ANMELDEN女がまともな会話を返してきたことに、雅は少しだけ拍子抜けした。ここにも普通の感性を持った人間がいるのか、と思ったその直後だ。女は突然、ガタンッと身を乗り出し、雅のトレーからフォークをひったくった。そして、そのフォークに向かって真剣な顔で囁き始めたのだ。「……おお、我が兄弟よ。恐れることはない、私が助けに来たぞ」女はまるで何かに取り憑かれたように、食堂中を練り歩きながら、他の患者たちのスプーンや箸にも必死に語りかけ始めた。「イカレてる……っ」雅はゾッとして呟いた。そうだ、ここは精神病棟なのだ。一見まともに見える人間こそが、一番狂っている。夕食の時間は、各病室での配膳だった。雅はベッドの端にちょこんと座り、自分のプラスチックの器を所在なく握りしめていた。看護師がドアを開けて入ってきた、その背後。見覚えのある影が、ふらりと病室に滑り込んできた。昼間、食堂でフォークに話しかけていたあの女だった。なんと、同じフロアの患者だったらしい。「出てって!早く私の部屋から出ていきなさいよ!」今はフォークすら持っていないのに、どうして絡んでくるのか。雅は半狂乱で叫んだ。看護師がため息をつきながら女を連れ出したが、雅の心臓は激しく嫌悪に波打っていた。出された夕食に目を落とす。味のしない茹でただけのじゃがいもに、ドロドロに煮込まれた青菜。鷹司家で贅を尽くした食事をしてきた雅にとって、それは人間の食べ物とは思えなかった。こんなもの、どうやって飲み込めというのか。抗議しようと看護師を睨みつけたが、彼女は冷ややかな目を向けるだけで、相手にもしてくれなかった。そして、本当の地獄は夜に訪れた。消灯時間を過ぎ、深夜の零時を回った頃。フロアのどこかの病室から、突如として奇声が上がった。それを合図にしたかのように、あちこちの部屋から次々と、言葉にならない獣のような絶叫や泣き声が連鎖し始めたのだ。「あぁぁぁっ……!」鼓膜を突き破るような不気味な叫び声の合唱に、雅はベッドの上で丸まり、狂ったように両耳を塞いだ。叫び声が頭蓋骨に反響し、頭が割れるように痛い。二時間、三時間……地獄のような大合唱は延々と続き、雅の精神をゴリゴリと削り取っていった。やがて奇声が波のように引いていき、再び不気味な静寂が戻っ
水琴は気怠げに雅を上から下まで見分すると、ゆっくりとした口調で言った。「雅、自分が今どういう状況に置かれているか、誰よりもよく分かっているでしょう。このまま大人しく身代わりになるつもり?」雅は信じられないといった顔で彼女を睨みつけた。「あんたがそんな親切なこと、するわけないじゃない」「実際のところ、あなたと紗夜さんの背後にはもう一人いるはずよね。……琉里さんでしょう?彼女たちを庇い続けて、結局あなたはどうなったの?」水琴は冷ややかな笑みを浮かべる。雅の顔からすっと血の気が引いていくのが分かった。それでも、彼女はまだ強がって言い返した。「あんたに擦り寄ったところで同じよ。一難去ってまた一難、狼の巣から別の狼の巣に落ちるだけじゃない」「無駄話をしている暇はないの」水琴はピシャリと遮った。その瞳の奥に広がる底知れない冷たさに、雅は思わず背筋を凍らせる。「白妙山の件で実際に動いたのが紗夜さんだってことは分かっているわ。もっと詳しい情報が必要なの。さあ、話しなさい」氷のような眼差しに射竦められ、雅は小さく肩を震わせた。頭の中で必死に損得を天秤にかけ、ついに重い口を開く。水琴の言う通りかもしれない。どちらにせよ地獄なら、誰かの身代わりとして終わるのだけは絶対に嫌だった。以前、琉里がどのようにして自分を助け出したのか。そして、どうやって紗夜を琉里に引き合わせたのか。すべてを洗いざらい吐き出すと、水琴の顔に満足げな笑みが浮かんだ。