、俺たちは本当に愛し合った。心も身体も、完全に一つになった。 蓮の寝顔を見つめていると、胸の奥が甘く痛んだ。普段のクールな表情からは想像できないほど穏やかで無防備な顔。長いまつげが頬に影を落とし、少し開いた唇からは浅い寝息が漏れている。 こんな表情を見ることができるのは、きっと俺だけ。 その特別感が、俺の心を深く満たしていく。 そっと手を伸ばして、蓮の頬に触れた。ひげがうっすらと生えていて、男性らしい手触りが指先に伝わる。その感触は美奈の柔らかい肌とはまったく異なるけれど、この違いがかえって愛おしく感じられた。 これが俺の選んだ人。俺を選んでくれた人。 蓮がゆっくりと目を開けた。最初はぼんやりしていた瞳が、俺を認めると一気に愛情深い光を湛えた。まるで世界で一番大切なものを見つけたような表情。その眼差しに見つめられると、俺の心臓が甘く跳ねた。「おはようございます、藤崎さん」「おはよう……蓮さん」 初めて下の名前で呼んでみた。その響きが、俺の口の中で蜂蜜のように甘く転がった。昨夜を境に、俺たちの関係は確実に変わったのだ。もう他人行儀な距離感は必要ない。「蓮さん……」 もう一度呼んでみると、まるで最初からそう呼びなれていたみたいに、自然と口から名前がこぼれた。「その呼び方……いいですね」 蓮の表情が嬉しそうに緩んだ。そして、俺の額に軽くキスをした。唇の柔らかい感触が額に残り、愛されているという実感が全身に広がっていく。「昨夜は……ありがとうございました」 蓮の声には、深い感謝の気持ちが込められていた。「俺の方こそ……こんなに幸せにしてくれて」 本当にそう思えた。昨夜の出来事は、俺の人生を大きく変えてくれた。愛とは何か、本当に愛されることがどういうことなのか――そのすべてを感じさせてくれた、大切な体験だっ

  • 離婚から始まる恋   11-4

    「愛しています」 蓮が俺の髪を撫でながら囁いた。その声は、深い愛情に満ちていた。「俺も……愛しています」 俺は蓮の胸に顔を埋めた。彼の心臓の音が、まるで子守唄のように俺を包み込んでくれる。力強くて、優しい鼓動。その音を聞いていると、俺は本当に愛されているのだという実感が湧いてきた。 これこそが本当の愛なのだと、改めて実感した。身体だけでなく、心と心、魂と魂がしっかり繋がっているという深い安心感と幸福感。美奈との結婚生活では、決して手にできなかった充実感を今は感じている。以前の自分は、本当の愛が何なのかも知らず、ただ形だけの関係を続けていただけだった。でも今は違う。蓮の腕の中で、「愛されている」と心から実感することができた。「藤崎さん」 蓮が俺の名前を呼んだ。俺は顔を上げて、彼を見つめた。「ありがとうございます」「何をですか?」「俺を……受け入れてくれて」 蓮の瞳に、深い感謝の気持ちが宿っていた。「俺の方こそ……こんなに幸せにしてくれて、ありがとう」 俺たちは再び唇を重ねた。今度は激しいものではなく、愛情を確かめ合うような、優しいキス。唇を離すと、蓮が俺の額に軽くキスをした。「これからも、ずっと一緒にいてください」「はい……ずっと」 蓮の腕の中で、俺は心から安らいでいた。もう一人ぼっちではない。愛し愛される人がいる。この人と一緒なら、どんな困難も乗り越えていける。そんな確信が、俺の心を満たしていた。 窓の外では、夕日が美しいオレンジ色に街を染めていた。一日が終わろうとしていた。でも、俺たちにとっては終わりではなく、始まりだった。新しい人生の第一歩。「橘さん」「はい」「俺……今まで本当の愛を知らなかったんだと思います」 蓮の手が、俺の頬を優しく撫でた。「俺もです。藤崎さんに出会うまでは」「離婚したとき、もう二度と愛なんて要らないと思っていました。でも……」「でも?」「あなたに出会って、愛

Plus de chapitres
Découvrez et lisez de bons romans gratuitement
Accédez gratuitement à un grand nombre de bons romans sur GoodNovel. Téléchargez les livres que vous aimez et lisez où et quand vous voulez.
Lisez des livres gratuitement sur l'APP
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status