LOGIN彼女の金切り声に騒然とした会場が一瞬で静まり返り、ゲストたちの視線が一斉に突き刺さる。隣に座っていた一慧も、何事かと怪訝な顔で水琴を見た。異常事態に気づいた鷹司家と月城家の人間も慌てて駆け寄ってくる。臣がいち早く紗夜の肩を抱き寄せた。「紗夜、どうしたんだ?」「臣さん、この人が……!さっき式場でサインしたばかりの結婚証明書をビリビリに破り捨てて、展示してあったウェルカムボードの私の顔を、わざとズタズタに切り裂いたのよ……!」紗夜は真っ二つに引き裂かれた誓いの結婚証明書を震える手で見せつけ、彼女の後ろでは母の裕子が、顔の部分が無惨に刃物でえぐり取られた特大のウェルカムボードを青ざめた顔で抱え持っていた。会場全体が大きなどのよめきに包まれた。ここで誰もが、水琴が臣の「元妻」であることを改めて思い出したのだ。「やっぱりね。元妻がわざわざ結婚式にしゃしゃり出てくるなんて、最初からぶち壊すのが目的に決まってるじゃない」「いくらなんでも、こんな晴れの舞台でそんな陰湿な真似をするなんて!本当に非常識。あれじゃ臣さんに捨てられるのも無理はないわね」「可哀想に。花嫁さん、あんなに綺麗にメイクしていたのにすっかり泣き腫らしちゃって……」周囲から水琴への容赦ない非難が飛び交う中、紗夜はそれを味方につけるように、さらに大粒の涙をこぼした。「静沢さん……!私、あなたとも仲良くしたくてせっかく招待したのに、どうしてこんなひどい振る舞いをするの?離婚の時、あなたは信じられないくらいの慰謝料や財産を持っていったでしょう?臣さんはあなたに十分すぎるほど誠意を尽くしたわ。それでも納得がいかないなら、私をぶっても罵ってもよかったのに……こんな嫌がらせをする必要があったの!?」「こんな厚かましい女を招待したせいで、とんだ大恥だわ!」佳乃が水琴の鼻先を指差してヒステリックに喚き立てる。「最初から呼ぶなと言ったのよ!あぁ、本当に忌まわしい!」雅も勝ち誇ったように嘲笑する。「水琴、これであなたのドス黒い本性が全員にバレたわね。さあ、どう弁解するつもり?」臣は涙に暮れる紗夜を痛ましげに胸に抱き寄せ、信じられないといった目で水琴を責め立てた。「君という人間は……どうしてこんな卑劣な真似までできるんだ?」――滑稽だわ。本当に馬鹿馬鹿しい。水琴がゆっくりと立ち上がると、
雅は鼻で短く笑った。水琴が今日ここへ現れるだろうという奇妙な確信があった。水琴の目の前で、立派な兄が別の女性の夫となる瞬間を、まざまざと見せつけてやりたい。あの忌まわしい女が、いつまで強がって余裕な顔を取り繕っていられるか、見届けてやるつもりだった。水琴が披露宴会場に足を踏み入れ、受付でご祝儀を渡して中へ入ると、適当な空席を見つけて腰を下ろした。同じテーブルには見知らぬ顔ばかりが並んでいる。席に着くや否や、水琴は視線を巡らせて御堂院一慧の姿を探し始めた。昨日のニュース映像のおかげで、顔はしっかりと頭に入っている。周囲のゲストの中には、水琴の顔を見てあからさまにヒソヒソと囁き合う者も少なくなかった。それもそのはず、ここにいる客の多くは、数年前の臣と水琴の結婚披露宴にも出席していたのだ。前妻が元夫の再婚の場に顔を出すという異様な状況に、誰もが好奇の視線を向けていた。「お母様!あの女、本当に来てるわよ!」雅がいち早く水琴の姿を見つけ、佳乃の腕を力強く叩いた。佳乃は忌々しそうに水琴を睨みつける。「臣も紗夜さんも、一体何を血迷ってあんな女を招待したのやら。せっかくの晴れ舞台なのに、本当に目障りだわ!」会場のビュッフェテーブルには華やかなスイーツが並べられていたが、水琴には目もくれず、立ち上がって目当ての人物を探し歩いた。その時、太い柱の影から不意に手が伸びてきて、行く手を遮られた。「……本当に来てくれたんだな」臣だった。水琴は相手にする気すら起きず、そのまま横を通り抜けようとしたが、臣は必死に食い下がってきた。「待ってくれ、行かないで」水琴は軽蔑を込めた冷ややかな目で、臣を射抜く。「鷹司さん!今日はあなたの結婚式ですよ。ご自身の晴れ舞台で恥を晒したいんですか?」きっぱりと言い捨てて今度こそ立ち去る水琴の背中を、臣は呆然と見送ることしかできなかった。誰にも気づかれていなかったが、吹き抜けになった二階のバルコニーでは、メイクの途中である紗夜が氷のような目でこの一部始終を見下ろしていた。やがて水琴は、前方にあるテーブルで一慧の姿を見つけ出した。運良く、すぐ隣には空席がある。水琴は迷わず歩み寄り、思い切って声をかけた。「御堂院先生、初めまして……」一慧はちらりと水琴を一瞥した。「あぁ、どうも」「小林菫先輩の、兄弟子にあたる方ですよね
