Share

第6話

Author: 風待 栞
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」

宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかった。臣よ、水琴はお前のために、その全てを捧げたのだ。対して、あの女は?ただお前に汁物を一杯よそっただけだ。それだけで、お前は心を動かされたとでも言うのか」

その言葉一つ一つが、臣の胸に突き刺さる。彼は知らぬ間に、拳を固く握りしめていた。瞳の奥で、墨を流したような暗い感情が渦巻いている。

水琴は、その夜鷹司家で交わされた会話を、何も知らなかった。ただ、久しぶりに、深く安らかな眠りに落ちた。

翌朝、八時半。水琴は、離婚届の提出について、臣に電話をかけた。

「臣さん。ご都合がよろしければ、九時に役所へお越しいただけますか。私、もう向かっておりますので」

電話の向こうで、臣は一瞬黙り込んだ。そして、感情の読めない声で答える。「悪いが、これから会議だ。時間がない。二、三日後にまた連絡する」

言うだけ言うと、電話は一方的に切られた。

水琴は一瞬、呆然とした。昨日、念を押しておいたはずなのに。

――まあ、いいわ。水琴は小さくため息をつくと、電話をかけ直すのをやめた。多忙な御仁の仕事が終わるのを、もう少しだけ待ってやろう、と。

役所からの帰り道、途方に暮れていた水琴は、ふと昨夜の鹿耶との会話を思い出した。恩師である蓮見教授のことだ。水琴はすぐに電話をかけ、これから見舞いに伺いたいと告げた。

蓮見の自宅へ着くと、使用人が書斎へと通してくれた。

しかし、ドアに手をかけるより先に、中から教授の声が漏れ聞こえてくる。「灼也くん、君の妹さんの件だが……残念ながら、私では力不足だよ。心理療法というものはとにかく時間がかかる。途中で投げ出すのが一番良くないんだ。今の私の身体では、最後まで責任を持つことが難しい」

水琴は思わず足を止めた。すると、低く、落ち着いた声がそれに答える。「先生のお身体が第一です。……もし適任の方がいらっしゃれば、お手数ですが、ご紹介いただければと」

蓮見が頷こうとした、その時だった。コンコン、と使用人がドアをノックし、静かに扉を開ける。「先生、静沢さまがお見えになりました」

「おお、水琴くんか。早く入りなさい」

蓮見の喜色を含んだ声に促され、水琴は顔を上げた。そして、そこでようやく、先ほどの声の主の顔をはっきりと目にすることができた。

妖艶さと理性が、絶妙な均衡で混じり合っている。

目を奪われるほどの容姿だった。

彫りの深い、精緻な顔立ち。その昏い色合いの瞳は、どこか冷淡で、無関心な光を宿している。影の中に立つその姿は、危険な香りを放ちながらも、静謐な美術品のように佇んでいた。

