ログイン水琴と重人が帰路につこうとした時、琉里が声をかけてきた。彼女は優雅な所作で、一枚の名刺を水琴に差し出す。「水琴さん。これから紗音ちゃんに何かあって、もし灼也に連絡しづらい時は私に言ってね。もう帰国したからどこにも行かないし、私も紗音ちゃんのことがすごく心配なの」水琴は火の粉を押し付けられたような気分で名刺を受け取り、曖昧に微笑むしかなかった。しかし、車を回してきた重人が水琴を助手席に押し込めると、その名刺を奪い取り、琉里へと突き返した。「琉里さん。水琴がそちらに連絡することはありません。紗音さんの件で何かあれば、私から連絡しますので」そう言い捨てると、今度は灼也に鋭い視線を向けた。「ああ、そうだ。先日、紗音さんが発作を起こして包丁を持ち出し、水琴に怪我をさせましてね。治療費と慰謝料を請求させてもらいます。高遠社長ともあろう方が、まさか出し渋ったりはしないでしょう?うちの会社の口座に振り込んでおいてください」「怪我だと?どこを怪我したんだ?」灼也が険しい顔で眉をひそめ、水琴を見つめた。夜気は冷たく、頭上には澄み切った月が懸かっていた。星の瞬きを宿したような灼也の冷たい双眸が、月明かりの下、水琴の細い髪の一筋まで逃さず捉えようとするかのように、鋭く彼女へ注がれていた。「高遠社長が気になさることはありません。これ以上お二人の邪魔をするのも野暮ですので、私たちはこれで」重人は冷たく言い放った。遠ざかる車を、灼也は魂を抜かれたような目で見送った。やがて彼も迎えの車に乗り込むと、琉里も当たり前のように後部座席へ滑り込んでくる。車は高遠グループの本社ビルへと走り出した。道中、琉里はティアラについて一切口にしようとしなかった。どうせ最後には自分に贈られるのだと、絶対の自信があったからだ。彼女はスマホの画面を灼也に向けた。そこに映っていたのは、先ほど送られてきたばかりの、水琴と臣が壁際で見つめ合う写真だった。「ねえ、これ。こうして見ると二人ともすごくお似合いなのに、どうして離婚しちゃったのかしら」琉里はわざとらしく感傷的な声を作り、灼也の耳に入るように呟いた。後部座席に並んで座る灼也は、横目で琉里の顔を冷ややかに見据えた。「知っていて言っているんだろう」「ふふ、もちろん知ってるわ。ただ、もったいないなと思っただけよ」当然だ。彼女は全
「もし遠峰のプロジェクトを私に任せてくれたら最高なんだけどな。そうしたら、仕事でもあなたとずっと一緒にいられるもの」琉里は甘い声で夢想を口にする。灼也はそれには答えず、パドルをテーブルに置いた。彼は今夜の出品目録すら、ろくに目を通していない。彼が唯一意識を向けたのは、琉里が競り落としたあのパープルダイヤだけだった。忘れるはずがない。同じデザイナーが手がけたピンクダイヤを、自分がこの手で競り落としたことを。あのピンクダイヤは、自分が水琴に贈ったのだ。そして今日、重人は彼女のためにパープルダイヤを手に入れようとしたが、琉里に競り負けた。最後から二番目の品は、貴重な掛け軸だった。これは12億円で臣が競り落とした。そして、いよいよ今夜の大トリとなる最後の一品。それは、17世紀の由緒ある異国の王室に代々伝わる『アンティーク・ティアラ』だった。プラチナと純金で精巧に打ち出された台座に、大小四百粒以上のダイヤモンドと希少な宝石が惜しげもなく散りばめられている。司会者の解説によれば、このティアラの歴史的価値と美術的価値は計り知れず、開始価格は20億円。このクラブのオークションであっても、これほど破格の品が出るのは稀だという。開始の合図が鳴った瞬間、価格は瞬く間に倍の40億円に跳ね上がった。ここにいる客で、この品物の価値を見誤る者はいない。数百年は下らない歴史を持つこの王室の宝飾品は、素材そのものの価値を遥かに凌ぐ骨董的価値を秘めている。すでにいくつもの高額商品を落札していた琉里だったが、それでもこのティアラの圧倒的な美しさに魅了されずにはいられなかった。「100億円」彼女がパドルを上げた瞬間、会場にどよめきが走った。博物館に収蔵されている同格の歴史的ティアラが200億円の価値を持つことを考えれば、まだ天井ではないと琉里は踏んでいた。やがて、彼女のつけた100億円に競り合う声が途絶えた。琉里はステージ上で神々しい光を放つティアラを見つめながら、恍惚とした笑みを浮かべた。あれを被って、灼也の元へ嫁ぐのよ……だが次の瞬間、灼也が静かにパドルを掲げた。「300億円」一気に200億円も釣り上げる異常なコールに、司会者すら息を呑んで硬直した。琉里は驚いて口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。灼也がこれを競り落としたとしても、ど
