LOGINアンナはすでに証拠を万全に揃えており、悠良が逃げられるとは最初から思っていない。声は淡々としているのに、そこにははっきりした威圧が滲んでいた。「つまり、賠償するつもりはないってことでいいのね?」彼女は机の上の分厚い書類の束を軽く叩いた。「法務部はもう訴状を作成済みよ。プロジェクトの横流しに、企業信用の毀損。この二本立てなら、何年か中に入るには十分」悠良は書類の記載を目で追いながら、心がじわじわ沈んでいくのを感じた。ここまで来たら、話し合いで済ませる余地はないと悟る。ポケットの中のUSBメモリーを強く握り込み、指先が白くなる。「そっちがその態度なら、こっちも遠慮しないから」それだけ言うと、会議テーブル脇にあるパソコンに歩み寄り、USBメモリーを差し込む。画面が点き、ひとつだけある動画ファイルを開く。映し出されたのは、アンナがプライベートクラブで取引先と密談している映像。音声も鮮明だ。「損失は全部小林悠良名義にしておいて。6億はもうスイスの口座に移した。プロジェクトが潰れた方が都合いいわ、あの女も目障りだし......」「修正履歴は技術部に偽装させたから、絶対バレない......」室内は一瞬で静まり返った。アンナの表情から自信が音を立てて崩れ落ちる。勢いよく立ち上がり、椅子が後ろに50センチは滑る。「その動画と音声、どこで手に入れた!」「人に知られたくなければ、最初からやらなければいい話」悠良は動画を止め、USBメモリーを引き抜いた。「アンナ、公金横領に証拠捏造で部下を嵌めるとか、これが公になったら社長の椅子どころじゃ済まない。捕まるのは私より先でしょ」法務の二人は顔面蒼白になり、手にしていた書類を落としかけた。アンナは悠良を睨みつけ、胸を大きく上下させながら奥歯を噛みしめる。「......さすがね。本気で私と社長の座を争っただけのことはある」悠良は冷淡な声で返した。「別にあなたと張り合いたいわけじゃない。私が勝手にプロジェクトを動かしたのは確かに悪かったし、今日はその話をどう折り合いつけるか相談しに来た。ただ、そっちが喧嘩腰なら、こっちもやり方は選ばない。私は、自分が負うべき分だけ払うつもり。会社にどれだけの損害が出たかなんて、証拠がない限りは知らないし、背負うつも
しかもその代金も、かなりの額だった。弓月は口を尖らせ、容赦なく悠良を茶化す。「そんなこと言ってるけどさ、普段あの子たちに買ってもらったもん。さんざん食べてきたのは誰だよ?」悠良は一瞬視線をそらし、苛立ったように手を振った。「まあいいでしょう。どうこう言うつもりはないし、弓月が加減わかってるならそれでいい。ありがたくいただくわ」そう言ってさっさとドアを開けて乗り込むと、弓月はくすっと笑った。「はいはい、どうぞ召し上がれ」そのまま車は本社へ向かって走り出した。道中、弓月はサンドイッチを食べている悠良にちらりと目をやる。「で、会社着いたらさ、アンナにどう言い訳するか考えてんの?」悠良はサンドイッチをひとかじりし、弓月が渡した豆乳を飲み込みながら、口をもごもごさせたまま答えた。「全部話すよ。向こうが納得してくれたら話し合いになるし、訴えるとかゴネるとか言うなら......弓月がくれた最終兵器を使ってやるわ」弓月は、その考えなら悪くないと感じた。自分の基準はただひとつ――悠良が損をしないこと。「健闘を祈るよ。もし本気で訴えるってんなら、弁護士の一人や二人つけてやるよ。たださ、おまえもさ、あの手使う前に一言オレに相談しろよ」「相談したら、弓月まで巻き込むことになるでしょ。そしたらもう、私ひとりで詫び入れる話じゃなくなるじゃない」悠良は今となっては、あの時弓月に話さなかったことを逆にありがたく思っている。彼は普段チャラついてるし、ふたりは口が悪くて遠慮もない。でもいざという時、どんな状況でも迷いなく自分の味方になる人間だ。だからこそ、これ以上巻き込みたくなかった。弓月は眉間に深く皺を寄せた。「アンナが一番悠良のこと嫌ってるの、わかってんだろ?前から足引っ張ってきたのに、なんで......いや、もういい。言ってもムダか」そう吐き捨てるように言い、会社の入り口で車を止めた。「先に行け。オレはちょっと遅れて行く。変に勘繰られて、共犯扱いされても面倒だし」「了解」悠良は先に階段を上がり、そのままアンナのオフィスを押し開ける。アンナはオフィスチェアに腰かけ、真っ白でラインのきれいなスーツを着こなし、表情らしい表情はない。だが指先でデスクを一定のリズムで軽く叩いていて、その音はまる
