「いったいどうしたの?」大垣さんが何の理由もなくここまで訪ねてくるような人ではない。大垣さんは周囲を警戒するように見回した。その様子を見て、真奈は言った。「こちらへどうぞ」真奈は高橋に頼んで誰もいない会議室を用意させ、大垣さんの前にお茶を差し出した。「何かあれば、遠慮なく話して」「奥様……浅井さんが……あの人が、冬城家に戻ったんです!」浅井みなみ……?真奈の眉がぴくりと動いた。確かに浅井は、今は出雲と一緒にいるはずだった。どうして、突然冬城家に?真奈は淡々と言った。「大垣さん、私はもう冬城家の奥様ではありません。それはあなたも分かっているはず。冬城とは離婚協議中で、正式な離婚も時間の問題です」「奥様……でも、浅井さんは良い女じゃありません。旦那様は以前、あの人に薬を盛られて……惑わされていたんです!」大垣さんはこの話が決して誇れる内容でないことを理解していたが、今はそれでも言わずにはいられなかった。「私は奥様がご結婚された日からずっと見てきました。奥様の旦那様への想いも、旦那様が今や奥様を必要としていることも。だから……どうしても、浅井みなみのような女が家に入り込んで、冬城家をめちゃくちゃにするのを黙って見ていられないんです」「……あなたは、私と冬城がやり直すことを望んでいるのね」真奈はかすかに笑みを浮かべた。「でも――私は最初から、冬城と一緒になれるような関係じゃなかったのよ」「奥様……」「これからは私を奥様と呼ばないで」真奈は言った。「今日わざわざ来て、知らせてくれてありがとう。浅井は、女主人としては扱いにくい相手よ。もし可能なら、これからは大奥様に仕える方が、きっとあなたにとってもいいと思うわ」大垣さんはため息をつき、うなずいた。人にはそれぞれの運命があり、やはり強いて求めることはできない。すると真奈がふと問いかけた。「でも……浅井が冬城家に戻って、大奥様に会いに行ったのって、やっぱり冬城と結婚するため?」「あっ!」その言葉を口にした途端、大垣さんの顔には怒りがにじんだ。「あの女、家に上がるなり泣きじゃくっておばあさまの足にすがりついて、『あの時は出雲に無理やり連れていかれたんです』とか言い出して、しまいには『今は田沼家の令嬢です』なんて得意げに言って……!あの様子、思い出すだけで吐き
冬城おばあさんは目の前の人物の顔をしっかりと認めた途端、顔色を険しくし、すぐさま浅井を突き放した。「この下賤な女……よくも、ぬけぬけと戻ってこられたものね!」浅井は床に倒れ込んだ。今日はわざと長めのタイトスカートを身につけ、ほんのりと膨らんだお腹を強調していた。案の定、その腹部に視線をやった冬城おばあさんは、表情をいくぶん和らげたが、口調はなおも鋭かった。「私はあんたを粗末に扱った覚えはない。安心して子を育める場所も用意した。それなのに、司の子を宿しながら、他の男の元に走るとは……私の顔に泥を塗る気か!」「大奥様……あの時は私が悪かったんです。でも、あれは無理やりだったんです!」浅井は地にひざまずき、悔い改めるような真摯な眼差しで訴えた。「私は司さんを本当に愛しています。大奥様も、それはご存知のはずです……あの日、出雲家の人たちが突然やってきて、無理やり私を連れ去ったんです!行きたくなかったのに……父の居場所を知っていると言われて、つい……」浅井は涙に濡れた顔で、今にも崩れ落ちそうな声を絞り出した。その姿を見た冬城おばあさんは、ふと眉をひそめて尋ねた。「……それ、本当の話なのか?」「本当です、大奥様」浅井はますます肩を震わせながら続けた。「私が間違ったことをしたのは事実です。でも、小さい頃から父を知らずに育ってきて……ずっと会いたかったんです。どうしても……」冬城おばあさんは、ここ数日の報道で浅井の父が田沼家の会長であることを知っていた。田沼家といえば、海城でも名の通った名家。しかも由緒ある文家の出身で、ここ数年は慈善活動にも積極的。対外的な印象も非常に良い。浅井が、その田沼家に長らく行方不明だった令嬢であると知った今、冬城おばあさんの胸にも、ようやく彼女を許す理由が一つ、加わったのだった。傍らに立っていた大垣さんは、浅井のあまりに見え透いた芝居に眉をひそめ、明らかな不快の色を浮かべていた。――浅井がかつて冬城家でどれだけ傍若無人に振る舞い、自らを奥様と名乗っていたか。冬城おばあさんは知らなくても、大垣さんはすべて見てきたのだ。「出雲家のあの男に脅されていたのなら、自分から私のもとへ来たことを踏まえて、今回は許してやってもいい。ただし……司があんたを許すかどうかは、あんた次第よ」おばあさんはソファに腰を下ろし、慈愛のあ
