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第5話

Author: ちょうもも
悠良が階段を降りてくると、葉はまだ彼女を待っていた。

彼女の姿を見るなり近づき、手振りで話しかける。

[どうだった?]

「ダメだったわ。噂どおり、まったく取り付く島もない」

それどころか、もう少しで自分のことがバレるところだった。

ドアを開けて出て行こうとしたとき、伶の低い声が耳に入った。

「白川奥様は昔、ご主人のせいで両耳が不自由になったと、聞いたことがある。どうやら、もう治ったようだな」

彼がこの秘密を守ってくれる保証はない。

だが、悠良には分かっていた。

彼に頼んだとしても、伶は絶対に聞き入れてくれない。

葉は申し訳なさそうに眉を下げる。

「ごめんね......役に立てなくて」

「気にしないで。むしろ私の方が迷惑を掛けたよ」

悠良は先ほど伶が部下に言っていた言葉を思い出し、思わず身震いした。

そう言いながらも、葉が呆然と立ち尽くしているのを見て首を傾げた。

悠良は手を振って彼女の前で確認する。

「どうしたの?ぼーっとして」

葉はぎこちなく首を回し、信じられないといった表情で彼女を見つめる。

「私、今手振りしてなかったのに......聞こえてたの?」

悠良は慌てて彼女の口を塞ぎ、小声で言う。

「シー!こっちに来て」

彼女は一連の経緯をざっくりと葉に話した。葉は嬉しさのあまり、手足をバタバタさせた。

「なんで早く言ってくれなかったのよ。私、さっきアホみたいに手振りしてたのに!」

葉は手話もあまり得意ではなかったが、悠良は賢いので、たとえ相手が正式な手話で話していなくても、口の動きから大体の意味を読み取ることができた。

「このことは誰にも言わないで。史弥にも。あと、協力してくれた人にも伝えて。多分あの人、仕事を失うことになる」

悠良の声はどんどん小さくなっていき、伶の言葉も伝えた。

葉はがっくりと肩を落とす。

「終わったわ......寒河江伶って本当に容赦ないんだね。あんたの計画、もうダメかも......」

......

悠良は家に戻ると、史弥が彼女のためにオーダーメイドした超高額のウェディングドレスをすぐに売りに出した。

彼女の中ではもう答えが出ていた。

オアシスプロジェクトを担当できるかどうかに関わらず、これからの人生にはお金が必要だ。

今の彼女はもう小林家の令嬢ではない。

平凡な一般人として生きていくためには、どうしてもお金が要る。

ネットに出品してもすぐには売れないだろうと思っていたが、意外にも三十分後には誰かが即決で超高額で落札してきた。

すぐに入金され、金額は1億円。

口座に入ったその金額を見て、悠良は嬉しそうに眺めながら、このお金をどう使うか思案し始めた。

そのとき、部屋のドアが勢いよく開いた。

史弥が汗を滲ませながら入ってきて、彼女の前に膝をつき、必死に手振りで伝えてくる。

[ウェディングドレスをネットで売ってるのを見たよ。あれは俺が君のためにデザインしたものなんだよ?俺は......何か怒らせるようなことしたかな?]

史弥の目に浮かぶ不安な表情を見て、悠良はかつてはこの目に真実を見抜いてきたと信じていた自分を思い出す。

でも今では、その目に映るのは偽りばかりだった。

彼女は無理に笑みを浮かべて言う。

「別に。ドレスなんてただの物だし。前にも言ったでしょ?孤児院があって、そこに寄付したくて」

史弥は半信半疑な様子。

[本当?オアシスプロジェクトが石川に渡ったから怒ってるんじゃないの?]

悠良は何も気にしていないふりをして、彼の手を軽く叩いた。

「そんなことないわ。玉巳とは同じ学校の仲だったし、助け合うのは当然よ。あんまり深く考えないで」

史弥はそれを聞いて、ほっとしたように表情を緩めた。

[よかった。君は器の大きい人だって信じてた]

[大丈夫だ。このプロジェクト、俺が責任持って見届けるから、問題は起こさせないよ]