「全部話してくれたのだから、あなたはもう、この拘置所にいるべきじゃないわね」雅の顔が引き攣った。水琴がこんなにあっさりと自分を許すはずがない。案の定、水琴は残酷な宣告を口にした。「ねえ、雅。あの時、自分がどうやって刑を逃れたか覚えている?あなたの精神鑑定書はまだ有効よ。あなたが本来いるべき場所は、精神科の閉鎖病棟でしょう」まるで世間話でもするかのような軽い口調に、雅は顔面を蒼白にさせた。「やめて!そんなこと絶対に許さない!」あんな場所に入れられたら、おかしな人間たちに囲まれて、毎日無理やり薬を飲まされる。絶対に嫌だ。前回は宗一郎お祖父様がなんとか助け出してくれたけれど、今回ばかりはもう、いくら泣きついても助けてはくれないだろう。水琴はすでに席を立ち上がっていた。
一方、紗夜は心の中で歓喜の声を上げていた。やったわ……!どうやって臣を丸め込もうかと必死に考えていたが、まさか姑がこんなにも強力な盾になってくれるとは。この家では佳乃の発言権が極めて強い。彼女が自分を庇うなら、臣が警察に突き出すことなど絶対にできはしない。紗夜は手の甲で涙を拭い、いっそう声を震わせて泣きすがった。「お義母様……違うんです、臣さんを責めないでください!全部、私の自業自得なんです。私のせいで、雅さんがあんな場所に……あなたたちが私を警察に引き渡すと言うなら、私は何の恨みも抱きません。すべて私が悪いんですから……っ」佳乃は首を横に振り、紗夜を背に庇うように立ち塞がった。「馬鹿なことを言うんじゃないわよ!いいからあなたは、家でゆっくり休んでお腹の赤ちゃんのことだけを考えなさい。鷹司家の大事な跡取りを産むこと、それが今一番大事なことなんだからね」佳乃とて、本心では胸が張り裂けそうだった。冷たい拘置所の中で怯えているのは、自分のお腹を痛めて産んだ大切な娘なのだ。もし紗夜の腹にこの「黄金の価値がある赤子」がいなかったら、今すぐこの女の髪を掴み引きずってでも警察に突き出し、雅と入れ替えさせているに違いない。佳乃が怒りと悲しみを押し殺して臣を睨みつける中、紗夜は再び臣に向かってしおらしく俯いた。「臣さん……本当にごめんなさい。私、どんな罰でも受けますから……」ぽろぽろと、真珠のような涙が絶え間なく頬を伝い落ちる。紗夜は鼻をすすり上げ、捨てられた子犬のような無防備な瞳で臣を見上げた。そのあざといほど可哀想な姿と、隣で鬼の形相で睨みを効かせる母の圧。ついに、臣は深くため息をつき、全身から力を抜いた。「……もういい。お前は家で大人しくして、余計なことは考えるな。……雅のことは、俺がなんとかする」その言葉を聞いた瞬間、紗夜の心の中で渦巻いていた不安は完全に消え去った。ほんの数秒で表情を切り替え、そっと涙を拭う。佳乃が「体を冷やさないようにね」と言い残して自分の部屋へ戻っていくと、紗夜はふと気が咎めたような顔をして臣の袖を引いた。「臣さん……お願い。なんとかして雅さんを助け出してあげて……」「俺だって助け出してやりたい。だが、今の状況ではそう簡単にはいかないんだ」臣は疲労困憊した
紗夜は恐怖のあまり、テーブルの端を掴む手をガタガタと震わせた。「琉里さん!お願い、見捨てないで!私、どうしたらいいの!?刑務所になんて絶対に入りたくない!」「あなたが入りたくないように、誰も刑務所になんて入りたくないのよ。……いい?この件については、二度と私に連絡してこないで。忘れないことね、紗夜さん。一連の事件は、すべてあなた自身が勝手にやったこと。私には何の関係もないわ」「待って、琉里さ――」「暇を持て余しているなら、臣さんのところへ行ってすがりつきなさい。あなたは今、彼の大切な子供を身籠もっているんだから、何がなんでもあなたを守ってくれるはずよ」ブツッ、と。琉里は一方的に通話を切ってしまった。