悠良は話を聞きながら、前に葉がずっと「自分は平気だ、もう吹っ切れた」と慰めてくれていたことを思い出した。だが病気や生死の問題に、本当の意味で「吹っ切れる」なんてものはない。今できる唯一の方法は、この問題を一刻も早く解決すること。葉が回復して、病が治ることだけが望みだ。「あとでもう一度なだめてみる。でも葉のほうは、やっぱり寒河江さんにもっと気を配ってもらうしかないよ。私が両方を見るのは無理だから」悠良は、基本的に自分ひとりで物事を処理する能力はあると思っていた。特に問題が積み重なっている時こそ、その力が発揮できると信じていた。けれど今回ばかりは、全部の問題が自分ひとりにのしかかってきている。「こっちは俺に任せて、君はそっちの問題に専念しろ」伶が彼女側の問題さえ片付ければ、悠良もあちらに集中でき、余計な心配をせずに済む。もっと話を続けたかったが、腕時計をちらりと見れば、もうかなり遅い時間だった。「そろそろ休め。イライの件にも執着しすぎるな。どうにもならなかったら人を向かわせる」悠良が自分に過剰なプレッシャーをかけるのではと、伶は気にかけていた。彼女は何事も完璧を目指す性格だからだ。ふたりはそこでようやく安心して電話を切った。悠良は横になってからも、どうやって葉の件を解決するかで頭がいっぱいだった。そのまま考えに沈みつつ、いつの間にか眠りに落ちた。翌日、7時半にアラームをセットしていた。半分ぼんやりしたまま時間を確認し、軽く身支度をして、本社へ向かうつもりで起き上がる。光紀や律樹にも何も言わなかった。これは自分で片付けるべきことで、人を増やしても意味はないと思っていたから。ホテルを出て、入口まで来たところで、見覚えのある車が目に入った。窓が下がり、弓月の端正で整った顔が現れた――ただ、その口元にはどこかひょうひょうとした笑みが浮かんでいる。弓月は助手席をぽんぽんと叩いた。「ユラ~オレの新車の助手席、じっくり堪能させてやるよ」悠良は意外そうに首を傾げた。「なんでここにいるの?」弓月は眉を上げ、車のキーをひらひらさせながら言った。朝の日差しが窓越しに髪に落ち、どこか気だるげな不良じみた雰囲気をまとっている。「どうせ誰かさんは本社に出頭しに行くんだろ?だから専
何という会話だ!自分は今、とんでもない現場を目撃してしまったのかもしれない。寒河江社長といえば雲城の王者、かつては雲城の命脈を握っていた男。まさに天に選ばれた存在だ。その彼が、今や一人の女に完全に骨抜きにされてるなんて。しかもさっきの顔!怒るどころか、むしろ満ち足りた顔で受け止めていたではないか。一体どんな女なら、あの寒河江社長をここまで夢中にさせられるんだ。物音に気づいた伶は、スマホ越しに悠良へ「ちょっと待ってて」と一言告げると、通話は切らずに泰良へ視線を向けた。「書類を」ようやく我に返った泰良は、書類を差し出しつつ、伶が内容に目を通しているタイミングで、こっそりスマホ画面の女を覗こうと横目を動かした──が、その瞬間、伶は何の前触れもなくスマホを伏せて机にトンと叩きつけた。泰良はバツが悪くなって視線を引っ込める。そこまで大事にしてるのか、この女性を。見ることすら許されないとは。伶はペンを指に挟んだまま、書類の上をトントンと叩く。その音だけで、泰良の背中にはじわりと汗がにじむ。「17ページ目だ」しばしの沈黙ののち、エアコンより冷たい声が落ちる。「東エリアのマーケットシェア予測に使ったのは、三年前の消費データだ」ペン先が数字の上を鋭く突く。「北城(ほくじょう)の経済成長が停滞してるとでも?それとも俺の目が節穴だとでも思ってるのか」泰良は声を縮めた。「ですが、向こうは確認済みだと......」「先週出た四半期レポートにはっきり書いてあったはずだ。東エリアの高級機器普及率は前年比12%上昇。それなのにこの提案書では、成長率を5%に設定してる」彼は書類をテーブルの上に押し出す。その端が硬い音を立てて擦れた。「競合に情けをかけてる?それとも、うちを潰したいのか」この資料は泰良が作ったものではない。それでも伶の一言一言は鉄槌のように胸に打ち込まれ、指先が震える。ようやく気づいて資料の末尾をめくると、協力先企業の証明欄に、登録半年以内の会社が二社混ざっていることに気がついた。伶から見れば、白紙に判を押すのと同じことだ。泰良はようやくしぼり出す。「すぐに差し戻して作り直させます」言うが早いか、彼は書類を抱えて逃げるように部屋を出て行った。悠良に
