INICIAR SESIÓN紗音が涙声で訴えると、電話越しに聞こえる琉里の声は、対照的に酷く落ち着き払っていた。「紗音ちゃん、あなたは何も間違っていないわ。悪いのは、物事を歪んでしか見られないあの愚かな大衆よ」「わかってる……でも、もう炎上を煽りたくないの……」紗音が消え入りそうな声で懇願すると、琉里は受話器の奥で小さく息を吐いた。「……わかったわ。今すぐ手を回して、トレンドの操作を止めるように指示を出しておく」「ありがとう、琉里お姉ちゃん……」感謝の言葉を口にしても、紗音の顔を覆う暗い影は晴れなかった。自分の浅はかな行動が、大好きな水琴お姉ちゃんをさらに追い詰めてしまった。どうすればこの最悪の状況をひっくり返せるのか、皆目見当もつかない。音羽グループの応接室のソファに座り、ペンをクルクルと弄りながら、紗音は俯いた。水琴お姉ちゃんに会いたい。会って、ごめんなさいって謝りたい……「……琉里お姉ちゃん、わたし……」ポツリとこぼした言葉の続きを待つまでもなく、電話越しの琉里は全てを察したように優しい声を出した。「行ってきなさい。こっちの勉強なら、私が上手く誤魔化しておくから」「琉里お姉ちゃん……!本当に、何から何までありがとう……っ」紗音は安堵の涙を浮かべ、深く感謝しながら電話を切った。一刻も早く水琴の顔が見たくて、彼女はそのまま音羽グループのビルを飛び出すと、タクシーを捕まえて真っ直ぐA大学へと向かった。正門前に到着すると、冷たい地面には依然として和江が座り込み、絶望を絵に描いたような顔で遺影を抱きしめていた。そして、その周囲には相変わらずハイエナのようなマスコミが陣取っている。紗音がタクシーを降りた瞬間、一人の記者が鋭く目を光らせた。「おい、あの子……高遠財閥の紗音お嬢様じゃないか!?」その声に、群がっていた記者たちが一斉に紗音の元へ殺到した。容赦ないフラッシュの嵐が彼女を包み込み、無数のマイクが顔の前に突きつけられる。「高遠さん!先ほどSNSで発信された擁護動画は、ご本人の意思ですか!?」「高遠さん!お兄様である灼也氏から、静沢氏を庇うよう指示されたのではないですか!?」「重い心の病気を抱えていると告白されましたが、具体的な病名を教えていただけますか!静沢氏の治療で、現在はどの程度回復されているので
琉里は形の良い唇に薄く弧を描き、優しく囁いた。「……水琴さんのこと、助けてあげたい?」「もちろん!」紗音は首がもげるほど激しく縦に振った。水琴の潔白を証明したいという思いは、今や誰よりも強い。「今、擁護の声が揉み消されてしまっているのは、発言している人たちが水琴さんより社会的立場が低くて、実際に彼女の治療を受けたことがない部外者だからよ」琉里は獲物を誘導するように、ゆっくりと言葉を紡いだ。「もし、絶対に買収されないような権力を持つ人間で、なおかつ、実際に彼女のカウンセリングに救われた患者本人が表に立って証言すれば……風向きは変わるかもしれないわね」その言葉に、紗音の顔がパッと明るくなった。「それって……わたしのこと!?わたしが水琴お姉ちゃんの代わりに事情を説明すればいいんだね!」「ええ、試してみる価値はあると思うわ」琉里が優雅に頷くや否や、紗音はすぐさま行動に移した。琉里のパソコンを借りて自分のSNSアカウントを開き、勢いよくキーボードを叩いて長文を打ち込む。そしてさらに説得力を持たせるため、カメラを起動して自撮りの動画撮影を始めた。「——こんにちは、高遠紗音です。名前だけではピンとこないかもしれませんが、高遠グループの総帥、高遠灼也の妹です。渦中の静沢水琴先生は、わたしの担当心理カウンセラーです。わたしは長い間、とても重い心の病気を抱えていました。兄様が世界中から有名な先生を呼んでくれましたが、誰も私を救えなかった。