LOGIN灼也の瞳に鋭い光が宿ったが、彼は何も言い返さなかった。その氷のように冷たい沈黙が、琉里の神経をさらに逆撫でする。彼女の表情は次第に険しくなり、ヒステリックな金切り声を上げた。「どうして黙っているの!?……まさか、水琴さんのため?私を助けなかったのは、静沢家に恩を売るチャンスを与えるためだったの!?……っ、見損なったわ、灼也!たかが女一人のために、両家の巨大なビジネスを台無しにする気!?」どれだけ激しく詰られても、灼也は一切口を開かなかった。ただ無言のまま、冷ややかな瞳で夜の闇を切り裂くように車を走らせていた。静沢家の屋敷に戻った後も、水琴の頭の中は宝生会長から聞かされた最重要機密のことでいっぱいだった。もし、会長の言葉がすべて真実だとしたら。なぜ、「半月島の新航路開通」というこれほど巨大な情報が、未だにどこからも漏れ出ていないのだろうか?ゴシップや裏情報が飛び交うこの南鳥市で、欠片ほどの噂すら流れていないのは不自然すぎる。現在、財界の人間は全員が「新航路は翡翠島を通る」と信じて疑っていないのだ。会長の情報が絶対に正しいと、どうして断言できるのだろう?「お兄ちゃん」書斎で資料を整理していた重人に、水琴は唐突に問いかけた。「……本当は、翡翠島と半月島、どっちだと思う?」重人は手を止め、少し考え込んでから答えた。「難しいな。俺の独自ルートで掴んだ情報も、すべて翡翠島を指していた。四方を海に囲まれ、他の航路との交差点になる絶好の立地だからな。……だが、半月島も巨大連絡橋に近いという利点がある。それに、もし宝生会長が俺たちを騙そうとしているのなら、あんな面倒な嘘をつく必要がない」重人の言う通りだ。宝生会長自身も翡翠島を売りに出そうとしているのだから、静沢家にわざわざ「新航路は通らない」などと教えるメリットがない。黙っていれば、静沢家を含めた財界の連中が翡翠島の価格を限界まで釣り上げてくれたはずなのだから。わざわざ自らの利益を手放すような真似をしてまで、嘘をつくとは思えなかった。「それなら、会長の言葉は真実だというのね?」水琴は確認するように再び尋ねた。重人は静かに頷いた。「おそらくはな。最初から『新航路は翡翠島を通る』という噂自体が、誰かの仕組んだ罠だったんだろう。皆の
チャリティーオークションが終わり、参加者たちが続々と帰途に就く中。水琴はホテルのエントランスに立ち、重人が駐車場から車を回してくるのを待っていた。車寄せを照らす豪奢なシャンデリアの光が、少しだけ眩しい。ふと、背後から底意地の悪い声がかけられた。「私ね、妊娠したの。……水琴さん、もちろん知っていたわよね?」振り返ると、紗夜が立っていた。彼女は勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、これ見よがしに自分のお腹を撫でている。水琴は無表情のまま、ゆっくりと彼女に近づいた。そして、おもむろに手を伸ばし、その腹部に触れようとする。「な、何をする気っ!?」紗夜はギョッとして、慌てて一歩後ずさった。水琴はふっと冷ややかな笑みをこぼした。「あなたが妊娠したなんてこと、この南鳥市じゃ誰もが知っているわ。……私が興味があるのは、あなたが必死に隠そうとしているあの件よ。いつか必ず、白日の下に晒してあげる」「……あの件って、何のことよ」紗夜の目が泳ぎ、肩がビクッとすくんだ。水琴は一歩踏み込み、逃げ場を塞ぐように冷徹な声で告げた。「西嶺マーメイド・ランチでの落馬事故。そして、高級邸宅街『白妙山』での監禁未遂事件。……あなたは自分に都合のいいスケープゴートを見つけて、うまく逃げおおせたつもりでしょうね。このお腹の子供さえいれば、臣が全力であなたを守ってくれるとでも思っているの?鷹司家なんて、この南鳥市では大した権力もないというのに」「あなた……私を脅しているつもり!?」紗夜は目を見開き、上品な令嬢の仮面をかなぐり捨てて甲高い声を上げた。「脅し?まさか。ただの警告よ。あまり調子に乗らないことね。今、雅は拘置所の中で絶望しているわ。鷹司家は彼女を救おうとすらしていない。……臣が、本当の黒幕があなただと気づいているかどうかは知らないけれど、私は絶対に、あなたを地獄の底へ引きずり下ろすわ」水琴の瞳は、まるで万年雪のように冷たく、鋭い光を放っていた。完璧だった紗夜の仮面が音を立てて崩れ落ちる。彼女は憎悪に満ちた鬼のような形相で水琴を睨みつけた。「負け惜しみを……!あなたがいつまでそうやって強がっていられるか、見ものね!」紗夜がさらに言葉を浴びせようとしたその時、重人の運転する車がエントランスに滑り込んでき