耳元で鳴り続けるツーツーという無機質な電子音が、紗夜の心臓を不気味に叩く。見捨てられた。その事実が、冷たい絶望となって彼女の全身を覆っていく。……そうよ。あの女は最初から、私を捨て駒にするつもりだったんだわ。大槻家の邸宅での事件。計画から実行まで、琉里は一切表に出ず、裏で手を引いていただけだ。紗夜が彼女の指示で動いていたという証拠は、どこにも残っていない。雅が紗夜の身代わりになったように、紗夜もまた、琉里の用意したトカゲの尻尾に過ぎなかったのだ。ベッドの端にへたり込み、荒い息を吐く。どれくらいそうしていただろうか。寝室のドアが開き、臣が入ってきた。彼は紗夜の幽鬼のような姿を見るなり、慌てて駆け寄ってきた。「紗夜!?どうしたんだ、顔色が真っ青だぞ。お腹でも痛むのか?」臣が心配そうに覗き込んでくる。紗夜は力なく首を振った。どうやって切り出せばいい……?雅は今、冷たい鉄格子の向こう側にいる。だが、水琴の執念深い追及によって、紗夜の罪が暴かれるのは時間の問題だ。もしすべての事実が白日の下に晒されれば、間違いなく刑務所行きになる。助けてくれるのは、目の前にいる鷹司家だけ。ギリギリになってから水琴に証拠を突きつけられては、臣がいくら権力を使って揉み消そうとしても手遅れになる。それならば、いっそ今この場で泣き落とし、彼を完全に共犯者に仕立て上げるしかない。紗夜はうるゆると瞳を潤ませ、最高に哀れで可憐な被害者を演じ切る決意を固めた。「臣さん……私……」「なんだ、どうした?言ってみろ
灼也の瞳に鋭い光が宿ったが、彼は何も言い返さなかった。その氷のように冷たい沈黙が、琉里の神経をさらに逆撫でする。彼女の表情は次第に険しくなり、ヒステリックな金切り声を上げた。「どうして黙っているの!?……まさか、水琴さんのため?私を助けなかったのは、静沢家に恩を売るチャンスを与えるためだったの!?……っ、見損なったわ、灼也!たかが女一人のために、両家の巨大なビジネスを台無しにする気!?」どれだけ激しく詰られても、灼也は一切口を開かなかった。ただ無言のまま、冷ややかな瞳で夜の闇を切り裂くように車を走らせていた。静沢家の屋敷に戻った後も、水琴の頭の中は宝生会長から聞かされた最重要機密のことでいっぱいだった。もし、会長の言葉がすべて真実だとしたら。なぜ、「半月島の新航路開通」というこれほど巨大な情報が、未だにどこからも漏れ出ていないのだろうか?ゴシップや裏情報が飛び交うこの南鳥市で、欠片ほどの噂すら流れていないのは不自然すぎる。現在、財界の人間は全員が「新航路は翡翠島を通る」と信じて疑っていないのだ。会長の情報が絶対に正しいと、どうして断言できるのだろう?「お兄ちゃん」書斎で資料を整理していた重人に、水琴は唐突に問いかけた。「……本当は、翡翠島と半月島、どっちだと思う?」重人は手を止め、少し考え込んでから答えた。「難しいな。俺の独自ルートで掴んだ情報も、すべて翡翠島を指していた。四方を海に囲まれ、他の航路との交差点になる絶好の立地だからな。……だが、半月島も巨大連絡橋に近いという利点がある。それに、もし宝生会長が俺たちを騙そうとしているのなら、あんな面倒な嘘をつく必要がない」重人の言う通りだ。宝生会長自身も翡翠島を売りに出そうとしているのだから、静沢家にわざわざ「新航路は通らない」などと教えるメリットがない。黙っていれば、静沢家を含めた財界の連中が翡翠島の価格を限界まで釣り上げてくれたはずなのだから。わざわざ自らの利益を手放すような真似をしてまで、嘘をつくとは思えなかった。「それなら、会長の言葉は真実だというのね?」水琴は確認するように再び尋ねた。重人は静かに頷いた。「おそらくはな。最初から『新航路は翡翠島を通る』という噂自体が、誰かの仕組んだ罠だったんだろう。皆の