レストルームに逃げ込み、冷たい水で手を洗って、ようやく一握りの理性を引きずり出した。心の中で何度自分に言い聞かせても、先ほど見た灼也と琉里の楽しげな姿が脳裏から離れない。胸の奥でどす黒く渦巻いているのは、紛れもない嫉妬と敗北感だった。どうしていつも、こうなってしまうのだろう。臣の時も。そして、灼也の時も……レストルームを出た水琴は、会場に続く重厚な扉の横の壁に寄りかかり、どうしても中へ戻る気になれなかった。席に着けば、またあの二人の親密な姿を見せつけられることになる。「どうして中に入らないんだ?」不意に声がして、臣が姿を現した。まさかこんな所で彼に声をかけられるとは思わず、水琴は力なく自嘲の笑みをこぼした。「……少し、頭を冷やしていただけよ」「高遠灼也と、何かあったのか?」臣は堪えきれない様子で尋ねた。水琴は静かに首を振る。「見ての通りよ」臣でさえ異変に気づくくらいなのだから、紗夜や雅が気づかないはずがない。「あいつと喧嘩でもしたのか?」臣がさらに踏み込んでくる。水琴は訝しげに彼を見つめ返した。「鷹司さん。あなたには関係のないことでしょう?奥様も中にいらっしゃるのに、こんな所を見られたらまずいわ。また根も葉もない噂を立てられて、指を指されるのはご免よ」臣はバツが悪そうに少し顔を強張らせたが、ポケットからハンカチを取り出して差し出した。「君が傷ついているのは分かる。俺たちは離婚したけれど、友人として力になることならできる。何か必要なことがあったら、俺に電話してくれないか」水琴はそのハンカチを持つ手を冷たく押し返した。「お気遣いなく。私があなたを頼ることは、この先永遠にありません」凍りつくような声で言い放つと、水琴は踵を返し、オークション会場へと戻っていった。水琴の背中を見送りながら、臣は深くため息をついた。自分が今どんな感情を抱いているのか、よく分からない。ただ、どこか夢の中にいるような、ふわふわとした喪失感がある。自分にはもう彼女を気遣う資格などないし、この会場には妻の紗夜も来ているのだ。それなのに、どうしても水琴から目を離せなかった。臣は頭を振り、慌てて会場へと戻った。彼が立ち去った直後、レストルームの個室から一人の影が静かに歩み出た。充血した目で、臣が消えた扉をじっと見つめる紗夜だった。臣は結局、水
そして四品目が登場した瞬間、会場中の女性たちが一斉に息を呑んだ。ダイヤモンド、それも極めて希少なパープルダイヤをあしらったネックレスである。ここに集まる富裕層の女性たちで、カラーダイヤの価値を知らない者はいない。世界最大とされるパープルダイヤが7カラットであるのに対し、この石は6.5カラットを誇っていた。紗夜は目を輝かせてステージを凝視し、雅に至っては完全に目を奪われ、臣の腕を強く揺さぶった。「お兄様!あのダイヤすっごく素敵!ぜったい私に買って!」紗夜はドレスの裾を強く握りしめ、唇を噛む。最前列に座る琉里もまた、そのネックレスに釘付けになっていた。「ねえ灼也、あれ、私にすごく似合うと思わない?」興奮気味に身を乗り出す彼女を見て、灼也は以前のオークションで手に入れたピンクダイヤのネックレスを思い出していた。今回のパープルダイヤも同じ有名デザイナーの手による作品だ。彼は適当に頷き、生返事でやり過ごした。水琴は無意識に自分の首元に触れた。灼也から贈られたあのピンクダイヤのネックレスは、今日は身につけていない。着けてこなくて本当によかった。「こちらのネックレスは、極めて希少なパープルダイヤを使用しております。開始価格は2億円」すかさず重人がパドルを上げた。「4億円」水琴が驚いて隣を見ると、重人は事もなげに微笑んだ。「お前にプレゼントだ」それに続くように、臣がパドルを上げる。「5億円」だが次の瞬間、琉里がパドルを掲げた。「8億円」有名ジュエリーデザイナーのブルーダイヤが五カラットで12億円の値をつけたことを思えば、8億円はまだ高すぎるとは言えない。重人は口角をわずかに上げ、再びパドルを上げた。「10億円」4億から10億への跳ね上がり。これはすでにこのパープルダイヤの市場価値の限界に達しており、これ以上の高値は完全に採算度外視の領域だ。だが、琉里のような人間にとって金額など些末な問題でしかない。彼女は一切の躊躇なくパドルを掲げた。「12億円」「12億だと?音羽家の令嬢はずいぶんと気前がいいな。一気に2億も上乗せするとは」「音羽家の財力なら痛くも痒くもないだろうさ。帰国したばかりで、お祖父様も甘やかしたいんだろう。それに、隣には高遠の三男坊がついてるしな」「ああ、あの二人は幼馴染だっけな。筋金入りのお嬢様