だが、あのレッドアンバーがいくら精巧な彫刻を施されているとはいえ、二十億円なんて本来の価値の倍以上の値段だ。会長がこんなにもあっさりと大金を積んだのは、間違いなく先ほどの仏画の恩を返すため……!水琴の思惑通りに事が運んだことが、腸が煮えくり返るほど口惜しかった。チャリティーオークションの全プログラムが終了し、フレンチのフルコースが運ばれ始めた。宝生会長はこういった喧騒を好まないため、早々に席を立って会場を後にしている。琉里は唇を噛み締めながら、獲物を狙うような目で水琴を睨みつけた。あの数珠を準備したのは重人ではない。水琴だ。彼女の女の勘がそう告げていた。「水琴さんって、本当に抜け目がないのね」冷ややかな声で、琉里が棘のある言葉を投げかける。「あなたが選んだ品が、あんなにも宝生会長の心を掴むなんてね」水琴はカトラリーを手に取ったまま、一切遠慮することなく微笑み返した。「私もそう思いますわ。……琉里さんも、少しは私を見習った方がよろしいんじゃないかしら?」「っ……!」琉里はナイフとフォークを握る手にギリッと力を込めた。「調子に乗らないことね、水琴さん」這いずるような声で吐き捨てる。会長に少しばかり良い印象を与えたからといって、翡翠島の利権を手に入れたわけじゃない。まだ私にもチャンスはある……!食事が半ばに差し掛かった頃。黒服に身を包んだ初老の男が、静沢家のテーブルへと歩み寄ってきた。彼は水琴と重人の側に立つと、恭しく一礼して口を開いた。「水琴様、重人様。……宝生会長が、別室でお待ちです」その言葉に、周囲の空気は一瞬にして凍りついた。会場中の視線が、一斉に水琴たちへと注がれる。琉里の心臓がドクンと嫌な音を立てた。どうして……!?なぜ会長が、静沢の二人だけをわざわざ別室に呼び出すの!?静かに立ち上がり、案内人に従って歩き出す水琴。灼也は、その華奢で毅然とした背中を――誇らしさと、ほんの少しの苦さが入り混じったような、複雑な眼差しで見つめていた。二階に用意されたVIPラウンジ。宝生会長は重厚な革張りのソファーに深く腰掛け、静かに目を閉じていた。「会長」水琴と重人が近づいて声をかけると、彼はゆっくりとまぶたを上げ、短く促した。「座りなさい」無駄な挨拶や建前
ヒュッ、と。紗夜が息を呑む音が聞こえた。いや、彼女だけではない。会場にいる全員が、信じられないものを見るような目でスクリーンを凝視していた。確かに、不純物のないレッドアンバーは希少だ。だが、決して「世界に二つとない幻の宝」というわけではない。金とコネさえあれば、手に入れることは十分可能な代物だ。他の大物たちが用意した歴史的な骨董品と比べれば、どうしても見劣りしてしまう。それなのに、この価格。いくらなんでも、常軌を逸している――!先ほどの重苦しい沈黙から一転して、メインバンケットはハチの巣をつついたような騒ぎになった。参加者たちは、スクリーンに映し出されたレッドアンバーを指差しながら、口々に呆れ声を上げ始めた。「静沢家の連中は頭がおかしくなったのか?あんなただのレッドアンバーに二十億円だと?強盗と変わらんじゃないか!」「チャリティーだというから寄付のつもりで来たが、ただの金蔓になるつもりはないぞ!」「まったくだ。我々を馬鹿にするのもいい加減にしろ!」……会場に満ちる嘲笑と非難の嵐。臣もまた、目を丸くして呆気に取られていた。その隣で、紗夜がわざとらしく同情するような声をあげる。「臣さん……いくらなんでも、二十億円はやりすぎよね。宝生会長だって、こんな途方もない値段の品は想定されていないはずだわ」臣は眉をひそめ、無言で頷いた。彼も紗夜と同意見だった。あのレッドアンバーが、そんな天文学的な価格で売れるはずがないと。しかし、メインテーブルに座る琉里だけは違った。彼女は血の気を失った顔で、じっと宝生会長の横顔を窺っていた。もし昨日、水琴が「二十億円で出品する」と言っているのを聞いていたら、彼女も間違いなく「気が狂ったのか」と嘲笑っていただろう。だが、今は違う。水琴がどうしてこんな異常な価格設定をしたのか、その真意に恐ろしいほど合点が直感してしまったのだ。先ほど、自分の仏画が引き起こした致命的なミス。あの時、重人が絵を落札したことで、宝生会長の面目は完全に保たれた。静沢家は会長に大きな貸しを作ったのだ。その恩義に報いるため、会長がこの法外な価格のレッドアンバーを競り落とす可能性は――極めて高い。ざわめきが収まらない中、ステージ上のオークショニアが額に汗を滲ませながら解説を始
