登入だが、あのレッドアンバーがいくら精巧な彫刻を施されているとはいえ、二十億円なんて本来の価値の倍以上の値段だ。会長がこんなにもあっさりと大金を積んだのは、間違いなく先ほどの仏画の恩を返すため……!水琴の思惑通りに事が運んだことが、腸が煮えくり返るほど口惜しかった。チャリティーオークションの全プログラムが終了し、フレンチのフルコースが運ばれ始めた。宝生会長はこういった喧騒を好まないため、早々に席を立って会場を後にしている。琉里は唇を噛み締めながら、獲物を狙うような目で水琴を睨みつけた。あの数珠を準備したのは重人ではない。水琴だ。彼女の女の勘がそう告げていた。「水琴さんって、本当に抜け目がないのね」冷ややかな声で、琉里が棘のある言葉を投げかける。「あなたが選んだ品が、あんなにも宝生会長の心を掴むなんてね」水琴はカトラリーを手に取ったまま、一切遠慮することなく微笑み返した。「私もそう思いますわ。……琉里さんも、少しは私を見習った方がよろしいんじゃないかしら?」「っ……!」琉里はナイフとフォークを握る手にギリッと力を込めた。「調子に乗らないことね、水琴さん」這いずるような声で吐き捨てる。会長に少しばかり良い印象を与えたからといって、翡翠島の利権を手に入れたわけじゃない。まだ私にもチャンスはある……!食事が半ばに差し掛かった頃。黒服に身を包んだ初老の男が、静沢家のテーブルへと歩み寄ってきた。彼は水琴と重人の側に立つと、恭しく一礼して口を開いた。「水琴様、重人様。……宝生会長が、別室でお待ちです」その言葉に、周囲の空気は一瞬にして凍りついた。会場中の視線が、一斉に水琴たちへと注がれる。琉里の心臓がドクンと嫌な音を立てた。どうして……!?なぜ会長が、静沢の二人だけをわざわざ別室に呼び出すの!?静かに立ち上がり、案内人に従って歩き出す水琴。灼也は、その華奢で毅然とした背中を――誇らしさと、ほんの少しの苦さが入り混じったような、複雑な眼差しで見つめていた。二階に用意されたVIPラウンジ。宝生会長は重厚な革張りのソファーに深く腰掛け、静かに目を閉じていた。「会長」水琴と重人が近づいて声をかけると、彼はゆっくりとまぶたを上げ、短く促した。「座りなさい」無駄な挨拶や建前
ヒュッ、と。紗夜が息を呑む音が聞こえた。いや、彼女だけではない。会場にいる全員が、信じられないものを見るような目でスクリーンを凝視していた。確かに、不純物のないレッドアンバーは希少だ。だが、決して「世界に二つとない幻の宝」というわけではない。金とコネさえあれば、手に入れることは十分可能な代物だ。他の大物たちが用意した歴史的な骨董品と比べれば、どうしても見劣りしてしまう。それなのに、この価格。いくらなんでも、常軌を逸している――!先ほどの重苦しい沈黙から一転して、メインバンケットはハチの巣をつついたような騒ぎになった。参加者たちは、スクリーンに映し出されたレッドアンバーを指差しながら、口々に呆れ声を上げ始めた。「静沢家の連中は頭がおかしくなったのか?あんなただのレッドアンバーに二十億円だと?強盗と変わらんじゃないか!」「チャリティーだというから寄付のつもりで来たが、ただの金蔓になるつもりはないぞ!」「まったくだ。我々を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」……会場に満ちる嘲笑と非難の嵐。臣もまた、目を丸くして呆気に取られていた。その隣で、紗夜がわざとらしく同情するような声をあげる。「臣さん……いくらなんでも、二十億円はやりすぎよね。宝生会長だって、こんな途方もない値段の品は想定されていないはずだわ」臣は眉をひそめ、無言で頷いた。彼も紗夜と同意見だった。あのレッドアンバーが、そんな天文学的な価格で売れるはずがないと。しかし、メインテーブルに座る琉里だけは違った。彼女は血の気を失った顔で、じっと宝生会長の横顔を窺っていた。もし昨日、水琴が「二十億円で出品する」と言っているのを聞いていたら、彼女も間違いなく「気が狂ったのか」と嘲笑っていただろう。だが、今は違う。水琴がどうしてこんな異常な価格設定をしたのか、その真意に恐ろしいほど合点が直感してしまったのだ。先ほど、自分の仏画が引き起こした致命的なミス。あの時、重人が絵を落札したことで、宝生会長の面目は完全に保たれた。静沢家は会長に大きな貸しを作ったのだ。その恩義に報いるため、会長がこの法外な価格のレッドアンバーを競り落とす可能性は――極めて高い。ざわめきが収まらない中、ステージ上のオークショニアが額に汗を滲ませながら解説を始