でも、水琴お姉ちゃんが現れて、全てが変わったんです。お姉ちゃんには、どうしようもなく惹きつけられる、心から信頼できる温かさがありました……わたしが何度も発作を起こして暴れた時も、お姉ちゃんは自分が怪我をするのも構わずに私を抱きしめて、必死に治療してくれました。……命の重さを、誰よりも分かっている人なんです。絶対に、人を死に追いやるような人じゃありません!だからお願いです。偏見や色眼鏡を外して、完全に客観的な視点でもう一度、あの相談室の映像とリストを見てください。水琴お姉ちゃんが、佐々木さんを死の淵から必死に引き戻そうとしていたことが、絶対に分かるはずですから……!」紗音はカメラに向かって、ひたすらに水琴の誠実さと信頼性を熱弁した。喋り終えたのを見計らい、琉里がそっと停止ボタ
しかし、彼らの必死の訴えも、巨大な世論の濁流の前では焼け石に水だった。むしろ「学校側に洗脳されている」「信者が擁護しててキモい」と一蹴され、炎上はさらに燃え広がる一方だった。事態の悪化を受け、その日の夜には警察が正式に介入した。水琴への事情聴取、ならびに相談室の監視カメラ映像の解析が行われ、すぐさま【佐々木友唯の自殺と静沢水琴のカウンセリングに因果関係は認められない】という公式声明が発表された。だが、この警察の発表は、事態を鎮静化させるどころか最悪の逆効果を生んでしまう。高遠財閥、総帥執務室。松霧島での大怪我を押して執務室に現れた灼也は、杖をつきながらデスクへと向かった。遠峰グループとの巨大プロジェクトが大詰めを迎えている今、彼が現場を離れるわけにはいかなかった。「灼也様。また新たな動きがありました」秘書が険しい顔でタブレットを差し出す。灼也は画面を受け取り、目を走らせた。警察の公式発表のポスト。だが、その下には目を覆いたくなるような罵詈雑言が連なっていた。【やっぱりな。上級国民は警察も丸め込めるってわけかよ。世も末だな】【今日死んだのは佐々木さんだけど、明日は我が身かもね。怖い怖い】【私も鬱病だけど、もしカウンセラーに「あと三日しか生きられないとしたら」なんて言われたら、三日後に首吊る自信あるわwww】 ……灼也は無意識のうちに、眉間を指で強く揉みほぐした。世間の同情を煽るような見事な立ち回り。水琴の言葉を巧妙に切り取った世論誘導。警察の発表すらも「権力による隠蔽」へとすり替える手口。単なる自然発生的な炎上ではない。これらのコメントの動きには、明らかに「統率された悪意」が働いている。――水琴を、社会的に完全に抹殺しようとする誰かの意思が。……一体誰が、ここまで執拗に水琴を追い詰めようとしているんだ?同じ頃、静沢グループ本社ビル。重人は緊急の広報会議を招集し、全社員に向けて厳しい口調で指示を飛ばしていた。「どんな手を使ってでもいい!今すぐネット上の水琴に関する悪意ある書き込みを全て押さえ込め!」愛する従妹が、あんな卑劣なことをするはずがない。重人には痛いほど分かっていた。だが、現実として水琴は今、理不尽な悪意の渦中に立たされ、絶え間なく石を投げられているのだ。一方、
「学長!佐々木友唯さんの死亡を受け、静沢氏にどのような処分を下すおつもりですか!隠蔽する気ですか!責任者として正面からお答えください!!」絶え間なく瞬くフラッシュの光を浴びて、和江の顔色は一層青白く、不気味なほどに生気を失って見えた。ひび割れた唇がワナワナと震え、何かを言葉にするたびに薄っすらと血が滲む。「あんたの学校の教師が……私の娘を殺したのよ!いったいどう責任を取るつもり!?」詰め寄る和江に対し、小林学長は一切の動揺を見せることなく、静かに泰然と見下ろした。「お母様。娘さんと静沢が最後に交わした会話の監視カメラ映像が、私の手元に全て残っております。