最終的に、その蓮華は一億八千万円で別の参加者に落札された。ハンマーの音が響いた瞬間、臣は膝の上でギリッと拳を握りしめた。宝生会長の目に留まらなかった。つまり、彼らの今回の目的は完全に失敗に終わったのだ。その後に続いたいくつかの品目でも、宝生会長は一度もパドルを挙げることはなく、すべて他の参加者たちの手に渡っていった。そして、ついに琉里の出品する番がやってきた。コンパニオンが恭しく運んできたのは、細長い桐箱だった。中に入っていたのは一幅の掛け軸。そして非常に特殊なことに、そこに描かれていたのは仏陀の姿だった。スクリーンにその仏画が大写しになった瞬間、宝生会長の指がピクッと動き、無意識にテーブルをトントンと叩き始めた。琉里の口角がゆっくりと上がる。彼女が用意したこの絵は、ただの仏画ではない。宝生会長なら、一目でその仕掛けに気づいたはずだ。一方で、水琴はその絵を食い入るように見つめ、思わず息を呑んだ。琉里さん……いくらなんでも大胆すぎるわ。水琴はすぐに気づいていた。その仏画に描かれている仏陀の顔が、他でもない宝生会長の顔に酷似して描かれていることに。当然ながら、他の参加者たちは誰もパドルを挙げようとしなかった。誰の目にも明らかだ。この絵は琉里が宝生会長のためだけに特注したものであり、ここで競り落とすことは、飛ぶ鳥を落とす勢いの音羽家、そして何より宝生会長の顔に泥を塗る行為に他ならない。水琴がちらりと横目で灼也を見ると、彼の目にも水琴と同じように驚きの色が浮かんでいた。これほどまでに奇抜で恐れ知らずなアイディアは、確かに琉里らしいといえば琉里らしい。だが、彼女はこの盤面で決定的な悪手を打った。仏教を深く信仰する者にとって、仏とは最も尊く、決して冒涜してはならない存在である。みだりに仏陀の顔を書き換えるなど、言語道断だ。しかも、よりによって宝生会長自身の顔を仏にすげ替えるなんて。それは宝生会長を持ち上げるどころか、彼を仏への冒涜という深い罪の淵へ突き落とすに等しい行為だった。オークションの開始が宣言された。だが、誰一人としてパドルを挙げる者はいない。予想外の展開に、琉里の顔に焦りの色が浮かんだ。彼女は縋るような目で宝生会長の横顔を見つめる。どうして?当然、真っ先に会長が落札して
紗夜は臣の腕にベッタリと絡みつきながら、これ見よがしに会場へ足を踏み入れた。有名デザイナーのオートクチュールであろう、ふんわりとしたピンクのチュールドレスに身を包んでいる。彼女はこれ見よがしに、まだ目立たないお腹へとそっと手を当てた。鷹司家の初孫を宿しているという、彼女にとっての最強の盾。水琴に向けるその視線には、明らかな優越感と挑発の色が滲んでいた。「久しぶりね、水琴さん」まるで、かつて水琴を陥れようとした数々の悪行など無かったかのように。紗夜は親しい友人にでも語りかけるような、猫撫で声で微笑みかけてきた。しかし、水琴は冷ややかな一瞥をくれただけで、一言も返すことなく重人と共に着席した。静沢家が案内されたのは、ステージの真ん前――最上座に位置するメインテーブルである。静沢家の権力はトップである高遠家には及ばないものの、臣の鷹司家ごときが座れるような席では決してないのだ。席に落ち着いた途端、エントランス付近で大きなどよめきが起きた。待機していたメディアのカメラマンたちが、獲物を見つけたハイエナのように一斉にフラッシュを焚き始める。眩い光の中心にいたのは――灼也と、琉里だった。最近メディアを騒がせている、財界トップ同士の熱愛疑惑。記者たちがこの絶好のシャッターチャンスを逃すはずもない。そして最悪なことに、灼也と琉里が案内されたのもメインテーブルであり、あろうことか水琴たちの真正面の席だった。「水琴さん、ごきげんよう」優雅に腰を下ろしながら、琉里が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。水琴は表情を崩さず、ふわりと口角だけを上げた。「琉里さんこそ。今日は随分と……楽しそうですね」「ええ、当然でしょう?本日は宝生会長の米寿のお祝いですもの。こんなに賑やかな素晴らしい日なんだから、気分も高揚するというものだわ」琉里の言葉の裏には、隠しきれない野心が透けて見えた。彼女には、絶対の自信があったのだ。今回のオークションのために、海外のルートを駆使して極上の骨董品をわざわざ取り寄せたのだから。これを宝生会長に献上し、確固たる好印象を植え付ければ、翡翠島の利権は音羽グループのものになる――そう確信している顔だった。……っ。水琴は伏し目がちに視線を落とし、膝の上でギュッと拳を握りしめた。目の
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