最終的に、その蓮華は一億八千万円で別の参加者に落札された。ハンマーの音が響いた瞬間、臣は膝の上でギリッと拳を握りしめた。宝生会長の目に留まらなかった。つまり、彼らの今回の目的は完全に失敗に終わったのだ。その後に続いたいくつかの品目でも、宝生会長は一度もパドルを挙げることはなく、すべて他の参加者たちの手に渡っていった。そして、ついに琉里の出品する番がやってきた。コンパニオンが恭しく運んできたのは、細長い桐箱だった。中に入っていたのは一幅の掛け軸。そして非常に特殊なことに、そこに描かれていたのは仏陀の姿だった。スクリーンにその仏画が大写しになった瞬間、宝生会長の指がピクッと動き、無意識にテーブルをトントンと叩き始めた。琉里の口角がゆっくりと上がる。彼女が用意したこの絵は、ただの仏画ではない。宝生会長なら、一目でその仕掛けに気づいたはずだ。一方で、水琴はその絵を食い入るように見つめ、思わず息を呑んだ。琉里さん……いくらなんでも大胆すぎるわ。水琴はすぐに気づいていた。その仏画に描かれている仏陀の顔が、他でもない宝生会長の顔に酷似して描かれていることに。当然ながら、他の参加者たちは誰もパドルを挙げようとしなかった。誰の目にも明らかだ。この絵は琉里が宝生会長のためだけに特注したものであり、ここで競り落とすことは、飛ぶ鳥を落とす勢いの音羽家、そして何より宝生会長の顔に泥を塗る行為に他ならない。水琴がちらりと横目で灼也を見ると、彼の目にも水琴と同じように驚きの色が浮かんでいた。これほどまでに奇抜で恐れ知らずなアイディアは、確かに琉里らしいといえば琉里らしい。だが、彼女はこの盤面で決定的な悪手を打った。仏教を深く信仰する者にとって、仏とは最も尊く、決して冒涜してはならない存在である。みだりに仏陀の顔を書き換えるなど、言語道断だ。しかも、よりによって宝生会長自身の顔を仏にすげ替えるなんて。それは宝生会長を持ち上げるどころか、彼を仏への冒涜という深い罪の淵へ突き落とすに等しい行為だった。オークションの開始が宣言された。だが、誰一人としてパドルを挙げる者はいない。予想外の展開に、琉里の顔に焦りの色が浮かんだ。彼女は縋るような目で宝生会長の横顔を見つめる。どうして?当然、真っ先に会長が落札して
紗夜は臣の腕にベッタリと絡みつきながら、これ見よがしに会場へ足を踏み入れた。有名デザイナーのオートクチュールであろう、ふんわりとしたピンクのチュールドレスに身を包んでいる。彼女はこれ見よがしに、まだ目立たないお腹へとそっと手を当てた。鷹司家の初孫を宿しているという、彼女にとっての最強の盾。水琴に向けるその視線には、明らかな優越感と挑発の色が滲んでいた。「久しぶりね、水琴さん」まるで、かつて水琴を陥れようとした数々の悪行など無かったかのように。紗夜は親しい友人にでも語りかけるような、猫撫で声で微笑みかけてきた。しかし、水琴は冷ややかな一瞥をくれただけで、一言も返すことなく重人と共に着席した。静沢家が案内されたのは、ステージの真ん前――最上座に位置するメインテーブルである。静沢家の権力はトップである高遠家には及ばないものの、臣の鷹司家ごときが座れるような席では決してないのだ。席に落ち着いた途端、エントランス付近で大きなどよめきが起きた。待機していたメディアのカメラマンたちが、獲物を見つけたハイエナのように一斉にフラッシュを焚き始める。眩い光の中心にいたのは――灼也と、琉里だった。最近メディアを騒がせている、財界トップ同士の熱愛疑惑。記者たちがこの絶好のシャッターチャンスを逃すはずもない。そして最悪なことに、灼也と琉里が案内されたのもメインテーブルであり、あろうことか水琴たちの真正面の席だった。「水琴さん、ごきげんよう」優雅に腰を下ろしながら、琉里が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。水琴は表情を崩さず、ふわりと口角だけを上げた。「琉里さんこそ。今日は随分と……楽しそうですね」「ええ、当然でしょう?本日は宝生会長の米寿のお祝いですもの。こんなに賑やかな素晴らしい日なんだから、気分も高揚するというものだわ」琉里の言葉の裏には、隠しきれない野心が透けて見えた。彼女には、絶対の自信があったのだ。今回のオークションのために、海外のルートを駆使して極上の骨董品をわざわざ取り寄せたのだから。これを宝生会長に献上し、確固たる好印象を植え付ければ、翡翠島の利権は音羽グループのものになる――そう確信している顔だった。……っ。水琴は伏し目がちに視線を落とし、膝の上でギュッと拳を握りしめた。目の
