立ち尽くしていると、背後から小さな、遠慮がちな咳払いが聞こえた。「あっ……」反射的にそう声が漏れ、私は気まずさから目線を落としたまま立ちすくんでしまう。けれど、すぐ近くに誰かの気配が迫ってきたのがわかった。焦っていて忘れそうになっていたが、尋人に謝らなければ——星ちゃんがあんな失礼なことを言ってしまったことを。私は彼の横顔をチラリと見て、そっと頭を下げた。「弟が……ごめんね。嫌な思い、させて」「いや……」短くそう呟いた尋人は、髪を掻き上げると、唇を噛みしめるようにして何かを思い悩んでいる様子だった。仕事帰りで疲れているところをこんな騒動に巻き込んでしまって、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。「本当に、ごめんね。両親があまり家にいなかったから、星ちゃんが代わりに保護者みたいになっちゃってて……」言い訳じみた説明を口にすると、尋人はふぅっと深く息を吐いた。「謝るのは、俺のほうだよ。弟さんが怒るのも、当然なんだ」「え……?」思いがけない言葉に、私は思わず彼を見つめてしまう。すると、尋人もこちらをまっすぐ見返してきた。「勝手に誤解して……嫌な態度、取ったし。嫉妬……しまくりだったし」少し困ったように眉を寄せ、苦笑しながらそう告げる尋人の声は、どこか照れているようにも聞こえた。——嫉妬?その言葉に、私は思わず目をパチパチと瞬かせる。「弥生が、他の男に声をかけられてるって、勝手に思い込んで。……まだスタートラインにも立ててないのに、もう終わるんじゃないかって思ったら……いてもたってもいられなかった」彼がぼそりと呟いたその声に、胸の奥がきゅうっと締めつけられる。いつも会社で見る彼は、誰にでもフラットで、少しおどけたような笑顔を崩さない。でも今、私の目の前にいる尋人は、そんな余裕の仮面を脱ぎ捨てて——真剣で、誠実だった。信じて、いいのだろうか。「尋人……この間、言ってくれたこと、本当? 私のこと……」勇気を振り絞って問いかけた私を、尋人は熱のこもった眼差しでとらえる。「何度でも言う。弥生が、好きだ」伸ばされた手が、そっと私の頬に触れる。けれど私は思わずビクリと肩をすくめてしまい、彼の手がすぐに離れる。「……ごめん」傷つけたくないという気持ちが伝わるようなその一言に、私は首を振った。違う、そうじゃない。嫌なわけじゃな
自宅に着くまでのタクシーの中、私たちは一言も言葉を交わさなかった。けれど、部屋に入った瞬間、私は堪えきれず口を開いた。「ねえ、どうしてあんなこと言ったの? 昨日、ちゃんと説明したよね?」責めるような私の声にも、星ちゃんは無言のまま、当然のように靴を脱ぎ、そのまま部屋の奥へと入っていく。「ちょっと、星ちゃん!」呼びかけにも振り向かず、星ちゃんは小さく呟いた。「……あんなハイスペックな男だったとはな」それだけ言うと、大きく息を吐きながらようやく私を見た。「なあ、少し冷静になったら?」「なにがよ?」睨むように見返す私に、星ちゃんは一歩近づき、まるで見定めるように視線を落とした。「本当に、あの男が真剣に弥生と結婚したと思ってるのか? 金を狙ってたかもしれないし、体目当てだった可能性だって……」そう言いながら、私の頭の先からつま先まで、値踏みするように視線を滑らせた。「……本当に失礼。そんなに私って魅力ない?」実の弟にまでそんなふうに疑われたら、自信なんて粉々だ。胸の奥がギュッと締めつけられる。すると、玄関の方から声が聞こえた。「そんなことない」——え?驚いて振り向くと、そこには、息を切らせた尋人の姿があった。「尋人……」私だけじゃない。星ちゃんも驚いたように、固まっていた。「たしかに、酒の勢いでプロポーズした俺は馬鹿だったよ。でもな、いきなり現れた男に渡せるほど、軽い気持ちで弥生のこと思ってない。そうじゃなきゃ、誰が結婚まで踏み切るかっての」尋人は、吹っ切れたような表情でそう言いながら、まっすぐ私たちの前まで来た。「弥生、この前言ったよな。俺は本気だって。……だから、もう一度だけ俺を信じて」まっすぐな視線。誤魔化しのない、真剣な目だった。何も言えなくて、私はただ、尋人の顔を見つめるしかできなかった。「……本当に、本気かよ?」少し静かな声で、星ちゃんが尋人に問う。「ああ」尋人は一言だけ、でも迷いなく答えた。その目を見た星ちゃんは、大きく息を吐き出し、やや脱力したように私の方を見た。「……今回は見逃す。でも、次、姉を泣かせたら、俺が絶対に許さないと思ってください」そう言いながら、部屋の隅に置いてあったスーツケースをゴロゴロと引き寄せ、玄関へと向かう。「星ちゃん!」呼びかけると、星ちゃんは振り返らずに言った。