「八雲からは距離を置いたほうがいいわよ。彼の母親、そう簡単に相手できるような人じゃないから」天城はそう言い残し、スーツケースを引いてその場を去っていった。八雲の母親……もし彼が私生児だとしたら、あの出雲家の当主の愛人ということになるのか……?真奈はしばらく黙って考え込んだ。そしてふと、ひとつの面白い策略を思いついた。冬城家の屋敷。小林が冬城おばあさんの肩を揉みながら、遠慮がちに口を開いた。「司お兄ちゃん、この二日間ずっと帰ってきてませんけど……大奥様、電話してみたらいかがですか?」「まったく、最近はますます言うことを聞かなくなって」冬城おばあさんは小林の手をそっと下ろさせると、落ち着いた声で言った。「今の司の心はすっかり真奈に向いているわ。あなたも何か手を打たないと。もし既成事実を作ってしまえば、彼だって無視できなくなる」「でも……私がそうしたくても……司お兄ちゃんが……」小林は不安げに唇を噛んだ。まだ大学を卒業していない彼女は、清楚で愛らしく、周囲からの評判も悪くない。それでも冬城の態度はずっと素っ気なく、まるで他人を見るような目を向けてくるのだった。「男なんてみんな同じよ」冬城おばあさんは冷たく笑って言った。「やり方さえ間違えなければ、きっと振り向かせられる」「大奥様……どうすればいいんですか?」小林は緊張した面持ちで問いかけた。「方法は私が教えるわ。もし司の子を身ごもることができれば、そのときは必ず冬城家の嫁として迎えてあげる」冬城おばあさんは小林の耳元にそっと何かを囁いた。小林は顔を真っ赤に染め、やがて決意をにじませた瞳で答えた。「ありがとうございます、大奥様。必ず司お兄ちゃんに近づく方法を見つけてみせます」そう言うと、小林は冬城家を後にした。居間では、大垣さんが不思議そうに尋ねた。「大奥様、本当に小林さんを冬城家にお迎えになるおつもりですか?」冬城おばあさんは、冷ややかな笑みを浮かべた。「あんな身分で?あの子を嫁がせたら、世間から笑われるだけよ」「大奥様……」「何かを企んでいるけど、素直さはある。今の司は、真奈一筋。その執着を少しでも逸らすためには、小林の存在が役に立つわ。真奈へのこだわりさえ消えれば、離婚もスムーズにいく。そのあとに誰を娶ろうが、どうでもいい話よ」そう言うと、冬城
高橋は冷ややかな視線を周囲に走らせた。「瀬川に八雲を訪ねさせたのは、私よ。二人が付き合ってるなんて、誰が言い出したの?」「え?」天城はそれが高橋の指示だったとは夢にも思わず、途端に顔色を曇らせた。「でも、さっきの様子は明らかに……」思い返してみれば、真奈と八雲の間には、親しげな仕草も、恋人同士のような雰囲気もなかった。ただ、八雲がこれまで誰かを庇うような態度を見せたことなど一度もなかったからこそ、彼女は勘違いしてしまったのだ。「嫉妬心に駆られて、他人を焚きつけてまで私と八雲が付き合ってるなんて話を広めた。でも――」真奈は静かに、しかし鋭く言葉を続けた。「本当に八雲を独占したかったのは、あなただよね?」「……ふざけないで!」反論しようとした天城を遮るように、真奈の声が重なった。「好きって気持ちがあるなら、ちゃんと認めればよかったのに。それすらできないなんて、そんな想い、たいしたことないんじゃない?八雲があんたに見向きもしないのも、当然だよ」「あなた……」「自分がしたことの責任も取れないくせに、私を貶めて、八雲との関係まででっち上げて……でも考えたことある?もしその嘘が現実になったら、私を排除するだけじゃない、八雲の将来も潰すことになるって。そんな自己中心的な人間に、どうして八雲が惹かれると思うの?」真奈の言葉は、容赦なく天城の胸に突き刺さった。彼女はその場に呆然と立ち尽くし、何ひとつ言い返せなかった。真奈は隣に立つ高橋に向かって静かに言った。「天城のことは、そっちで処理して。清水会長なら、きっと正しい判断をしてくれると思う」高橋は天城を見据えた。「自分で出ていく?それとも誰かに追い出してもらう?」「……自分で行く」天城は無言で高橋の後に従った。それが彼女に残された、最後の体面だった。真奈は何も言わず、ただその様子を見届けていた。「絶対に、父さんに彼女をクビにしてもらうんだから!」もし高橋が規律違反で解雇されれば、契約違反の違約金こそ免除されるが、それまでの研修費や宿舎の費用は自費で賠償する必要があり、最低でも1000万円は下らなかった。その場にいた者たちは、散り散りにその場を後にした。翌朝、真奈が目にしたのは、既に寮の荷物をまとめている天城の姿だった。「こんな有様で、よく今までリーダー面し