来客に気づいた男は、少しも動じることなく蓮見に告げる。「では、日を改めてお伺いします」

そう言って会釈する男の横顔に、水琴の胸が微かにざわめいた。その正体に、おおよその見当がついていたからだ。

果たして、案の定だった。男が去った後、蓮見が感慨深げに呟く。「高遠の家も大変だ。あのお嬢さんがこのままでは、先が思いやられる……」

やはり。

高遠灼也。噂に名高い、あの高遠の三男。

南鳥市きっての不動産王として知られる高遠家が、近年、向かうところ敵なしの勢いを誇るのは、全て現総帥であるこの男、高遠灼也の手腕によるものだ。

その驚くほど美しい容姿とは裏腹に、怜悧冷徹で手段を選ばない手腕、そして謎に包まれた私生活。その素顔を一目見たいと願う者は少なくない。

まさか教授の書斎で鉢合わせするとは……水琴は、明日の狩猟に灼也も参加するという鹿耶の話を思い出す。

ふと、好奇心が湧いた。あの見た目からして、狩猟のような泥臭い活動を好むタイプには到底見えない。

傍らで、蓮見は水琴が離婚した件を耳にしていた。

水琴は大学時代、彼の最も誇らしい教え子だった。それがある男のためにあっさりと結婚し、心理学の道を諦めてしまったと聞いた時は、心の底から残念に思ったものだ。

だというのに、離婚したという彼女には不思議と悲壮感がない。そのことが、蓮見にはむしろ喜ばしく思えた。

「君は、心理学科で最も優秀な学生だった。もしあのまま道を断たれていなければ、心理学の分野で今頃は確固たる地位を築いていただろう。こうして自由になったんだ……もう一度、この道に戻ってみる気はないかね?」

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ   第100話

    「病院なんて行きたくない……痛み止めを飲めば、大丈夫だから……」水琴は、ぽつりと呟いた。ハンドルを握る灼也の手に、ぐっと力が入る。「いつも、そんなに酷いのか?」「普段は、違うの。今日は……冷たいビールを、一本……」「忘れたのか?」灼也の声が、低く沈んだ。水琴は、はっとした。「覚えてた……けど、つい、楽しくて……」深夜の病院は、救急外来と当直の医師がいるだけだった。幸い、当直に婦人科の医師がおり、診察の後、痛み止めと、体を温めるためのハーブを調合した飲み薬が処方された。「このお薬は一日一回、これは必ず飲むようにね」「……はい、分かりました」水琴は小さく頷いた。大袈裟にしなくてもいいのに、と彼女は思う。いつもはこんなに酷くない。ただ今日、うっかり冷たいものを飲んでしまっただけなのだ。再び車に戻ると、灼也の表情は、先ほどよりも幾分か沈んでいた。マンションの前に車を停めると、彼は薬袋を手に、先にエレベーターへと向かった。水琴は呆気に取られ、慌ててその後を追った。玄関に着き、水琴がドアを開ける。「高遠さん、もう遅いですから、お戻りになった方が……」しかし灼也は答えず、真っ直ぐに家の中へ入ると、迷わずキッチンへ向かっていく。彼女のために、薬を煎じるつもりらしい。「高遠さん……」水琴はまず身支度を整え、バスルームから出てくると、コンロの前にまっすぐに立つ灼也の姿が目に入った。彼は土鍋の中に、処方された薬草を入れている。その横顔は、まるで会社の仕事でも処理しているかのように真剣だった。やがて、薬草の独特な香りがキッチンに立ち込め、ドアの隙間から漂ってくる匂いが水琴の鼻をくすぐる。それは薬草特有の乾いた匂いに、苦味が混じった香りだった。彼女はごくりと唾を飲み込むと、医者から処方された痛み止めを、そばにあった水で流し込んだ。キッチンから出てきた灼也が、彼女が薬を飲んだグラスを一瞥する。「冷水だ」グラスを持つ水琴の手が、びくりと震えた。彼女はテーブルにグラスを置く。「気づかなくて……薬を飲むことしか考えてなかったから」「……ああ」灼也は黙ってその水を捨てると、代わりに熱湯を注いだ。「これを飲め」水琴が指先で触れた途端、あまりの熱さに手を弾く。「熱っ!」「さっき飲んだ冷たい水と、胃の中で中和させ