チャリティーオークションが終わり、参加者たちが続々と帰途に就く中。水琴はホテルのエントランスに立ち、重人が駐車場から車を回してくるのを待っていた。車寄せを照らす豪奢なシャンデリアの光が、少しだけ眩しい。ふと、背後から底意地の悪い声がかけられた。「私ね、妊娠したの。……水琴さん、もちろん知っていたわよね?」振り返ると、紗夜が立っていた。彼女は勝ち誇ったような薄笑いを浮かべ、これ見よがしに自分のお腹を撫でている。水琴は無表情のまま、ゆっくりと彼女に近づいた。そして、おもむろに手を伸ばし、その腹部に触れようとする。「な、何をする気っ!?」紗夜はギョッとして、慌てて一歩後ずさった。水琴はふっと冷ややかな笑みをこぼした。「あなたが妊娠したなんてこと、この南鳥市じゃ誰もが知っているわ。……私が興味があるのは、あなたが必死に隠そうとしているあの件よ。いつか必ず、白日の下に晒してあげる」「……あの件って、何のことよ」紗夜の目が泳ぎ、肩がビクッとすくんだ。水琴は一歩踏み込み、逃げ場を塞ぐように冷徹な声で告げた。「西嶺マーメイド・ランチでの落馬事故。そして、高級邸宅街『白妙山』での監禁未遂事件。……あなたは自分に都合のいいスケープゴートを見つけて、うまく逃げおおせたつもりでしょうね。このお腹の子供さえいれば、臣が全力であなたを守ってくれるとでも思っているの?鷹司家なんて、この南鳥市では大した権力もないというのに」「あなた……私を脅しているつもり!?」紗夜は目を見開き、上品な令嬢の仮面をかなぐり捨てて甲高い声を上げた。「脅し?まさか。ただの警告よ。あまり調子に乗らないことね。今、雅は拘置所の中で絶望しているわ。鷹司家は彼女を救おうとすらしていない。……臣が、本当の黒幕があなただと気づいているかどうかは知らないけれど、私は絶対に、あなたを地獄の底へ引きずり下ろすわ」水琴の瞳は、まるで万年雪のように冷たく、鋭い光を放っていた。完璧だった紗夜の仮面が音を立てて崩れ落ちる。彼女は憎悪に満ちた鬼のような形相で水琴を睨みつけた。「負け惜しみを……!あなたがいつまでそうやって強がっていられるか、見ものね!」紗夜がさらに言葉を浴びせようとしたその時、重人の運転する車がエントランスに滑り込んでき
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ
臣が呆然としていると、温かい手がそっと彼の手を握った。隣に座る紗夜が、心配そうに顔を覗き込んでいる。「臣さん、どうしたの?胃の調子でも悪いのかしら。スープでもいただく?」臣は力なく首を横に振った。水琴は宗一郎に笑顔で応えると、臣と紗夜のやり取りなどまるで存在しないかのように、静かに椅子を引いて腰を下ろした。その傍らで宗一郎が、見せつけるような二人の親密さに、侮蔑を込めてフンと鼻を鳴らした。鷹司家の食卓は、食事中の私語を許さない厳格な家風がある。水琴に食欲などあるはずもなく、ただ宗一郎の手前、仕方なく箸をつけただけだった。やがて食事が終わると、宗一郎が水琴を引き留めた。「臣と
水琴は足を止め、その差し出された手を見つめた。表情は凪いだまま、応じようとはしない。差し出された紗夜の手が、宙で居場所をなくし、彼女の顔から完璧な笑みがわずかに強張る。隣で、臣が割って入るように口を開いた。その声は低く、感情が読めない。「祖父が、俺たちのことを知った。今夜、話があるから屋敷に来いと。お前の携帯が繋がらなかったから、直接迎えに来た」「わかったわ」水琴は自分のスマートフォンに目を落とす。確かに、バッテリーが切れていた。「充電したら、すぐに向かいます」彼女はそう頷くと、付け加えた。「先に行っていて」その言葉は、あなたたちと行動を共にするつもりはない、という明確な拒絶だ







