Share

第6話

Author: ちょうもも
「大丈夫、彼女はそんなに器の小さい人じゃないよ。これは君への入社祝いってことで。悠良は仕事がすごくできる人だから、彼女についていけば、いろいろ学べるはずだ」

史弥の口ぶりは終始、悠良を気遣うものであった。

少し離れたところにいた悠良はその言葉を耳にして、心がすとんと沈んだ。

器の小さい人じゃない?史弥にとって、自分は何もかも譲れる存在なのだ。

プロジェクトも、自分のデザイン作品も、母の遺志さえも。

今や、夫までも譲ってしまった。

鏡を見なくても、自分がどれほど惨めかはわかる。

どうして自分をこんなにもみじめにしてしまったの?

「なるほど。白川奥様がどうして急に仕事の話を言い出したのかと思えば、ご主人に新しい女ができたわけか」

突然、耳元で皮肉めいた男の声が響いた。

悠良は驚いて思わず後ろに下がったが、かかとを滑らせて体勢を崩し、後ろへ倒れ込んだ。

瞳孔が一気に開き、頭の中で様々な可能性がよぎったその瞬間、腰にしっかりとした手が回され、彼女の体を支えた。

その時は、伶にも少しは同情心があるのかと安心した。

しかし次の瞬間、男は唇の端を皮肉っぽく持ち上げ、腰に添えた手をすっと引いた。

悠良は愕然とした。

この男、まさか人をからかっているのか。

とっさのことに、自分でもどこにそんな力が残っていたのか分からなかったが、地面に落ちる直前、彼女は伶のスーツの裾を掴んだ。

男の深い瞳に一瞬驚きが走ったが、仕方なく彼は再び悠良の腰を支え、彼女を引き戻した。

突然胸元に飛び込んできた彼女に、伶は顔色一つ変えずに見下ろす。

しっかりとした胸板に当たり、悠良は思わず眉をひそめた。

彼の瞳は底が見えないほど深く、そこには面白がるような色が浮かんでいた。

「私をクッション代わりにするおつもりで?」

悠良はこの男にどうしても好感が持てなかった。

さっきの悪ふざけもあって、思わず彼を押しのけて距離を取る。

わざとだったなんて、認められるはずがない。

「つい反射的に......すみませんでした」

もしこの男が面白半分でからかってこなければ、あんなヒヤリとすることはなかったのに。

指先をぎゅっと握りしめて、自分に冷静さを保てと言い聞かせる。

オアシスプロジェクトはこの男次第なのだ。

今は、彼が自分の大事な大事なクライアントだと思うしかない!

悠良は深く息を吸い込んで、澄んだ顔に笑顔を浮かべ直した。

「これで信じていただけましたか?私は白川から送り込まれたスパイなんかじゃありません。本気で御社と仕事がしたいだけです」

伶はズボンのポケットに手を入れたまま、けだるそうに答える。

「が、もしこれが君と彼が謀った、私を嵌める罠だったら?」

悠良は唇をきゅっと引き結んだ。

この男、警戒心が強すぎる。

こんな人と結婚する女性は、異性と話すことすらできないのでは?