もし、静沢が娘さんを死に追いやったと本気で疑うのであれば、今すぐ私と共に学長室へ来て、ご自身の目で映像を確認なさい。……真実を知りたいのであれば、まさか拒否はされませんね?」学長の毅然とした態度に、和江は一瞬たじろぎ、疑り深い目で彼を睨み返した。だが、ここで断れば世間の目が疑念に変わる。数秒の沈黙の後、和江は重々しく頷いた。横断幕を掲げる男たちを校門前に残し、和江は娘の遺影を胸に抱きしめたまま、学長と蓮見教授の後について学長室へと足を踏み入れた。しかし、部屋の奥に座る水琴の姿を目に捉えた瞬間、和江は弾かれたように跳び上がり、獣のような金切り声を上げた。「人殺し! よくも抜け抜けと私の前に顔を出せたわね!あんたの皮を剥いで、血をすすってやりたいくらいよ!ろくに大学も卒業してない小娘の分際で、いっちょ前にカウンセラー気取って私の娘を殺したのよ!!この疫病神!悪魔!!」次々と吐き出されるおぞましい罵詈雑言。だが、水琴は表情一つ変えることなく、冷ややかな視線を和江に向けていた。売り言葉に買い言葉で言い争うつもりなど毛頭ない。水琴の視線は、和江が胸に抱きしめている遺影に向けられていた。白黒の写真の中で、友唯は優しく控えめな微笑みを浮かべている。その笑顔からは、モノクロームであっても、少女らしい若々しさと希望の光が確かに感じられた。……あの日の彼女とは、全く別人のようだわ。数日前、相談室で向き合った時の友唯は、確かに生きて呼吸をしていた。だが、彼女の瞳には光がなく、まるで光の届かない深い洞穴の底で、長い間一人ぼっちでうずくまっていたかのよ
「この前半と後半で、何か違いを感じませんか?」二人の老学者が身を乗り出し、遺書の文面を食い入るように見つめる。やがて、蓮見教授がハッとしたように顔を上げた。「……なるほど。前半は死を仄めかしながらも、どこか生への執着や迷いが感じられる。だが、後半はまるで完全に未練を断ち切ったような、機械的な決別の言葉になっているな」「うむ、確かにそうだ」と、小林学長も険しい顔で相槌を打つ。「つまり、これらは一度に書かれたものではないということです。この遺書は、二回に分けて書かれている」水琴の冷ややかな声が、学長室の空気を一段と重くした。「なぜ、二回に分けて書く必要があったのか?私は、前半を書いた後……彼女の身に『何か』が起きたのだと考えています。彼女を真の絶望へと突き落とした決定的な出来事が。そしてそれは——」水琴は一拍置き、はっきりと告げた。「彼女の母親が、深く関わっているはずです」「それは……あくまで君の推測かね?」「現時点では推測の域を出ません。ですが、必ず私が真実を突き止めます」水琴の揺るぎない決意に、小林学長は深く息を吐き出し、ゆっくりと頷いた。だが、真実を追うにしても、まずは正門前で燃え盛る火を消すのが先決だ。「……とりあえず、警備員に頼んで佐々木さんの母親を中へ通しなさい。ここで話をしよう」学長の指示を受け、蓮見教授が足早に部屋を出て行った。いくら娘を喪ったとはいえ、これ以上あの異様な抗議活動を放置するわけにはいかない。しかし数分後、戻ってきた蓮見教授の表情は疲労困憊といった様子だった。「駄目です。どうしても中へは入らないと一点張りで……『話があるなら、学長自らここへ出てきて土下座しろ』と」学長室に重苦しい沈黙が落ちた。A大学の長い歴史の中で、学生が自死し、これほどまでの暴動に発展したケースなど前代未聞だ。この炎上をどう鎮火させるか。それは、A大が築き上げてきた百年の権威と名誉が懸かった、まさに絶体絶命の危機だった。A大学の正門前。威風堂々たる石造りの門を背に、中年女——和江は冷たいアスファルトの上に力なく座り込んでいた。先ほどまでの狂乱ぶりとは打って変わり、今は乱れた髪を直そうともせず、ただ膝に抱えた白黒の遺影をじっと見つめている。その背後には、毒々しい赤