鹿耶は彼を直視できず、スッと目を伏せた。「……私たち、何もなかったことにしましょう。あれは全部、ただの誤解だったのよ……」七緒は鼻で冷たく笑い飛ばした。「誤解?アレが誤解だと?……本気でオレを怒らせたいんスか」鹿耶は呆れて言葉を失った。何よそれ。三流のオレ様社長ドラマの真似事?「ちょっと。演技が過剰よ」七緒は氷のような声で言い放つ。「とっととあいつと別れてこい。あの夜のこと、オレは隅から隅までハッキリ覚えてる。きっちり責任、取ってもらうッスよ!」鹿耶はポカンと七緒の顔を見つめ、やがて静かに、だがキッパリと問い返した。「……それで?あんたは結局、何がしたいの?ただ私に彼と別れさせたいだけ?」「……」真っ直ぐに射抜くような鹿耶の瞳に見つめられ、七緒は咄嗟に言葉に詰まってしまった。オレは……当然、ただ別れさせたいだけじゃない。「オレと付き合ってみないか」と、そう言いたかったはずだ。なのに、どうして喉の奥で言葉がつっかえるのか。鹿耶はさらに追及する。「私と付き合いたいの?私のことが好きなの?それとも……ただヤッちゃったから、義理で責任を負うフリをしてるだけ?」七緒は押し黙ったままだった。自分でも、この感情の正体が何なのか、完全に理解しきれていなかったのだ。鹿耶は落胆したように目を逸らし、彼の手をパシッと振り払った。「……疲れたから、もう休むわ」振り返ることなく、エントランスの奥へと消えていく。残された七緒は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。あんなにも衝動的に彼女を追いかけてきたというのに、いざ真正面から向き合うと、情けないほどに躊躇ってしまったのだ。運命の行く手を阻むのは、タイミングの悪さなどではない。いつだって自分自身の躊躇いなのだ――チャリティーオークションを翌日に控えた夜。水琴は、重人の帰宅をリビングで待ち構えていた。「重人お兄ちゃん。明日のオークション、私も連れて行って」その言葉に、重人は目を丸くした。これまで水琴が、静沢家のビジネスに自ら関わろうとしたことなど一度もなかったからだ。「ああ、いいとも。ちょうど出品する品を何にするか、頭を抱えていたところなんだ。一緒に考えてくれるかい?」驚きつつも、重人は嬉しそうに微笑んだ。
「待って!」男が器に口をつけようとした瞬間、異変を察知した鹿耶が止めた。彼女は自分の箸を取り上げ、そのスープの表面をちょんとすくって、そっと舐めてみる。「……しょっぱぁっ!?」鹿耶は悲鳴を上げ、慌ててグラスの水をガブ飲みした。そして、バンッ!とテーブルに箸を叩きつける。「ミコト!七緒くんのやつ、いくらなんでも最低よ!!」怒り心頭の鹿耶を見て、水琴は吹き出しそうになるのを必死に堪えながら男に告げた。「……ごめんなさい、もう飲まなくていいわ」その後、テーブルには次々と料理が運ばれてきたが、七緒は終始、鉄仮面のような完璧な営業スマイルを張り付けたまま、淡々と給仕をこなすだけだった。先ほどまでの感情の爆発が嘘のように、何一つ波風を立てることはなかった。帰りの車内。鹿耶の瞳には、言葉にできないほどの落胆と寂しさが滲んでいた。「ほらね、私の言った通りじゃない。あいつ、私のことなんか好きでもなんでもないのよ」ヤキモチを妬いたんじゃなくて、ただの腹いせであんな子供じみた嫌がらせをしただけなんだわ……すっかりしおれてしまった鹿耶に、水琴は優しく声をかける。「そう焦らないで。……たぶん彼はまだ、自分の気持ちの整理がついていないだけよ。それか、あまりにもショックが大きすぎて思考停止しちゃったのかもね」鹿耶は心ここにあらずといった様子で帰宅した。シャワーを浴びてベッドに潜り込んでも、頭の中をぐるぐると駆け巡るのは、あの夜のバーでの出来事ばかり。スマホの画面に目をやると、時刻はすでに午後十一時を回っていた。目を閉じて無理にでも眠りにつこうとしたその瞬間――不意に、着信音が部屋の静寂を切り裂いた。画面に表示された名前に、心臓が跳ねる。思わずスマホを取り落としそうになった。『坂本七緒』慌てて電話に出ようとしたが、焦りのあまり指先が滑り、あろうことか【通話終了】のアイコンをタップしてしまった。ツーツーという無機質な電子音に、ヒュッと息を呑む。だが直後、再び着信音が鳴り響いた。今度は慎重に、恐る恐る通話ボタンをスライドさせる。「……何してたんスか」「な、何も……別に、何もしてないわよ」電話越しの声は、いつになく焦燥に駆られ、切羽詰まっているように聞こえた。「……下、降りてきてくださいッ
そして、呆然と立ち尽くす雅を視界の端に留めながら、スーツケースのハンドルを握りしめると、一度も振り返ることなく、その家を後にした。鷹司家の重々しい門を抜けると、一台の真っ赤なオープンカーが目に飛び込んできた。運転席から、親友の鹿耶が身を乗り出し、サングラスを額に押し上げながら、芝居がかった投げキスをよこす。「お姫様、ご乗車を。鹿耶様が、最高の祝賀会に連れてってあげる」祝賀会とは言ったものの、離婚したばかりの水琴の心情を慮ってか、鹿耶が連れて行ってくれたのは、落ち着いたジャズが流れる隠れ家のようなミュージックバーだった。離婚の経緯を話すと、鹿耶は呆れ返ったようにグラスを置いた。「また
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し