LOGIN『おはよう』 それは当たり前の言葉のはずなのに、私にとっては特別な想いが込められた合図だった。 高校2年生の朝倉陽菜は、幼馴染の瑞樹翠に長年恋心を抱いている。しかし、翠が交通事故で記憶を失い、陽菜の存在すら忘れてしまう。 さらに「翠の彼女」を名乗る少女が現れ、陽菜の心は揺れ動く。 支えてくれたのは、翠の双子の弟・蓮。彼と「お試し」で付き合い始めるが――。 すれ違う想い、叶えたい願い。 「おはよう」と笑い合える日々を取り戻すための、切なくて甘い青春恋愛ストーリー。
View More「おはよう」
この言葉で今日も一日が始まったと実感する。 私にとって習慣でもあり、おまじないでもあるこの言葉は、私を明るく、前向きにさせてくれる。 いつからだろうか。かつて私を照らしてくれたその言葉も、今では胸の奥に重く沈み、ただ痛みだけを残していく。 高校二年生の四月。八月最初の週末に毎年、近所の神社でお祭りが開かれる。私と蓮と翠、そしてお互いの両親合わせて七人で神社に向かう。慣れない浴衣を身に纏い歩いていると、住宅街に下駄の音が響き渡った。近づくにつれて、太鼓と笛の音が鮮明になる。神社の近くの道には、屋台が多数並んでおり、人で溢れ返っていた。 両親と私たちはいつも別れて行動する。入り口で、おおよその時間だけを伝えて、両親は先にステージのある、境内に入っていった。私たちは両親の背中を見送り、先に屋台の方へ向かう。 「ねぇチュロス食べたい!」 「分かったから走るな。転ぶぞ」 「もう!子どもじゃないんだからそんな心配はいらないよ!」 「気をつけて歩いてね」 「は〜い」 「おい、俺への扱いが違いすぎるぞ」 「えへっ、ごめん」 そんな会話をしながらチュロスの屋台へ向かっていると、前から歩いてきていた大柄な男性とぶつかってしまった。 「わぁ!」 「……っぶね」 大きくよろけたところを、後ろにいた蓮が強い力で支えてくれる。そのまま人の少ない道まで手を引いてくれた。 「大丈夫か?」 「大丈夫だよ。ごめんね」 「いや、謝る必要はねーけど」 そう言って、蓮は顔を背け、こちらに手を差し出した。ほんのり頬が赤くなっている。 「えっ……」 「繋いでおけ。迷子になるぞ」 「あ、ありがとう……」 相変わらず顔を背けたままの蓮の手を握る。チラと横にいる翠を見ると、眉間に小さな皺を寄せ、握られた私たちの手に一瞬だけ視線を向けた気がした。私は不安に感じ首を傾げて声をかける。 「翠……?」 「ん?あぁ、ごめんね。行こっか」 「うん……?」 気のせいだったのだろうか。私に視線を向けたときには微笑んでいて、いつも通りの穏やかな表情をしていた。しかし前を歩く翠はほんの少しだけ早足に感じられた。 焼きそばや人形焼など、いくつかの食べ物を買い、少し外れにある道に出た。 「いや〜歩くだけでクタクタになるね」 「運動不足なんじゃね?」 「浴衣なんだし仕方ないでしょ〜!」 「まぁそれもそうか」 ここで言い返してこない辺り、蓮もだいぶ変わったな、と改めて実感する。私たちが食べた後のゴミを持って、蓮は一人、ゴミ袋のある場所へ向かっていった。 翠と二人になり、妙
夏休みに入って数日間、私はひたすら白い天井を眺めていた。「暇だなー……」 誰もいない部屋に、私の声だけが響いた。立てられた予定も、全て八月に入ってからのため、七月は特になにもすることがないのだ。宿題はあるのだが、まだやる気は起きていない。きっと最後の方に慌てて終わらせるのだろう、と他人事のように考えていた。「……暇すぎる!」 誰に聞かせるわけでもない声が部屋中に響いた。換気のため窓を開けており、部屋中に生ぬるい空気が蔓延している。暑さもやる気のなさの原因だと思い、窓を閉め、部屋の空気を冷やした。冷静になった頭で今後のことを考える。 ――あ、そうだ! 誰かを遊びに誘おうと思い、電話帳を開く。やがて、その名前を見つけ、発信ボタンをタッチした。ワンコールもしないうちに相手が電話に出る。 ――もしもし?「あ、志織!今暇?」『暇だけど……陽菜から電話って珍しいね』「そうなんだよー暇すぎてそろそろ干からびそう」『それはわかる』 電話をかけた相手は親友の志織だった。最近一緒に出かけてないな、と思いつき、連絡をしたのである。「そっちの方に良いお店ない?」『あ、そういえば、陽菜に紹介しようと思ってたお店があったんだ』「ナイス!志織」『少し私の家から離れてるけど平気?』「全然平気!今から志織の家、向かうね」『りょ〜かい』 とんとん拍子で今日の約束を取り決め、準備をして志織の家まで向かう。最寄り駅から二駅のところにある、大きなスーパーの近くに志織は住んでいた。朝九時とは思えない暑さに耐えながら十分ほどの道のりを歩く。そこまで距離は変わらないのに、背景にある緑が少なくて、その違いに目を丸くした。建物に日差しが反射して、思わず目を細める。すると、視界の先にクリーム色の建物が浮かび上がった。 扉の前に立ち、インターホンを押す。少しして、家の中から物音が聞こえた。扉を少し開き、家の主が顔を覗かせる。「遥々お疲れ様〜」「急なのにありがとう」「良いの良いの。ちょうど私も陽菜に会いたかったから」「さぁどうぞ」と扉を押し開け、部屋まで案内してくれる。私とは違う、黒を基調とした部屋に胸が躍った。突然の訪問にも関わらず、整理整頓がされているところに、志織の性格を感じる。 私が部屋をキョロキョロ見ていると、志織が口を開いた。「暑かったでしょ?