結局、後日行われた式で水琴がどんなドレスを着ていたのか、どれほど綺麗だったのか、今となってはまったく思い出せない。ただ、あの言葉を口にした時の水琴の、少し照れたような、それでいて愛らしい赤い頬だけが、彼の胸の奥を激しく締め付けた。胸が窒息するような痛みに襲われ、ふと我に返ると、紗夜が怪訝な顔でこちらを覗き込んでいた。「……臣さん?」「あぁ……すごく似合ってるよ」臣は慌てて取り繕い、不自然な笑みを浮かべた。深夜。ソファに座ってテレビのニュース番組を流し見していた水琴のスマホが鳴った。画面を見ると、海を越えた海外からの着信――菫からだ。「菫さん?」水琴は不思議に思いながら電話に出た。「水琴さん、夜分にごめんね」電話の向こうから、菫の穏やかで凛とした声が響く。「実は私の兄弟子が明日帰国するのよ。彼には水琴さんのことや、紗音ちゃんの症状についても大まかに話を通しておいたわ。着いたら直接連絡を取ってみて」ちょうどその時、テレビから臣と紗夜の結婚式に関するゴシップニュースが流れてきた。「――また、M国で活躍する天才心理学博士・御堂院一慧(みどういん ひさと)氏が近日帰国予定であり、この結婚式にも出席するのではないかと噂されており……」水琴はテレビのリモコンを置こうとした手をピタリと止め、はっとした。「……菫さん、その兄弟子の方のお名前って?」「御堂院一慧よ。彼は私の兄弟子にあたるけれど、年齢は私のいくつか下なの」菫はそう答えた。「わかりました、菫さん」水琴は画面から目を離さないまま、深刻な声で答えた。不可解で仕方がなかった。紗夜といい、臣といい、いったいどこでこれほど多くの気鋭の心理学者と接点を持っているのだろうか。最初は小林菫、そして今回は御堂院一慧。不思議なことに、水琴が助けを必要とする有能な人物が、いつも決まって鷹司家に関わる場所へピンポイントで現れるのだ。通話を終え、水琴は小さくため息をついた。あれほど拒絶していた結婚式への出席を、真剣に考え直さなければならない。紗音の抱えている心の病は、水琴がいくつかのアプローチを試みても根本的な改善には至っていなかった。一歩踏み込むためには、より高度な専門知識を持つ権威の分析がどうしても必要なのだ。――ホテル・サンライズ。一階のメインバンケットは、気品と華やかさに満ちた空間に設
翌日の午前。メディア関係者やSNSを揺るがす特大ニュースが駆け巡っていた。『南鳥市トップの名門・鷹司家の御曹司である鷹司臣が、離婚から日を浅くして再婚』という見出しが、早朝から現在に至るまでトレンドの上位を独占しているのだ。水琴がそのニュースを目にしたのは、A大学の心理相談室に到着した直後だった。スマホの画面をさらっと流し見したその時、相談室のドアが開き、一人の女性が姿を現した。月城紗夜だった。「月城さん。ここは本学の学生専用の相談室よ」水琴は冷たい声で牽制した。紗夜は勝ち誇ったような華やかな笑みを浮かべる。「静沢さん、そんなに敵意を剥き出しにしないで。今日は雅さんの休学手続きのために来たのよ」「休学手続きをしたいなら、この部屋を出て右へ曲がって、二つ目の建物の教務課に行ってちょうだい。私は仕事があるから」水琴は無表情のままそう言い捨てると、手元の資料を整理し始め、紗夜の存在を完全に空気のように無視した。「静沢さん、休学手続きならもう済ませたわ。ここへ寄ったのはね、あなたに渡したいものがあったからよ」紗夜は自身のブランドバッグから、一通の深紅の封筒を取り出し、水琴のデスクの上にことりと置いた。深紅の封筒には、金色の箔押しで『結婚披露宴のご案内』と記されている。その目に刺さるような金色の文字を、水琴は一瞥しただけで冷たく言い放った。