悠良はそれを聞いて、思わず笑い出しそうになった。

史弥の目には、自分が大切にしていたものすら、あっさりと手放せるくらい「寛大」な人間に映っていたのだ。

このプロジェクトを彼から取り戻すのはもう無理だ。

だからこそ、悠良は伶に突破口を求めるしかなかった。

ちょうどそのとき、史弥のスマホが鳴った。

彼は画面をちらっと見て、すぐに切ろうとした。

だが、悠良の目にはしっかり映っていた。

発信者は石川玉巳。

彼女の透明感ある顔に、皮肉な笑みが浮かぶ。

「誰から?なんで出ないの?」

史弥はスマホをポケットに戻し、ぎこちなく笑った。

[会社からだよ。でも今は君を機嫌直してもらうほうが大事だから]

彼はそう言いながら、彼女の額に優しくキスをした。

悠良は言う。

「出なよ。大事な用事かもしれないし」

彼は本当は出たかった。

玉巳が何度もかけてくるから。

悠良の頭を軽く撫で、ドアを指さして「電話取ってくる」というジェスチャーをした。

彼女は静かにうなずいた。

彼が出て行くのを見送りながら、悠良の目から光が消えていく。

彼にとっては何気ない一言でも、彼女にとっては命を懸けるほど重要な約束だった。

「俺がいる限り、このプロジェクトは絶対に君に任せる」、そう言ったのは、彼だったはず。

でも今では、「上の判断だから」の一言で、彼女の大切なものを玉巳にあっさりと渡した。

スマホの震動音が思考を引き戻した。

葉からのメッセージだった。

【小耳に挟んだんだけど、今夜のチャリティーオークションに寒河江が招待されてるらしい。本人が来るかは不明だけど】

【彼、こういう場に滅多に顔出さないって聞いたから、もし行くなら運試しって感じかな】

伶が来るかどうかは分からない。

だが、悠良は行くと決めていた。

運が良ければ。

彼女はすぐに返信した。

【情報ありがとう】

その直後、史弥が電話を終えて戻ってきた。

焦ったように彼女の前に膝をつき、言う。

[これから接待があって、一緒にご飯行けないかも。終わったらできるだけ早く......]

「いいよ、仕事優先で。別の日に行こう」

ちょうど良かった。悠良も今夜は別の用事がある。

もし彼が本当に夕食に誘ってきたら、断り方に困るところだった。

史弥は彼女の額にまたキスを落とし、言った。

[ありがとう。今夜のオークションで君が気に入ってたあのブレスレット、俺が落としてくるよ]

「うん、行ってらっしゃい」

悠良はにこやかに答え、そっと彼の接近を避けた。

その手、その口が、玉巳にも触れたと思うだけで吐き気がする。

だが、史弥は悠良の異変にまったく気づかなかった。

まるで彼の心はすでにどこかへ飛んでいってしまったようだった。

無理に引き寄せた愛に甘さはない。

悠良には、そんな腐った果実など必要なかった。

彼が出て行くと、悠良は立ち上がってクローゼットから服を取り出し、軽くメイクをしてすぐに外へ出た。

チャリティーオークションの会場に到着すると、彼女は招待状を取り出した。

以前、ブランドから白川社に招待があったおかげで入場できたが、そうでなければ入り込むのは難しかった。

中に入って一通り探したが、伶の姿は見当たらない。

代わりに目に入ったのは、見慣れた二つのシルエット、史弥と玉巳だった。

玉巳は史弥のネクタイを整えながら、甘い目で彼を見つめていた。

悠良は冷笑する。

これが「接待」?

だが、それより衝撃だったのは次の出来事だった。

給仕が赤いベルベットの箱を史弥に手渡した。

彼はゆっくりとそれを開き、中のものを取り出して、玉巳の手首に自らつけた。

悠良の瞳が揺れる。

足元が鉛のように重くなる。

あのブレスレットは、彼女にとって特別な意味を持つもの。

彼女が初めてデザインした作品。

母の治療費のため、仕方なく売った品だった。

史弥はそのブレスレットがオークションに出たら必ず買い戻すと約束してくれた。

なのに。

あの言葉は、ただのその場しのぎだった。

どんなに「君を愛してる」と言われても、

裏では他の女と熱い視線を交わし、何事もなかったように寄り添っている。

彼女は唇を強く噛みしめ、乱れる呼吸を必死に抑えた。

血が滲んでいることにも気づかない。

彼女の目の前で、玉巳は嬉しそうに笑いながら彼の胸に飛び込んだ。

「ありがとう、史弥!」

その後、玉巳の潤んだ瞳に少しの不安が浮かぶ。

「でも......悠良さんが知ったらきっと......」

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