悠良はホテルに戻ると、まず弓月から渡されたUSBメモリーをノートパソコンに差し込み、中身を一通り確認した。中を見た瞬間、驚きと同時に思わず息をのむ。これさえ握っていれば、アンナもそう強くは出られない、そう思えたからだ。当時、アンナがまだ現在のポジションに就く前、悠良に仕掛けた罠は一つや二つじゃない。悠良がどれだけプロジェクトを譲ってきたか、アンナ自身が一番分かっているはずだ。さらに、あの大騒ぎになった案件――製品化直前でトラブル寸前だった件も、もし自分が必死に収めなければ、とっくに地獄を見ていた。すべての責任は本来ならアンナにあるはずだった。なのに彼女は責任を負うどころか、逆に悠良へ押しつけようとした。悠良は、入社当初にアンナからそれなりに助けてもらった恩もあったため、そのときは深追いしなかった。彼女はパソコンの電源を落とし、バスルームでシャワーを浴びた。全身の毛穴が開き、湯船に沈んだ瞬間、張りつめていたものがふっと緩む。風呂から上がりベッドに横になっていると、疲労が少しずつ抜けていき、眠気がじわじわと押し寄せた。そこへ伶からビデオ通話が入る。うつ伏せでベッドに寝転がった悠良は、バスローブ姿で、髪も乾かしたばかりのまま肩に垂らしていた。化粧を落とした顔は透き通るように白く、逆に素朴で清らかな美しさが際立っている。細い体つきに、白く長い脚を気ままに揺らしながら、画面の向こうでまだ仕事をしている伶を見て少し驚いた。「もうこんな時間なのに、まだ仕事中?」「『ちゃんと働け』って言ったのは君だろ」伶は白いシャツ一枚だけで、袖口から覗く手首は筋が通り、指先はペンを握ったまま紙の上を走らせている。悠良は思わず口元をゆるめた。まさか自分が軽く言ったひと言を、彼がここまで素直に受け止めるとは思っていなかった。何しろ伶という男は基本的に自分本位で、やることなすこと、外側の意見ではなく「自分がしたいかどうか」だけで動く人間だ。その口からそう返されたことに、悠良は少なからず意外を覚える。「言いつけを守るなんて珍しいね。帰ったら、ご褒美にオヤツでもあげようか。ユラとかムギがいつも食べてるフリーズドライのやつ、美味しそうだし」伶はその言葉に、ペンを持つ手を一瞬止めた。笑いをこらえたような仕草
しかし悠良は、ここで引き下がるわけにはいかないと分かっていた。覚悟を決めて一歩踏み出す。「イライ先生が故意じゃないのは分かっています。あの器具の金属疲労による亀裂なんて、最先端の検査機でも──」「出て行け!」イライは勢いよく後ずさりし、背後のプランター棚にぶつかった。陶器が砕ける音が派手に響く。「その話はもう聞きたくない!」大門はバン!と閉まり、中からは棚をひっくり返すような騒音が続いた。何かを投げつけているようだ。悠良はその場に立ち尽くし、手にしていた封筒が握りつぶされるほど歪んでいる。律樹が彼女の腕をそっと支えた。「悠良さん、もうやめましょう。今の状態じゃ──」「もう少し待って」悠良は閉ざされた門を見つめ、小さく言った。「ずっと一人でいる人は、少し時間をあげないと落ち着かないかもしれない」三人は門の前で一時間近く立ち続けたが、屋敷の中は終始静まり返ったままだった。陽が移動し、門柱のベルの上を影が滑っていく。悠良は小さく息を吐き、書類の封筒を門の隙間に押し込んだ。「......帰ろう」ホテルに戻る車内では、誰も口を開かなかった。タクシーが街の中心広場を抜ける。噴水の周りを鳩が舞い降りたり飛び立ったりしている。悠良は窓の外を見ながら、ふいに目頭が熱くなるのを感じた。ホテルのロビーに入ると、弓月がフロント近くのソファに腰かけていた。火をつけていない煙草を指に挟み、眉間には深い皺が刻まれている。彼は彼らに気づくとすぐに立ち上がり、早足で近づいてきた。「フロントから聞いた。二時間前に出ていったって。イライのところに行ったんだな?」悠良はわずかに落ち込んだ顔で頷く。その表情を見ただけで、弓月は結果を悟った。「ダメだったか」悠良はまた頷く。「感情的になりすぎてて、会話にならなかった」「そんなことより」弓月は突然、彼女の手首を掴み、人目の少ない柱の陰へ引っ張った。声を限界まで抑えて話す。「おまえが戻ってきたこと、もう本社に知られた」苛立つように頭をかく。「さっきアンナから電話があった。責任追及するってさ。軽くて停職、重ければ......営業機密漏洩で訴えられるかも」律樹と光紀は顔を見合わせて固まった。悠良は逆に冷静になってい