それに、あの四千万円の慰謝料をふっかけた時の不自然な態度。カメラから背を向けた瞬間に見せた、あの冷ややかな目つき。嘘泣きの涙を拭いながら、彼女は確かに上着の裾を神経質に握りしめていた。それは、深い悲しみではなく「焦り」や「後ろめたさ」を示す仕草だ。一つ一つのディテールが、愛娘を喪った母親のものではない。まるで、金のために雇われた三流役者の大根芝居だ。本当に、金のためだけ……?だが、友唯の口から語られた母親像は違ったはずだ。「お母さんは私を愛してくれています。私も、お母さんが大好きです」と、友唯は確かにそう言っていた。そんな母親が、娘の死をダシにして金稼ぎの芝居を打つだろうか?水琴の視線が、机の上に置かれた遺書のコピーへと移る。前半と後半で、ぱっくりと断絶している感情の起伏。まるで、別の日に書かれたもののようだった。——いや、待って。水琴の脳裏に、閃光のような気づきが走った。別の日に書かれたもの?もしかして……水琴は、遺書の後半部分を食い入るように見つめた。後半部分は、そもそも友唯自身が書いたものじゃないとしたら……!?鋭い着信音が、静まり返った相談室に響き渡った。画面には蓮見教授の名前が表示されている。電話に出るなり、切羽詰まった声が鼓膜を打った。「水琴くん、今すぐ学長室へ来なさい」あれだけの大騒ぎになり、丸一日が経過してネット上でも取り返しがつかないほど延焼しているというのに、学長が今まで呼び出しを控えてくれていたのは、それだけ水琴を信頼してくれている証拠だろう。「はい、すぐに向かいます」躊躇うことなく、水琴は即座に席を立ち学長室へと向かった。要件は間違いなく、友唯の一件だ。学長室の重厚なドアの前では、蓮見教授が心配そうな面持ちで水琴を待ち構えていた。「大丈夫かね?怖がりはしなかったかい?」水琴は教授の温かい気遣いに、少しだけ救われたような気がして小さく微笑んだ。「蓮見先生……ありがとうございます。私は大丈夫です」そう答えたものの、水琴の顔色は透き通るほどに蒼白だった。無理もない。あんなにも若く、未来にあふれていた少女が自ら命を絶ったのだ。その衝撃と喪失感が、水琴の心を激しく揺さぶっていた。ほんの数日前、彼女は確かにこの手で救いを求めてきた。
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
水琴の睫毛が、微かに震えた。もし臣と出逢わなければ、自分は今頃、心理士として歩んでいたはずだ。だが、数年の空白がある。専門知識に錆びつきはない自信があるものの、本当にあの頃のように、自分が最も得意とした場所へ戻れるのだろうか。蓮見は、彼女の心の揺らぎを見透かしたように、穏やかな声で語りかける。「焦る必要はないさ。だが、もし君にその気があるのなら、この老いぼれも喜んで力を貸そう」「先生……ありがとうございます」胸の奥が、じんわりと温かくなる。結婚してからの三年間、一度も顔を見せられなかったというのに、恩師はずっと自分を気にかけてくれていたのだ。水琴は蓮見の体調を気遣い、し
宗一郎は湯呑みをトン、と乱暴に置く。その視線は遠くを見つめ、声には悲しみが滲んでいた。「あの子が嫁いでから、お前の母親はあれほど彼女に冷たく当たっておきながら、自分の体調が悪い時は、医者の手配から何から、毎回あの子を顎で使っていたではないか。雅が我儘を言ってはその尻拭いをさせられ、財布代わりにされて。……お前が夜更けに帰るたび、夕食を温め直して待っていたのは誰だ。あの女のせいで胃を壊したお前のため、慣れぬ手つきでスープを作り、手に大きな火傷までこしらえて……!」宗一郎は、深く息をついた。「あの子の父親が亡くなり、小林家に身を寄せていた時でさえ、あの子は誰かにあそこまで尽くしたことなどなかっ