仕事が終わり、きっと——いや、絶対に星ちゃんが外にいる、そんな確信があった私は、そそくさと帰り支度を整えた。営業のメンバーはみんな外回りで、尋人をはじめ誰も事業部にいない。今のうちに会社を出よう。そう思ってエレベーターに乗り、ビルのエントランスを抜けた瞬間、やはりその姿が目に飛び込んできた。——星ちゃん。今日はスリーピーススーツに身を包み、完璧なビジネススタイルで立っていた。そして案の定、うちの会社の受付の女性たちに声をかけられていたが、それを冷たい表情であしらっている。ため息が出そうになる。こんなに格好良くて、スペックも申し分ない弟が、どうして私なんかにそこまで構うのか。幸せになってほしいと願うのが姉心だというのに。私の姿を見つけると、星ちゃんは受付の子たちなど一瞥もせず、まっすぐにこちらへ歩いてきた。「あの、弟なんです」鋭い視線にたじろぐ受付の子たちへ、私は慌ててフォローの言葉を投げると、彼女たちは納得したように小さく会釈して去っていった。「もう少し愛想よくすればいいのに」呆れたように言うと、星ちゃんはすぐさま「今はそんなことどうでもいい」と返してきた。「昨日も言った通り、彼はまだいなかったし、忙しいの」そう告げると、すぐ背後から聞き慣れた声が響いた。「三条?」まさか……。このタイミングで?背筋に冷たいものが走り、眩暈すら覚えた。振り返る間もなく、尋人が後ろから私の肩を軽く抱いた。「なにかあったのかと思った」険しい目つきで星ちゃんを睨みつける尋人。その視線に、星ちゃんが反射的に私の手を強く引いた。「うちの社員になにか?」尋人の低い声に、星ちゃんは鼻で笑いながら口を開く。「“うちの社員”、ね……」その言葉に尋人の表情が変わった。「どういう意味ですか?」彼の声がさらに低くなり、空気が一層張りつめる。——やばい。この状況はマズすぎる。「女を騙すような男なんて、最低だと思いますよ」星ちゃんは完全に喧嘩腰だった。私は焦って星ちゃんの腕を振り解こうとし、尋人にも手を伸ばした。「星ちゃん、やめて……!」昨日も「騙されたんじゃない」と散々説明したはずなのに、星ちゃんの怒りは収まっていない。何を言い出すか分からない、この空気が怖かった。「ねえ、今日は……帰ろう」私は彼の腕を引いて、その場を離れようとする。「帰
「今月の成績も、やっぱり二人がワンツーだったね」ランチを食べながら、佐和子が朝礼で発表された営業成績の話を切り出した。「そだね」場所はビル内にあるカフェテリア。ビュッフェ形式で自由に料理を選べるこの場所は社内でも人気で、外回りがない日は、佐和子と私はよくここで一緒に食事をしている。目の前のチキンソテーを口に運びながら、私も素直に同意する。今回は尋人がオーストラリアの大手雑貨チェーンとの契約を獲得したことで、断トツの一位だった。けれど、宗次郎君が一位になることも珍しくはない。「このまま行くと、どっちかが昇進か転勤か……」佐和子の言葉に、私は返事に迷った。あの日、彼女が宗次郎君との会話を聞いたことも知っていたけれど、あれから佐和子は何も話してこなかったし、私自身も自分のことで精一杯で、彼女のことまで気が回っていなかった。この会社で三十代にして役職につくのは、かなり早い方だ。でも、この二人ならあり得ると誰もが思っている。「転勤……。うち、海外もあるし、それは避けたいんじゃない?」私がそう答えると、佐和子は肩をすくめて小さく笑った。「……あの日、聞いてたの知ってるよね?」「うん」佐和子は少し考えるような素振りを見せ、珍しく言葉を慎重に選びながら話し始めた。「“何考えてるかわからない”って、彼が言ってたでしょ。……なんかね、ずっと私が押して押して気持ちを伝えて、ようやく結婚までこぎつけたようなものだったの」それに同意すべきかは迷った。でも、確かに佐和子は宗次郎君への想いを公言してきたし、彼がその気持ちに流された形だと言われても否定はできないかもしれない。けれど、この間の宗次郎君の様子を見れば、彼がちゃんと佐和子を想っていることは、私には伝わってきた。「結婚してからも……彼が本当は、他の人のことを好きなんじゃないかって思っちゃう。私に同情して結婚してくれたのかもって……」「そんなことあるわけないよ」佐和子の話の途中で、私は思わず言葉を挟んでいた。「だってね、彼から“好き”って、はっきり聞いたことがないの。私が『好き』って言うと、彼はただ『ああ』って……そんな感じで」「え……」予想外の言葉に、私は言葉を失った。穏やかで的確な仕事ぶり、落ち着いた口調と誠実な人柄。教育係をしてくれたからこそ、その有能さと人柄はよく知っている。だからこ