次の日の朝、いつも通り準備を終わらせ、インターホンが鳴るのを待っていた。 ピーンポーン。 私を呼ぶ音が家中に響いた。「はーい」「よぉ、準備は終わってるな」「もちろん」 靴を履いてさらに扉を開けると、蓮の後ろに翠が立っていた。「あ!翠も来てくれたんだね!おはよう」「うん。おはよう、陽菜」 少し変わってしまった私たちの会話に少し寂しい思いをしたが、翠と朝から話せているという事実が何よりも嬉しかった。「三人で登校するのは久しぶりだねー」「そうだな」 歩きながらそう話して、事故の前までは翠と二人で登校していたこと、昨日までは蓮と一緒に登校していたことを簡単に伝えた。翠は終始頷きながら話を聞いていた。「そうだったんだね。だから、二人は仲良かったんだ」「仲良い感じあった?」「あったあった」 揶揄っているのではないかと疑問の目を一瞬向けたが、翠に限ってそれはないな、と一人で解決をする。細めた目のまま蓮の方に視線を向けた。蓮は悪い笑みを浮かべて私たちを交互に見ている。私は思わず身構えた。「まぁそれもあるけど、なぁ?」 相変わらず不敵な笑みを浮かべて私に言葉を投げる。何を言いたいのかはその表情で分かった。先手を取られる前に、誤魔化しの言葉を紡ごうとすると、道の内側を歩いている翠に遮られた。「なにかあったの?」「いや……」 無垢な瞳をこちらに向けてきて、思わず左に視線を逸らしてしまう。視線の先にいた蓮が、不自然に口角を上げて告げた。「こいつが泣いてたときに、二人で話したんだよ」「蓮も泣いてたでしょ!」「俺は泣いてねーよ」 きっと蓮は、翠が目を覚ましたあの日の話をしている。あの日泣いていたのは私だけだったが、恥ずかしいので蓮を巻き添えにした。言い合う私たちの隣で、翠は考え込んでいる様子だった。やがて、翠が口を開く。「それってもしかしなくても、俺のことだよね……」 翠の表情を見て、驚きと後悔が入り混じった感情が心に押し寄せた。咄嗟に蓮と目を合わせ、励ましの言葉を紡ぐ。「違……くは、ないけど、翠のせいじゃないよ」「……そう?」 嘘をつきたくなくて、中途半端な言い方をしてしまい、胸がチクリと痛む。蓮の方をそっと見ると、やれやれ、と言わんばかりに首を振っていたが、少し微笑んでいる表情を見て心が軽くなったように感じられた。 それから
今日も蓮と二人、同じ道を歩いて学校に向かう。最近は学校に行くのが少しだけ憂鬱だった。しかし蓮に悟られないように、いつも通りを装う。 下駄箱は男女で分けられており、女子の下駄箱の裏側が男子になっている。私は自分の下駄箱を開けて思わずため息をついた。 ――まただ。 丸められたプリントの切れ端や、悪口の書かれた白い紙。ここ数日、ゴミが入れられていたり教科書が隠されたりと小さな嫌がらせが続いている。原因はきっと、蓮との距離が近くなったことだ。 元々蓮は顔も良くて勉強もできる。だから人一倍モテるけれど、彼は告白されても冷たく突き放す。そのせいで女子に恨まれることも少なくなかった。そしてその流れ弾は決まって私に飛んでくる。 ――悲しいというより、もう呆れるしかない。 今のところ直接的な被害はないため、誰にも相談はしていなかった。蓮や志織に相談すれば、二人が獲物も狙うような目つきになるのが容易に想像できた。 病室で翠にいつもと違う、と言われたのはきっとこれが原因だろう。 それでも笑顔を作りながらいつも通りの生活を続けていた。 今日は蓮と一緒に病院へ向かう。二人でお見舞いに行くのは久しぶりだった。 病室の扉を開けると、ベッドに座り、窓の外を眺めている翠がいた。ゆっくりとこちらに視線を向け、少し目を丸くしたがすぐに目尻を下げ、いつもと同じ穏やかな表情になる。 「ねぇ翠聞いて!」と、子どもみたいに翠にあれこれと話しかける。翠は満面の笑みを私に向けて、「そうなんだね」と頷いていた。花が咲いたような温かい笑顔の翠に対して、私も自然と柔らかい表情になる。 「お前ら親子かよ」 「んなっ、私が子どもだって言いたいの?」 「そりゃそうだろ」 「蓮にだけは言われたくないです〜」 私たちの会話に、「まぁまぁ」と翠が間に入る。 三人でいると家族のような、ほっこりとした空気感があった。 何気ない会話をしていると、突然翠が何かを思い出したかのように、目を見開いて私たちを交互に見た。嫌な予感がし、思わず身体が強張る。すぐに翠の頰が緩み、自然と肩の力が抜けた。目尻を下げ口角を上げた翠は、一度座り直し背筋を伸ばす。ベッドが軋む音がした。 窓の隙間から入り込む風に乗って、心地よい声が耳に伝わる。 「そういえば、明日退院なんだ」 い