「わざわざ報告に来てもらわなくても結構よ。あなたたちが式を挙げるなんてこと、ニュースを見れば誰だって知ってるわ」「臣さんも私も、本心からあなたを招待したいの」紗夜は耳元にこぼれた髪を優雅に掻き上げながら、甘ったるい声で続けた。「あなたが二人の門出を祝福しに来てくれたら、きっと臣さんも喜ぶわ」水琴は氷のような視線を紗夜に向けた。「お断りよ。さっさと出て行って。私は絶対に行かないから」紗夜は満足げにふふっと笑い声を漏らすと、くるりと身を翻して部屋を出て行った。退勤後、水琴はあの目障りな招待状をデスクの引き出しに乱暴に放り込み、大学のロータリーへと向かった。今日は紗音が友人との食事会に出かけているため、迎えの車には灼也が一人で乗っていた。「鷹司臣と月城紗夜が結婚するそうだな」運転席の灼也が口を開く。水琴は静かに頷いた。「もっと早いと思っていたくらいよ。今日わざわざ、月城さんが私のところへ
それを聞いた紗音が怒りに任せて声を荒げる。「鷹司の連中って本当に最低!どうせまた臣さんや佳乃さんが裏で糸を引いたんでしょ!」「もういいの、済んだことだから。ただ……灼也にはまた面倒をかけることになっちゃうけど」水琴はそう言って、申し訳なさそうに灼也を見つめた。水琴にくしゃっとした笑顔が戻ったのを見て、紗音は慌ててテーブルの上の箱を指差した。 「水琴お姉ちゃん、これ見て!」灼也も鷹揚に頷いてみせる。テーブルの上に置かれていたのは、一目で極上の品だと分かるアンティーク調の豪奢なベルベットの箱だった。そっと蓋を開けると、中には息を呑むほど美しいネックレスが収められていた。「兄様がオークションで落札してきたの。綺麗でしょ!『ヴォルケーノ・ハート』っていうらしいわ。こんなに大きなレッドダイヤ、私だって見たことない!」昼間に相談室で学生が興奮気味に話していたレッドダイヤとは、これのことだったのだ。しかもこのネックレスの価値は、石の大きさだけではない。今は亡きトップジュエリーデザイナー・フェイマンの最高傑作であり、かつては世界的金融王が所有していたという伝説の品である。それがまさか、南鳥市のオークション会場に流れ着いていたとは。「……本当に綺麗」水琴は感嘆の声を漏らした。「もう、兄様!早く水琴お姉ちゃんに着けてあげてよ」紗音が急かす。灼也は箱からネックレスを取り出すと、水琴の後ろに回り込み、その柔らかな髪をそっと掻き上げて留め金をつないだ。大粒のレッドダイヤとそれを囲む無数のメレダイヤの煌めきが、水琴の華奢で真っ白な鎖骨をひときわ妖艶に際立たせている。「すっごく似合ってる!」紗音はスマホを構え、色々な角度から何枚も写真を撮った。深夜。紗音が二階の自室へ引き揚げた後も、灼也は帰ろうとしなかった。ソファで甘く身を寄せ合うひとときを過ごした後、水琴は戸棚からひとつの腕時計の箱を取り出した。「これ……あなたに」だが、灼也はその箱をそっと押し戻した。「俺が君に贈り物をするのは俺の勝手だ。君が義務感でお返しの心配などしなくていい」水琴は首を横に振り、箱から時計を取り出すと、自ら灼也の腕に巻きつけた。「違うの。これは数日前から買ってあったんだから。本当は昨日渡すつもりだったのに、バタバタしててすっかり忘れちゃって……だから、お返しなん
どれほど水琴を可愛がってくれていようと、雅は血の繋がった実の孫娘なのだ。罰を受けるのは容認できても、永遠に苦しみ続ける姿を平然と見過ごすことなどできるはずがない。水琴は立ち上がり、しゃがんで痺れた足を軽く揉みほぐした。「……宗一郎様。ずっと私を大切にしてくださった宗一郎様の顔に免じて、今回は譲ります。でも、あの人が改心するかは別問題ですよ」これまで何度チャンスを与えても、雅はそのたびに厄介ごとを起こしてきたのだから。宗一郎は安堵と罪悪感の入り混じったため息をついた。「約束しよう。あいつが退院したら、わしが本家から一歩も外には出さん。お前に迷惑をかけるようなことは絶対にさせない。もし次があれば、わしはもう二度とお前に顔向けなどできんからな」本来、目上の者が下の者に許しを乞うなど、彼のプライドが許すはずもなかった。しかも相手は水琴だ。彼にとってどれほどの葛藤があったかは想像に難くない。