「どうって?」『引っ越した。それだけはありえないでしょ?』——やっぱり、こう言われるよね。私は星弥からの問い詰めを想像していた。けれど、あれこれ言われるのが面倒で、結局事後報告にしてしまっていた。今さら言い訳を繕うように、言葉を並べる。「星ちゃん、忙しいし、海外だし……迷惑かけたくなくて」私の苦しい弁解に、二つ年下の弟・星弥はしばらく無言になった。電話越しの沈黙なのに、背筋がゾワッとする。——やっぱり、怒ってる。両親が自由奔放な分、星弥はそのぶん私を過剰なくらいに心配するようになった。海外赴任の多い仕事なのに、何かあるたびに連絡をくれるのだ。結婚したときも、根掘り葉掘り聞かれたけれど、当時はちょうど星弥が海外にいたことが幸いして、なんとかごまかせた。でも、「離婚したから引っ越した」というメッセージを送ったときから、いつ怒りの電話が来るかと、私はずっとビクビクしていた。……それでも、何とか切り抜けられる。そう思っていた。そう、思っていたのに——「弥生」通話越しの声じゃなかった。私の名前を、背後から呼ぶ生の声に、背中が冷たくなる。エントランスで電話をしていた私は、ぎこちなく振り返った。「……星ちゃん?」スーツケースを引いた弟が、そこに立っていた。まさか、ここまで来ているなんて——。驚きでスマホを落としそうになる。「全部、説明してもらうから」星弥の背は高く、ただでさえ威圧感のあるタイプなのに、今は完全に怒っている。乱れた前髪、急いで来たのがわかる服装、そして睨むような視線——そのすべてに、逃げ場のない圧を感じる。「……すごいタイミング」「ずっと待ってた。あの男が送ってきたときも」——マジか。あの場面まで見られていたなんて。離婚した元夫を見つめていた自分の姿を……。言い訳のしようがない。「と、とりあえず……中、入ろ?」尋人のことで頭がパニックなのに、過保護な弟まで急襲してくるなんて。もう、めまいがしそうだ。鍵を開けて星弥を招き入れると、彼は靴を脱ぐなり私を壁際に追い詰める。——初めての壁ドンが、弟って。くだらないことがよぎったけれど、その目の奥にある怒気に、ゾクリと背筋が凍る。「さっきの男……新しい彼氏か?」「ち、違うってば」咄嗟に否定する。自分でも驚くくらい、反射的だった。「じゃあ誰だよ」睨むように
その後、ふわふわとした気持ちのまま、料理を食べ終えた。せっかくのおいしい食事だったのに、味はあまりわからなかった。今までずっと「好き」という気持ちを隠して、友達として接してきた私。いざ、こうして彼からの好意を受け取ろうとすると、どう振る舞っていいのかまるでわからなくなる。尋人の一つひとつの行動に、挙動不審になってしまう自分が情けない。「弥生、普通でいいよ」手をつないだまま歩いていると、尋人がふっと笑って、そんなふうに言ってきた。その瞳ですら、今までとは違って見えて、私は反射的に視線をそらしてしまう。——しまった、また……。“普通”がどんなだったかすら、もうわからない。「なあ、今度の休み、どこか行こうか」私の様子など気にする素振りも見せず、尋人は穏やかな声で続ける。「何か、買いたいものある?」今までも、買い物に付き合ってもらうことはあった。でもそれは、あくまで“ついで”で、こんなふうに予定を立てて出かけるようなことはなかった。「デートしよう」「……デート?」聞きなれない言葉に、思わずオウム返しにしてしまう。「そう。少しずつでいいから、俺のこと……意識してほしいんだ」もう、意識なんて——とっくにしてる。どうしていいかわからないほどに。佐和子への気持ちが、私の勘違いだったと知っただけでも驚きだったのに。まさか、尋人の“好き”が自分に向けられていたなんて。信じられなくて、戸惑って……そして何より、自分に自信がなかった。——本当に、私でいいの?尋人の今までの恋人たちは、どれも佐和子のような、綺麗で明るく、ハキハキした人ばかりだった。私とは正反対。さっき、「私も尋人のことが好き」と言えなかった一番の理由は——たぶん、自分自身を信じきれなかったから。きっとどこかで、尋人の気持ちを疑っていたのだと思う。——どうして、私なんかを?「どこか行きたいところ、ある?」タクシーを拾おうとしながら、尋人がもう一度聞いてくる。私は答えられずに、ただ彼の横顔を見上げていた。車内でも、尋人はいろいろ話してくれたけれど、私は「うん」と頷くことしかできなかった。こんなぎこちない空気にしたいわけじゃなかったのに。そう思っているうちに、タクシーは私のマンションの前に停まった。「弥生、また会社でな」「……うん」柔らかな笑顔を向けてくれる