彼女は忍耐強く笑顔を保ったまま、伶を見つめる。

「そこまでする必要はありませんし、それに寒河江さんほどの方なら、調べるのも一言ですむでしょう?」

玉巳と史弥の過去は、南波大学では誰もが知っている話だ。

少しの沈黙の後、伶がようやく口を開いた。

「はっきりさせておこう。このプロジェクトがLSの手に入ったら、白川史弥はいずれ必ず君にたどり着く。もしそれが外に漏れたら、LSにとっては大騒動になる」

ここで伶はわざとらしく言葉を切り、その高い体を悠良に近づけた。

温かい唇が彼女の丸い耳たぶをかすめ、低く笑う。

「その時には、『君が寒河江社長と結託してる』なんて噂されるかもな。その濡れ衣、背負う覚悟はあるのか?白川奥様」

白川奥様という言葉が一語一語、重くのしかかる。

悠良の体がこわばる。

彼女は、伶の言いたいことが分かった。

今の行動は、自ら火に飛び込んでいるようなものだ。

だが、彼女にとってはこのプロジェクトを仕上げてから去ることが最優先。

その後の評価や噂は、どうでもよかった。

悠良の重たい表情が、徐々に和らぐ。

「それなら寒河江さんにお任せします。商人にとって、プロジェクトで確実に利益が出れば、それで十分でしょう?」

彼女には分かる。

この男は史弥を恐れるようなタイプではない。

伶の中には、恐れ知らずの冷酷さがあるのだ。

伶は視線をそらし、またいつものけだるい雰囲気に戻って彼女に声をかける。

「おい」

悠良は顔を上げた。

「え?」

伶は彼女の頭越しに向こうを見つめながら、からかうような口調で言う。

「君のご主人、こっち見てるみたいだぞ?」

悠良は全身をこわばらせ、ぎこちなく振り返った。

案の定、史弥の視線がまっすぐに彼女を捉えていた。

二人の間に、一瞬の沈黙が走る。

悠良を見つけた時の史弥の目に、一瞬驚きが宿った。

しかし次の瞬間、彼女の隣に立つ伶を見て、表情が曇った。

玉巳は史弥の表情に気づかず、軽やかに近づいて悠良に声をかけた。

[奇遇ですね。悠良さんが来ると分かってたら、私、史弥について来たりしませんでしたよ。あでも、誤解しないでください。私、白川社長に同伴者いなかったから、仕方なく付き添っただけで......]

玉巳はどこか落ち着かない様子で、手を動かしながら説明した。

話すうちに頬が赤くなり、不安そうな目で悠良を見上げる。

悠良は、まるで悪役になったかのような気分だった。

自分がこの子をいじめてるように見える。

そのとき史弥が我に返り、悠良の手を取って言った。

[家でゆっくり休めって言ったじゃないか。なんでわざわざここに......?]

その一言に、彼女は彼の言葉が心配なのか非難なのか分からなくなった。

彼女は表情を変えずに言った。

「前に言った大学の卒業制作よ。今日が撮影初日って聞いたから。史弥は会社のことで忙しいでしょうし、だから自分でタクシーで来たの」

玉巳はそれを聞いて、とっさに手を後ろに隠そうとした。

しかし悠良の視線が彼女の手首をとらえ、驚いたように言った。

「石川さん、そのブレスレット、どうしてあなたがつけているの?」

玉巳は隠す間もなく、悠良に手首を掴まれ、水色のブレスレットが完全に露わになった。

伶は椅子の背にもたれ、腕を組んで余裕の表情で一部始終を眺めていた。

空気が一気に重くなる。

悠良は突然声のトーンを上げて、史弥の顔を見据えた。

「わかった。これってサプライズだったのよね?こっそり落札して、私に驚かせようとしたんでしょ?」

史弥は一瞬戸惑ったが、彼女の言葉に合わせるしかなかった。

[ああ、そうだよ。ちょうど接待のついでに立ち寄って、つけてもらって見てみようと思って。ずっと前からこのブレスレット、気にしてたんだから]

悠良はにこやかに目を細めて笑った。

「ちゃんと覚えててくれたのね。石川さん、わざわざ代わりに試着してくださってありがとうございます。もう大丈夫ですよ」

玉巳の顔が青くなったり白くなったりして、怒りをこらえていたが、悠良が手を差し出すのを見て、仕方なくブレスレットを外した。

しばらく迷ってから、それを悠良の手のひらに置く。

悠良は満足げにそれを自分の手首にはめ、わざと史弥と玉巳の前で軽く揺らしてみせた。

「どう?似合う?」

[とっても似合うよ]史弥はいつものように優しく答えた。

「あれ?寒河江社長じゃないですか?悠良さんが寒河江社長と一緒にいるなんて......うちの会社って、LSとは取引してたっけ?」

ここで玉巳が、ふわりとした声で急に訊ねてきた。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第184話