佳乃と臣が何度も泣きつき、あの直視に堪えない動画を突きつけられでもしなければ、彼とて放っておいたはずだった。水琴は静かに頷いた。臣や佳乃の泣き落としなら冷酷に突っぱねることもできたが、宗一郎の頼みだけはどうしても無碍にはできなかった。誰一人味方がおらず、冷たい悪意に晒されていたあの頃、唯一の防波堤となり彼女を守ってくれたのは他でもない宗一郎だったからだ。「宗一郎様。雅にこう伝えてください。――もし次にまた私に牙を剥くような真似をすれば、今度は私の手で直接、彼女を刑務所へ送り込むと」言い捨てるなり、水琴は一度も振り返ることなく病室を後にした。を許す代わりに、鷹司の人間と直接顔を合わせるのもこれが最後だと決めた。宗一郎の恩は一生忘れない。しかし、かつての恩を盾にとり、同情を誘って無理に譲歩を迫るようなやり方を、水琴は到底受け入れられなかった。お涙頂戴の切り札を使ったその瞬間に、彼ら自身の手で、水琴と鷹司家を繋いでいた最後の「情」は完全に断ち切られたのだ。水琴が立ち去ると、宗一郎はゆっくりとベッドに上体を起こした。一度も振り返らないその背中を見つめ、彼女をどれほど深く失望させてしまったかを思い知る。彼は鋭い視線で臣を睨みつけた。「こんな些細な問題ひとつ、まともに処理できんとはな。そもそも雅の我儘はお前の母親が甘やかすからだ!普段からしつけろとあれほど警
書斎の外から漏れ聞こえてくる会話に、水琴は静かに目を伏せた。鷹司家に嫁いでからの日々が、脳裏をよぎる。姑である佳乃にも、義妹である雅にも、自分なりに心を尽くしてきたつもりだった。雅が事故に遭い手術を受けた時、何日も病院に泊まり込み、甲斐甲斐しく付き添ったのも自分だ。佳乃に対しては、常に敬意を払い、その言葉には注意深く耳を傾けてきた。けれど、どれだけ尽くしても、あの人たちの心を変えることはできなかったのだ。すべては、無意味だった。ふと、スマートフォンの着信が静寂を破る。小林鹿耶(こばやし かや)からだった。電話口から聞こえてくるのは、少し気だるげな親友の声。「ミコト、本当
「サインを」頭上から、冷たく低い声が響いた。目の前に突きつけられたのは、一枚の離婚届。静沢水琴(しずさわ みこと)はわずかに目を見張り、黙って鷹司臣(たかつかさ じん)を見上げると、乾いた笑みを浮かべた。ああ、そういうことだったのね。どうりで今朝、珍しく電話をかけてきたわけだ。今夜は帰る、話がある、と。一日中、胸を躍らせていたというのに、彼が伝えたかったこととは、これだったなんて……三年に及んだ結婚生活も、これで終わり。水琴は無言で離婚届を受け取ると、その紙を握る手にぐっと力が入る。しばし黙り込んだ後、掠れた声で尋ねた。「……どうしても、離婚しなきゃだめ?」臣はわず
「……ごほん。紗音ちゃん……」水琴はいたたまれなくなり、耐えきれずに咳払いをしながら声を出した。電話の向こうで騒いでいた声が、ピタッと止まる。そしてブチッ!と通話が切られた数秒後、今度は水琴のスマートフォンが鳴り出した。「み、水琴お姉ちゃん!もう具合はいいの?あのね、さっきのはただの冗談だから!本気にしちゃダメだからね!?」紗音の恐縮しきった上ずった声に、水琴は思わず吹き出した。「ふふっ……もうだいぶいいわよ。熱も完全に下がったしね」「そっか、よかったぁ……じゃ、じゃあわたし、切るね!」点滴が終わり、粥もすっかり平らげた後、水琴は再び深い眠りに落ちた。次に目を覚ました時、傍
臣はハッと我に返り、ようやく紗夜を見た。そうだな……俺は一体、どうしてしまったんだ?まるで何かに取り憑かれたかのようだった。自分がずっと愛していたのは紗夜だったはずだ。夢にまで見た愛する人が今、この腕の中にいるというのに、自分は他に何をうわごとみたいに考えているというのか。彼は誤魔化すように、紗夜をきつく抱き寄せた。彼女の髪からは、微かにクチナシの香りがした。――その瞬間、不意に記憶の扉が開いた。「どうぞ」薄暗い部屋の中、水琴が歩み寄り、おとなしく一杯の茶を差し出す。彼女の髪はまだ濡れていて、落ちた水滴が寝間着を濡らし、妙に色っぽかった。記憶の中の自分は、その茶を冷ややかに