「ここは私の席よ……天城!私のご飯に何を入れたの?」清水の顔色がみるみるうちに真っ青になった。練習生にとって、口にするものを誤るのは致命的なミスだった。まさか真奈が、自分が清水の食事に何かを混ぜた証拠を掴んでいるとは夢にも思わなかった天城は、顔を引きつらせた。「瀬川……どうして……」「明後日には番組の収録がある。清水に目立たれるのが怖くて、わざと太らせるために薬を盛ったんでしょ?」清水は呆然と呟いた。「だからか……最近、食欲がやたら出て、食べてなくても太ると思ってたの……ホルモン剤だったのね?天城、あなたって……本当にひどいわね!」映像がここにある。天城にはもはや言い逃れの余地はなかった。真奈は冷静な声で言い放つ。「仲間に薬を盛るようなリーダーこそ、追い出されるべきじゃない?」「あなた……」逆上した天城は、真奈の顔を引っかこうと飛びかかった。だが真奈は一歩、軽やかに身をかわした。ちょうどその時、高橋が駆けつけ、騒然とした場面に眉をひそめて声を張った。「何してるの、夜中に!」「高橋!天城よ!天城が私の食事にホルモン剤を入れたの!私を太らせようとしてる!」清水はそう叫ぶと、勢いよく天城に詰め寄り、その襟を掴んだ。高橋は眉をひそめた。「本当なの?」傍らで真奈はその様子を静かに見ていた。高橋の迫真の演技を見ながら、内心では少しばかり感慨を抱いていた。監視映像を集めたのは高橋だ。この事実を知らないはずがない。「もちろん違うわ!」天城は堂々とした様子で言い返した。「私はただ、清水のご飯に少し栄養素を加えただけ。彼女、普段から食が細いし運動量も多いから、体調崩すんじゃないかって心配で……」しかし真奈はどこか淡々と、むしろ冷ややかに言った。「あなたが最後に薬を仕込んだ時、私はその食事をすり替えておいた。今は厨房で保管してるわ。専門機関に持ち込んで、あなたの栄養素とやらを検査してみる?」「あなた……」嘘が苦手な天城は、完全に言葉を失っていた。まさか真奈が、証拠を残すような用意までしているとは、誰が想像しただろう。「やっぱりね!あなたがそんな親切なわけないと思ってた。栄養素?よくもまあそんなことが言えたわね!」清水は普段から体型と体重には人一倍敏感で、ここ数日は食事も節制していたのに、どうしても体重
「わかった、話題を変えるよ」真奈は迷いなくスマホを取り出した。画面には、かつて八雲が佐藤プロと結んだ電子契約書が映っており、そこにはすでに捺印済みの印影もはっきりと表示されていた。「これ、あなたの契約書でしょ?」「ああ、俺のだ」八雲は画面に目を落とし、自分の署名をはっきりと確認した。当時、母親に勧められて芸能界入りを決め、ようやく見つけた佐藤プロという道を逃すまいと、迷うことなく契約にサインした。しかし、芸能界の闇の深さまでは考えが及ばなかった。八雲はスマホを真奈に返しながら尋ねた。「この契約書、どこで手に入れたんだ?」「逃げたくない?」「逃げる?どこへ?」「出雲はすでにこのプロジェクトに投資してる。佐藤プロでデビューするのは、もうほとんど無理よ」真奈は遠慮なく、最悪の未来を突きつけた。「あなたを待っているのは、終わりのない干され生活。家にそれほど余裕もないだろうし、遅かれ早かれ精神も経済も追い込まれる。そして最後には高額な違約金を払うことになる。もし別の優良な芸能事務所が拾ってくれれば道はあるかもしれないけど、そこから売れるかどうかは、まったくの未知数」「……何が言いたいんだ?」「私は出雲と賭けをしたの。三ヶ月後、このプロジェクトを赤字にしてみせるって」「……なんだって?」八雲は眉を深くひそめた。出雲に損失を出させる?芸能事務所がそんなに甘いわけがない。まして佐藤プロのような大手企業が、簡単にプロジェクトを赤字にさせるなんてこと、あるはずがない。真奈が微笑みながら口を開いた。「昔、あなたとまったく同じ境遇にいた男がいたの。彼は私を信じた。そして今では映画界のトップになった」「……それって、白石新のことか?」真奈は静かに頷くと、少し声を落として言った。「もし本気で抜けるつもりなら、私が道を用意してあげる」「……どんな道?」「違約金は私が払う。ただし、一つだけ条件がある」「……言ってみろ」「男子練習生を全員説得して、私と一緒に出ていってほしいの」その言葉はあまりにも突飛で、まるで冗談のようだった。しかし八雲はしばらくの沈黙ののち、低い声で尋ねた。「どうやってお前を信じろって言うんだ?」「全員の違約金、私が負担する。それに約束する。彼らがデビューすれば、グループでもソロで