    悠良の声はまるで氷のように冷たく、それでいて、上に立つ者としての威圧感をにじませていた。「私の記憶が正しければ、会社にははっきりとしたルールがありますよね?上司の陰口を叩くのは禁止されているはず。普段、裏で言ってる分には見逃してましたけど――私の目の前で言うなんて、少し調子に乗りすぎじゃないですか?最近みんなオアシスプロジェクトで儲かったみたいですね。お金の使い道に困ってるってことかしら?だったら、罰金として納めてもらいましょう。それに、全員反省文を一通ずつ書いて、明日の朝、私のデスクに置いてくださいね」葉はその場で興奮し、尊敬の眼差しで悠良を見つめていた。心の中で「スカッとした!」と叫ぶほどだった。これでこそ、悠良!周りの社員たちはまだ事態を飲み込めておらず、呆然とその場に立ち尽くしていた。お互いに顔を見合わせるばかりで、誰一人として声を出そうとしなかった。おそらく彼女たちは忘れていたのだ。悠良は既にディレクターのポジションに復帰していることを。彼女は史弥に退職を申し出たとはいえ、まだ正式な告知はされていない。だからこそ、その立場を利用して、この暇を持て余している連中の口を封じるのも悪くない。ようやく、車内は静けさを取り戻した。他の社員たちは驚きの表情を浮かべたまま、席に戻っていった。悠良は椅子の背もたれに体を預け、顔の緊張も少しほぐれた。ようやく、落ち着いた。葉は満面の笑みで親指を立てながら言った。「悠良、やったね!また我慢するのかと思ってたけど、スッキリしたよ!」悠良は少し口角を上げ、葉の手をぎゅっと握り返した。やがてバスが市内に近づいてきた頃、史弥からメッセージが届いた。【先に本宅に戻ってて。俺もすぐ帰る】悠良は一瞬戸惑ったが、すぐスマホを操作して返信した。【病院で玉巳と一緒にいるんじゃなかったの?】てっきり今夜は帰らないと思っていたから、彼が帰ってくるというなら、自分も帰らないで済むと思っていたのに。史弥からすぐに返信が来た。【医者が、もう特に問題ないって言ってた】悠良は、なぜ彼が急に帰ってくるのか分からなかったが、一瞬考えて納得した。これまでも、彼らは自分に隠れて会ったことはなかった。今さら隠す理由もないのかもしれない。悠良は短

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第183話

    悠良はただおかしくて仕方がなかった。同時に、史弥の演技力にも感心した。彼の演技は、本当に驚くほど上手だった。愛するという感情さえ、演じることができるのだと、初めて知った。予想通り、悠良が史弥の部屋を出てからしばらくして、スマホに通知が届いた。彼女が今日宮へ行くために購入していた航空券がキャンセルされたという知らせだった。さっきまでの笑顔は、目に見えて消え失せた。目尻がわずかに跳ね上がる。この世には本当にこういう人間がいるとは。愛していないくせに、手放す気もない。その日のチームビルディングは、夕方7時頃に無事終了した。賞品を手にした人々は笑顔満面、手にできなかった人は羨望のまなざしを送っていた。悠良は自分のスマホとノートパソコンを受け取り、ノートパソコンを葉に手渡した。葉は新品のノートパソコンを手にし、嬉しさのあまり悠良をぎゅっと抱きしめた。「ありがとう、悠良!悠良みたいな友達がいてくれて、本当に幸せ!」「いいのよ。これで新しいパソコンに変えたんだから、これからはもっと仕事頑張ってね」悠良は、これが葉に会う最後になるかもしれないと思うと、心のどこかで罪悪感と寂しさがこみ上げた。葉は、間違いなく自分のことを心から友人と思ってくれている。なのに、自分は彼女に、もうすぐ雲城を去るとは言えなかった。悠良は感慨深く、そっと葉を抱きしめ返した。「私も、葉みたいな友達がいて本当に良かった」だって、自分と毎日同じベッドで寝ていた男さえ裏切ったのだ。今、自分に残っているのは葉しかいない。一行がバスに乗り込もうとしたそのとき、史弥が悠良を呼び止め、少し離れた場所へ連れて行った。「悠良、先に帰っててくれ。玉巳は今、病院で一人だ。医者は、念のためもう少し経過観察が必要だって言ってる。出血したんだし、もし何か問題があったら、君にも影響が出るかもしれない。だから俺はしばらくここに残って彼女に付き添うよ。問題がないって確認できたらすぐ帰る」彼は悠良の肩を軽く叩きながら、なだめるように言った。「家で待っててくれ」悠良はまったく反対しなかった。「うん。じゃあ、石川さんのことをお願い。私は葉と一緒に先に帰るね」史弥は悠良の頭を撫で、それからバスへと乗り込んでいった。バスに乗