一瞬にして、水琴の顔から血の気が引いた。胸を鋭く抉り取られたような、激しい痛みが走る。「水琴さんですね。初めまして、音羽琉里です。彼らとは幼馴染で、紗音ちゃんのことは妹のように思っているんですよ」琉里は柔らかく微笑み、右手を差し出した。水琴もその手を握り返した。「……お噂はかねがね」「この方が紗音ちゃんのカウンセラーなのね?灼也、あなたとも親しいんでしょう?」琉里は弾むような声で灼也に尋ねた。灼也が視線を上げ、何か口を開くより早く、水琴が冷たく遮った。「琉里さん、私と高遠さんは、そこまで親しい間柄ではありません」水琴は灼也の目をじっと見つめた。その奥に、ほんの少しでもかつての優しさを見出したかった。だが、そこにあるのは凍りつくような冷淡さだけだった。足から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる。背後にいる紗音の存在だけが、辛うじて彼女を支えていた。一方、灼也は両手を固く握りしめていた。今すぐ水琴を抱きしめたい。その衝動を、隣にいる琉里の目を意識することで血が滲むような思いでねじ伏せ、ただそこに立ち尽くしていた。「水琴さん、どうかしたの?お顔の色が悪いけれど」琉里が心配そうに覗き込んでくる。「……大丈夫です」水琴は静かに首を横に振った。「紗音ちゃんのお世話、本当にありがとう。今度、灼也からお礼にお食事でもご馳走させなきゃ。七緒君の作るお料理、すっごく美味しいのよ。そういえば私もずっと食べてないわ。ねえ灼也、今回帰国したんだし、私を連れてってよ。ついでに水琴さんもご招待しましょうよ」灼也は短く頷いた。「ああ」「結構です」水琴は表情を強張らせた。「急ぎの用がありますので」そう言い捨てると、紗音の手を引いて重人のもとへ向かう。用があるというのは建前で、実態は逃走に近いものだった。灼也と琉里が並んで立っている姿など、一秒たりとも見ていたくなかった。今になってようやく、本当の『胸が張り裂ける思い』とは何かが分かった気がした。私はきっと、臣のことなど最初から愛していなかったのだ。そうでなければ、彼と紗夜の関係をあんなにもあっさりと受け入れたのに、灼也のことはこれほどまでに許せないはずがない。あの二人が並ぶ姿は、誰の目にも完璧でお似合いだった。会場に入ってから今に至るまで、周囲の客たちが「素晴らしいカップルだ」「絵に描い
赤地に金色の箔押しが施された招待状を見つめ、水琴は小さく頷いた。確かに、このところ酷く塞ぎ込んでいた。灼也のこと、紗音のこと、そして突然現れたあの幼馴染の女のこと……気づけば暗い感情の渦に呑み込まれそうになる。少し、環境を変えるべきかもしれない。「……紗音ちゃんも連れて行っていい?」「ああ、構わないよ」重人は静かに頷いた。会員制クラブ『アルカディア』。その名や正確な所在地を知る者はごく限られている。南鳥市においてこれほどの神秘性を保ち続けているのは、厳格極まりない会員制度ゆえだ。中でもオークションはこのクラブの最も重要な催しだった。世界中から様々な品が集まるが、その出所を野暮に詮索する者はいない。参加できる会員には明確なランクが設けられており、一人の会員につき同伴できるのは二名までと決められていた。今日、水琴はオークションという場にはおよそそぐわない、ラフな格好をしていた。クローゼットから適当に引っ張り出したワンピースだ。隣を歩く紗音も似たような出立ちで、完璧にスーツを着こなす重人の後ろをついて歩く二人は、明らかに場違いだった。周囲を見渡せば、絢爛豪華なドレスやタキシードに身を包んだ者たちが、競い合うようにその華やかさをひけらかしている。会場のラウンジでは、臣と紗夜が他の客と談笑していた。ふと視線を泳がせた紗夜が真っ先に水琴の姿を見つけ、そのドレスですらない地味なワンピース姿に、心の中で冷笑を浮かべた。傍らにいた雅が、紗夜の耳元でヒソヒソと囁く。「南鳥市じゃ今、音羽家の琉里さんが帰国したって話題で持ちきりよ。灼也様もここ数日、ずっとあの人に付きっきりみたいだし。水琴のあの顔色……絶対捨てられたのよ」紗夜も臣の目を盗み、それに同調する。「水琴さんはバツイチだしね。琉里さんは音羽家の令嬢で、お祖父様から溺愛されて育った本物のお嬢様。高遠家とも代々のお付き合いがあるんだから、水琴さんが敵うはずないわ」雅は隠しきれない嘲笑を浮かべた。「前は灼也様の威を借りて私に嫌がらせしてきたけど、どうせただの火遊びだったのよ。本気で彼女気取りだったなんて、滑稽すぎるわ!」そこへ臣が近づいてくる気配を察知し、紗夜は慌てて雅を制した。「臣さんが来たわ。もうその話はやめて、機嫌を損ねちゃうから」「ふん、とっくに離婚した女のことなの
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