  • 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ   第99話

    コンテストを翌日に控え、水琴は一日中、大学で忙しく立ち働いていた。イベント実行委員や企画部の学生たちと共に講堂の設営に汗を流し、心配した蓮見教授までもが遅くまで残って様子を見ていたほどだ。「コンテストの問題用紙は、ちゃんと保管してあるかね?」蓮見が尋ねる。水琴は頷いた。「はい。心理相談室の金庫に入れてあります。鍵は私だけが持っていますので」「そうか、それなら安心だ」蓮見が帰った後も、水琴は念のため講堂の音響や照明設備をもう一度すべて点検して回った。全ての準備が整ったのは、夜の十一時半を回る頃だった。水琴は、疲れの混じった安堵のため息をつく。どうであれ、明日のコンテストが無事に終われば、この疲れも報われる。彼女は心理相談室へ戻って荷物をまとめ、帰ろうとしたところで、紗音からの電話を受けた。「紗音ちゃん?」電話の向こうから、心配そうな声が届く。「水琴お姉ちゃん、まだ帰ってこないの?」「心配しないで。もう片付けは終わったから、すぐ帰るわ。こんなに遅くまで起きてちゃだめよ。明日、コンテストに出るんでしょう?」そう言う水琴の声は、疲労で少し掠れていた。「うん……じゃあ、家に着いたら、ちゃんと連絡してね」まだ眠たそうな紗音の声に、水琴の胸に温かいものが込み上げた。彼女は頷き、電話を切る。時刻は深夜。キャンパス内の灯りもまばらで、ほとんど闇に沈んでいる。安全のため、設営を手伝ってくれた学生は寮生だけで、彼らも十時には全員を帰した。だだっ広いキャンパスに、今は自分一人きりだ。風が唸りを上げて吹き抜けていく。夜の気配は重く、空気は肌寒い。水琴は思わず自分の腕を抱いた。寒さは怖くない。けれど、人の気配がまったくない暗闇そのものが、心細さを掻き立てる。彼女はスマートフォンのライトをつけた。その一条の光が、何よりの心強さだった。ようやく校門までたどり着いた、その時。見慣れたカイエンが、門のすぐそばに停まっているのが目に入った。待っていたのは、灼也だった。心臓が、とくん、と大きく跳ねた。「……どうして、ここに?」この感情を、どう表現すればいいのだろう。胸の内で渦巻いていた不安が、すっと霧散していくのが分かった。灼也は彼女のために、助手席のドアを開ける。その声は、彼女と同じように掠れていた。「紗音が、君がまだ帰ってないって

  • 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ   第98話

    「どなたが、私が貴校の心理学コンテストに参加しない、と仰いましたか?」その場に凛と響いた、聞き覚えのある声。水琴は弾かれたように目を見開き、衝撃に振り返った。学長室のドアが開けられ、菫がアシスタントを連れて、静かに入ってくる。雅は、信じられないといった様子で来訪者を見つめた。「こ、小林……菫!」菫は佳乃と雅には目もくれず、まっすぐに学長へと歩み寄り、手を差し出した。「こんにちは、小林菫です」「先生……!どうして、ここに……?」水琴は呆然と彼女を見つめた。「その件は後でお話しします」菫は短く応えると、佳乃の方へ視線を移した。「そちらの奥様。私がこの度のコンテストに、審査員として参加することが確定いたしました。これで、失態とは言えなくなりましたでしょうか?」佳乃の顔がみるみるうちに強張っていく。彼女は雅と顔を見合わせ、声なき声で問いかけた。どうして小林菫が?まさか、また灼也様が裏で手を……?「小林先生!本当に、審査員をお引き受けいただけるのですか!?」学長が、信じられないといった様子で尋ねる。菫は静かに頷いた。「ええ、そのようにお考えいただいて結構です」「ありえない!」雅が、半狂乱で叫んだ。「時間がないって言ってたじゃない!だって、パーティーの日にお兄様が聞いた時、絶対に来ないってきっぱり断ったじゃないの!」言ってしまってから、雅は自分が何を口走ったのかに気づいて青ざめた。学長の鋭い視線が、突き刺さるように彼女に向けられる。雅は慌ててその視線から逃れるように俯いた。「ち、違うの、そういう意味じゃ……」「雅さん。臣さんが私にお尋ねになったのは、近々イベントに参加する時間はあるか、という点でしたわ。そして私は、座談会以外は参加しない、とお答えしました」菫は静かに続けた。「この度のコンテストに参加を決めたのは、静沢さんがくださった資料……A大学の学生さん方が書かれた論文を拝見し、素晴らしいと感じたからです」佳乃はようやく我に返ったが、目の前の現実が信じられなかった。あと一歩で静沢水琴を追い出せるところだったのに、またしても、この女にしてやられた。だが、このまま引き下がる彼女ではない。「小林先生。先生は水琴の過去をご存じないのですわ。彼女は、一度離婚を経験している女ですのよ?そのような、はしたない女のために審査員を