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第182話

    悠良は口元をわずかに引き上げ、何気なく言った。「ちょっと気分転換しようと思って......でも、バレちゃったみたい」「一人で行くつもりだったのか?」史弥はまだ少し疑っている様子だった。悠良「本当は葉を誘おうと思ってたけど、彼女は子どもがいて家を離れられないの」あのとき、賢く先に今日宮(きょうみや)行きのチケットを買っておいてよかった。そうでなければ、今回の嘘をうまくごまかせなかったかもしれない。もともとは、雲城を離れたあとで目くらましに使うつもりだった。史弥に本当に見つからないように。まさかこの切り札を、こんなに早く使わされるとは。史弥の瞳が一瞬光り、悠良をじっと見ながら目を細め、思いもよらぬことを口にした。「俺が一緒に行こうか」悠良は驚いて彼を見た。「一緒に?会社はどうするの?」玉巳にあれだけ監視されていて、史弥が旅行なんて付き合えるはずがない。それに、今は玉巳が妊娠中。彼女のお腹の子より、自分が大事にされるとは到底思えない。「大丈夫、会社には休暇を取るよ。今まで君をちゃんと構ってあげられなかったから。でも悠良、もし何か不満があるなら、まずは話し合おう。玉巳と争う必要なんてない。あの子はまだ若い。彼女のこと、許してあげて。もし今日、病院に間に合わなくて命に関わる事態になってたら、君と彼女の間に挟まれた俺の立場も考えてくれ」悠良の目には冷笑が浮かんだ。彼女の表情は淡々としていて、その視線は史弥の困った顔に静かに注がれていた。「じゃあ、もし今日、本当に石川さんに何かあったら、史弥は警察に、私が押したって言うつもりだった?」史弥の整った顔が一瞬で険しくなった。声にも緊張がにじむ。「悠良、そんな仮定はやめろ。俺は君と玉巳が争うのを見たくないんだ。もう少し、俺の気持ちを理解してくれないか」悠良は心の中で冷たく笑った。またその言葉。彼はいつも、彼のために自分に譲歩させようとするばかりで、自分の立場を一度も考えたことがない。自分が玉巳と何度も揉めても、史弥は一度たりとも自分の味方になってくれなかった。たった一度でもあれば、それだけでよかったのに。悠良は、感情を落ち着かせられるようになっていた。軽く笑って、気楽そうに言った。「ちょっとした冗談よ。そん

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第181話

    この時、史弥はもう玉巳のことに触れる気すらなかった。彼の眼差しは冷たく、目を細めて悠良を上から下までじっと見つめ、強い圧迫感を放っていた。しばらくして、史弥が口を開いた。「航空券を買ってたな。どこへ行くつもりだ?」先ほど廊下である程度心の準備はしていたので、彼にそう問われても、悠良は落ち着いていた。「何のことかしら」史弥は彼女が認めようとしないのを見て、温かい掌で彼女の肩をしっかりと押さえ、しばらく考えてから言った。「最近仕事のことで少し距離ができてしまったのはわかってる。でも、それは故意じゃないんだ。怒ったからって、黙って航空券を買って出て行こうとするなんて、そこまでする必要がないだろ」悠良は顔を上げて彼を見つめた。怒ってもいなければ、騒ぎ立てることもない。その顔は驚くほど冷静だった。「私は怒っていないわ。何か誤解していない?」「玉巳の件、俺の態度が冷たかった。今日も君に手を出してしまったし......すまなかった」史弥は悠良の手を取ろうとしたが、不意に彼女の掌の傷に触れてしまい、悠良は思わず痛みに体を引いた。彼は目を伏せ、ようやく悠良の掌の傷に気づいた。先ほどまで冷たかった声が少し柔らかくなった。「俺が押したときに、つけた傷......?」「平気よ」悠良は身体を引いて、彼の掌から手を引こうとした。「見せてみろ。痛いか?俺が吹いてやるよ」史弥は悠良の手を丁寧に包み、腰を屈めて傷に息を吹きかけた。悠良は彼の黒く乱れた髪を見下ろしながら思った。かつてはこの人にどれほど親しみを感じていたことか。けれど今、目の前にいるのはまるで別人のように感じられる。史弥の温かい吐息が傷口にかかる。その感触は確かに優しかった。でも、痛みのピークはもうとっくに過ぎていた。一番痛かった時、彼女はもう一人で耐え抜いていたのだ。今さらの謝罪と慰めに、何の意味があるというのだろう。悠良は唇をきつく結び、無理やり手を引き抜いた。「本当に大丈夫。ただの擦り傷だから」史弥の墨のように深い瞳は、悠良を心配そうに見つめていた。「しばらくは家でゆっくり休めばいい。玉巳にはもう住む場所を見つけてやった。ここ数日中には引っ越す予定だ」悠良は顔を上げ、しばらくの間声を出せずにいたが

