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第61話

Author: 知念夕顔
翌朝。

承平が車に乗り込むと、隆浩は興味深そうに話しかけてきた。「折原社長、今日奥様はどんな朝食を作ってくださったんですか?」

隆浩は自分を百年に一度の逸材だと思っていた。折原社長が二日連続で愛妻の朝食を自慢したので、三日目には自ら話題を振ることで、折原社長が恥ずかしがらずに自慢できると思っていた。

ところが、隆浩は折原社長の称賛を受けたどころか、白い目で睨まれてしまった。

隆浩は困惑した。何か間違ったことを言っただろうか?

昨夜、承平は思わず郁梨にキスをしてしまった。郁梨に近づきたいというこの衝動が何を意味するのか分からなかったが、その時の郁梨はただただ魅力的で、自分の本能に従っただけだった。

郁梨は怒り、承平をビンタした。

郁梨が承平に手を上げるなんて!

承平はその場で怒るべきだった。以前のようにやりたいだけやって、郁梨が許しを乞うまで追い詰め、承平を殴った代償を味わわせるべきだった!

しかし郁梨は泣いた。郁梨の涙を見ることはめったになかった。

郁梨はとても悲しそうに、とても悔しそうに泣いた。まるで承平のしたことが極悪非道であるかのように。一瞬で、怒りも、ビンタしたことへの仕返しをする考えも消え去った。郁梨が喜ぶなら、もう二、三発ビンタされても構わないと思った。

謝りたかったが、郁梨はその機会を与えてくれなかった。郁梨は承平をビンタすると二階へと去り、ドアを閉め完全に外界と遮断した。

当然ながら、今朝は温かいお粥も、台所で忙しく動き回る郁梨の姿も見られなかった。

隆浩は本当に空気が読めない。乗車早々に触れて欲しくない話題を出すなんて。能力はそこそこあるからクビにしていないだけで、でなければこんなアシスタントなんで即クビだ!

承平は隆浩を無視し、静かに目を閉じて休んだ。

承平のアシスタントとして、隆浩は明らかに感じていた。今日の折原社長は特に機嫌が悪い!おかしいなあ。この前朝食を食べて出社した時、折原社長はあんなにも上機嫌だったのに!

まさか……折原社長は今日は朝食なし?

またしても折原夫人を怒らせたのか?

もしや、昨夜折原社長と清香との密会がバレたんじゃないでしょうね?

隆浩も敢えて聞けなかった。このご時世、高給で福利厚生の良い仕事はなかなか見つからないから、ただひたすら慎重に折原社長の機嫌を取るしかなかった。

——

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