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第200話

作者: いくの夏花
遥香は心臓を鷲づかみにされたように息を呑み、すぐさま帳簿を置いて警戒しながら入口へ向かった。

次の瞬間、ドアが外から激しく弾き飛ばされ、よろめく人影が転がり込むように倒れ込み、床にぶつかって埃が舞い上がった。

濃い血の匂いが一瞬にして室内に広がる。

「保さん?」遥香はその顔を認め、思わず声を上げた。

いつも飄々として不敵な笑みを浮かべていた保の姿はそこになく、

高級なスーツは何箇所も裂け、顔も体も血で汚れ、額からは途切れなく血が流れ落ちていた。呼吸は弱々しく、誰が見ても深手を負っていることは明らかだった。

「はやく……扉を……閉めろ……」保は必死に頭を上げ、かすれた声を絞り出した。「追っ手が……来てる……」

その言葉が終わらないうちに、外から雑多な足音と怒鳴り声が響いてきた。

「あいつは?どこへ行きやがった?」

「間違いなくこの店だ!徹底的に探せ!」

遥香は考える暇もなく即座に決断し、意識を失いかけている保を抱え起こすと、半ば引きずるようにして大型の展示用に使っていた空の紫檀のキャビネットへ押し込んだ。

「音を立てないで!」と低く言い残し、すぐに扉を閉める。その足で床に散った血を素早く布で拭き取った。

ちょうどその時、黒い服をまとった男たちが乱暴に店内へなだれ込んできた。先頭に立つのは、陰険な顔立ちに冷酷な眼差しを宿した若い男だった。

遥香には見覚えがあった。――鴨下家の悪名高い庶子、鴨下雄大(かもしたゆうだい)である。

雄大の視線が店内を素早く走り、最後に遥香に止まると、唇に残忍な笑みを浮かべた。「川崎社長、ご無沙汰だね。こんな夜更けまで休まずとは感心だ」

遥香は胸の鼓動を抑え込み、冷ややかに応じた。「雄大様が深夜に押しかけてくるなんて、何のご用でしょうか?」

「人探しだ」雄大は数歩近づき、蛇のような目つきで遥香を値踏みした。「あの出来損ないの従兄、保がここに逃げ込んだはずだ。お前と彼とは随分と懇意だと聞いているが?」

心臓が高鳴るのを必死に隠しながら、遥香は表情ひとつ変えず答えた。「冗談でしょう、雄大様。今夜はずっと棚卸しをしていましたから、保さんの姿など見ていません」

「見ていない?」雄大の笑みはさらに冷え冷えとしたものに変わった。「尾田社長、正直に言うことだ。俺の我慢には限界がある」

遥香は首を振った。「本当に見たことは
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