  • 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ   第97話

    灼也が、妹の紗音のために見つけてきたという心理セラピスト。そして、先ほどホテルのロビーで自分を待ち続けていた、あの女性。資料の束の一番最後には、一枚の紙が挟まっていた。心理学コンテストの進行表と……そこに記された、論述問題のテーマ。彼女はふと、思った。もしかしたら、新しい時代の学生たちに触れてみるのも、悪くないのかもしれない。この世代の若者たちが、自分にどのような驚きをもたらしてくれるのか……それを見てみるのも、一興か。水琴は家に戻ると、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。菫の言ったことは、何も間違っていない。彼女は海外で長年腕を磨き、数多くの研究プロジェクトに参加し、心理学の世界で唯一無二の地位を築き上げた人物だ。今回の帰国も、南鳥市の専門家たちが抱える問題を解決するためだけではない。ある特殊な臨床ケースを分析・解剖するという、極めて重要な目的がある。彼女の時間は、あまりにも貴重だ。もし、それ以上の価値がある何かを提示できるのなら、あるいは菫を説得することもできたかもしれない。だが、今の自分にそれはない。ならば、諦めるしかないのだ。翌日、水琴はまっすぐに学長室へ向かった。「学長、申し訳ありません。小林先生は、今回のコンテストにはいらっしゃいません」学長も覚悟はできていたのだろう。力なく苦笑した。「……そんな気はしていたよ」「理事会の方々は……?」水琴が心配するのは、そこだった。鷹司家、特にあの佳乃が、この面倒な事態を黙って見過ごすとは思えない。噂をすれば影、とはよく言ったものだ。ガチャリとドアが開き、佳乃が姿を現した。「あら、水琴も一緒なの。ちょうどよかったわ、わざわざ呼びに行かなくて済むもの」その背後には、勝ち誇ったような笑みを浮かべる雅の姿もある。水琴が眉をひそめる横で、学長は愛想笑いを浮かべた。「これは鷹司夫人。本日はどのようなご用件で……?」「小林先生の件よ。審査員をお引き受けくださったと聞いて、詳しく伺いに来たの」佳乃はそう言うと、雅にちらりと目配せした。雅は待ってましたとばかりに、甲高い声で言葉を継ぐ。「そうよ、お母様!この静沢先生がね、小林先生と話がついたって。今朝、教授と学長から電話があった時も、ご自分でそうおっしゃったんですって!今、掲示板もその話ですごいことになってるのよ。ねぇ、静沢先生