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第180話

    広斗の存在そのものが目障りだった。父親が彼を甘やかしすぎているし、西垣家が雲城で持つ地位や、寒河江家との関係性を考慮しても、本気で彼に何かすることはできない。せいぜい、たまに軽く痛い目に遭わせるくらいが限界だ。誰も彼を抑えられないからこそ、広斗はあれほど傍若無人に振る舞えるのだ。ただ一つ違うのは、他の人間は彼に指一本触れることもできないが、伶だけは、ある程度牽制できる存在だということ。少なくとも、あいつを少しは大人しくさせられる。伊吹は、さきほど悠良が去っていった方向を見つめながら言った。「彼女に説明してもいいんじゃないか?それに白川社の同僚たちだって、お前が事前に連絡して集めたんだろ?」あんな辺鄙な場所、普通は人なんて来ない。伶は最後の一口の煙草を吸い終えると、シャツのネクタイを軽く引っ張って気だるげに言った。「自慢するようなこと、したくないからな」まあ、確かに。伶はそういう男だ。やったことに対して、決して裏で手柄を主張するようなことはしない。たとえ誤解されても黙っている。彼はいつもこう考えている――信じてくれる人は何も言わなくても信じてくれる。信じない人には何を言っても無駄だと。「それで、これからどうするんだ?西垣の件」「西垣、最近けっこう暇そうだろ。前に付き合ってた女たち、何人か妊娠してるんじゃなかったか?」伶は節の目立つ指で煙草をつまみ、灰を軽く弾き飛ばした。伊吹は頷いた。「確かに。あの女たちは彼に責任を取ってほしいって言ってるけど......お前も知ってるだろ?西垣がそんなの応じるはずない」「じゃあ、もっと大事にしてやれ。あの女たち全員を西垣の親父のところに送りつけろ。それと、大学在学中に強引に手を出された女の子たち――彼女たちには腕の良い弁護士をつけて、訴えさせろ」伊吹は聞いているだけで思わずゾッとした。さすがは伶。やると決めたら一気に大ごとに持っていく男。伶は吸い終えた煙草を地面に捨て、黒く艶のあるオーダーメイドの革靴で踏みつけた。そのまま、何事もなかったように優雅にロビーへ戻っていった。――悠良がちょうど史弥の部屋のドアをノックしようとしたその時、葉からメッセージが届いた。【さっきたまたま白川社長の部屋の前を通ったん

  • 離婚カウントダウン、クズ夫の世話なんて誰がするか!   第179話

    もし記憶が正しければ、この周辺にはミルクティーを売っている店なんてないはずだ。水一本買うのにもかなり歩かないといけない場所で、ましてやミルクティーなんて贅沢品があるはずがない。伶は無気力そうな表情で言った。「フロントにいた若い子が、たまたま下で買ってきたらしくて、1杯余ったって。俺の顔がカッコよすぎるからって、くれたんだよ」悠良は、伶の顔が若い女の子たちにどれだけ破壊力があるか疑わなかった。上は四、五十代から、下は十代まで、みんな彼の顔にやられる。毒舌さえなければ、悠良も彼の容姿を天が精巧に作り上げた芸術作品のようだと思うだろう。全身どこを見ても欠点が見当たらない。だが、彼の恋人になる女性は、まず強靭なメンタルが必要だ。もしも甘やかされて育った、繊細な箱入り娘のような女の子だったら、伶が本気を出すまでもなく、軽くからかわれただけで泣き出すに違いない。ちょうどその時、悠良のスマホが震えた。相手は史弥だった。彼女は出なかった。しかしその直後、画面にメッセージが表示された。【どこにいる?】【何か用?】悠良は正直、返信すらしたくなかった。だが最後まで芝居をやり切る必要がある以上、返すしかない。【502号室に来てくれ。少し聞きたいことがある】悠良の心臓がドクンと跳ねた。史弥が突然自分を呼び出すなんて、玉巳の件がまだ片付いていないのか?それとも、また何か彼女が吹き込んだのか?悠良が最も恐れているのは、玉巳のお腹の子に何かあったという可能性だ。そうなれば、史弥は絶対に自分を許さないだろう。ミルクティーを持っていた手が一瞬ぎゅっと締まる。だが、彼女はすぐに気持ちを立て直した。【わかった】メッセージを送り終えると、悠良はブランコから立ち上がった。「寒河江さん、もう用がないなら、私はこれで」そして手に持ったミルクティーを少し掲げて言った。「ミルクティー、ありがとうございます」礼は礼、筋は筋。悠良は公私をはっきり分ける人だった。伶は、細く弱々しい彼女の背中をじっと見ていたが、その一歩一歩は揺るぎなくしっかりしていた。そのとき、どこからともなくひとりの男が現れた。「なあ伶さん、わざわざ俺をこんな遠くに呼び出したのって、この小娘にミルクティー買ってやるた

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status