  • 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ   第96話

    菫は、困ったように微笑む。「静沢さん。私はもう、はっきりお伝えしたはずです。時間がありませんし、コンテストに参加するつもりもありません」アシスタントが水琴の前に立ち、きっぱりとした口調で言った。「お嬢さん。先生の今回の帰国日程は非常にタイトで、すべてのスケジュールは事前に決められています。あなたの言うコンテストのために予定を変更することは、物理的に不可能なのです」「先生、お渡しした資料は、ご覧いただけましたか?」水琴は、最後の望みを託して尋ねた。菫は、彼女のあまりの執念に少し驚いたように頷いた。「ええ、すべて拝見しました。A大学の学生さんたちは、皆さん非常に優秀ですね。興味深い視点の論文がいくつもありました」彼女はそこで一度言葉を切り、諭すように続けた。「ですが静沢さん。残念ながら、あの論文を拝見したからといって、私のスケジュールを変更できるわけではありません」「今回の帰国の目的は、南鳥市の心理学の専門家たちと会議を開き、臨床における難題について討議するためです。そこで解決される問題の一つひとつが、同じ病に苦しむ患者さんたちにとって、どれほど大きな助けになるか。私にとって一分一秒を争うのは、お金のためでも名声のためでもなく、ただ心に病を抱える人たちのためなのです。……それとも静沢さん。あなたは、私がやろうとしていることよりも、あなたの大学のコンテストの方が重要だと、そうお考えですか?」菫の言葉は、まるで頭を殴りつけられたかのような衝撃だった。水琴は呆然と立ち尽くす。そこまで考えが及んでいなかった。ただ、A大学の学生たちのために、としか考えていなかった。そうだ。研究の進歩という大義の前では、いかなるイベントも、彼女の歩みを阻むことなどできないのだ。「では、なぜ……」水琴は、どうしても理解できなかった。「なぜ私が、鷹司雅さんの誕生日パーティーになど出席したか、ですか?」菫は気分を害した様子もなく、ただ穏やかに、諭すように説明を続けた。「それは、鷹司臣さんが、ある約束をしてくださったからです。ご存知の通り、どのような分野の研究であれ、莫大な人的、金銭的資本を必要とします。そして、先進的な研究が行われている環境というのは、やはり、この分野に潤沢な資金が投じられているものなのです。鷹司臣さんが提示してくださった支援は、私が数時間パーティ

  • 離婚後、捨てられた私は人生の頂点に立つ   第95話

    「静沢先生、これは大学の威信に関わる一大事だ。……こうなったら、もう一度、何とかして先生の意向を探ってみてくれないか。幸い、コンテストまでまだ数日はある」そう言う学長の声は、明らかに躊躇いがちに震えていた。彼が学長といえども、その上には理事会が存在するのだ。「……承知いたしました」水琴は重々しく頷いた。鷹司家のこの一手は、完全に彼女を崖っぷちへと追い詰めるものだった。学長室を出た水琴は、そのまま心理相談室へ向かった。そこには、彼女を待っていた紗音がいた。「水琴お姉ちゃん!話は全部聞いたわ。これから、どうすればいいの……?」「……もう一度、小林先生に連絡を取ってみるしかないわね」水琴は力なく笑った。菫に渡した資料の中には、彼女の最新の研究テーマに関する、自分自身の論文も忍ばせてある。……だが、万が一、彼女がそれに気づかなかったら?望みは、あまりにも細い糸だった。午後三時。雅は学内掲示板で白熱する議論を満足げに眺めていた。彼女はいくつもの捨てアカウントを巧みに操り、誰もが「小林菫は必ず来る」と信じて疑わないよう、巧みに世論を誘導していた。その隣室で、紗夜は枕の下からそっと一台のスマートフォンを取り出した。画面を点灯させ、臣の誕生日を入力する。パスワードが違います。次に水琴の誕生日。やはり違う。諦めかけたその時、ふと灼也の誕生日が頭に浮かんだ。試してみる。それでも、画面は無情にも同じメッセージを返すだけだった。「……いったい、何なのよ」紗夜は恨めしげに呟き、携帯をベッドに放り投げた。今朝、水琴が携帯を探しに来た時の光景が脳裏を蘇る。そう、携帯を盗んだのは彼女だった。昨夜、水琴が帰った後、ホールに落ちているのを発見し、誰にも告げずに自室へ持ち帰ったのだ。そして今朝、蓮見教授からの電話に出たのも彼女だ。昨夜から今まで、考えつく限りのパスワードを試したが、ことごとく失敗。ついには入力回数制限でロックまでかかってしまった。このロックさえ解ければ、静沢水琴の秘密を、すべて暴けるのに。同時刻。水琴は、霧島ホテルのエントランスに足を踏み入れていた。しかし、菫がどの部屋に滞在しているかまでは分からない。彼女はフロント脇のソファに腰を下ろし、ひたすら待つことにした。菫のスケジュールは調べ上げてある。今夜

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status