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06.ブーケに込めた想い

last update publish date: 2026-08-02 04:43:31

 冷たい風に背中を押されるようにして、和花は職場の花屋〝フルリール〟のドアを開けた。

「おはようございます、あずささん」

「あ、おはよう和花ちゃん。今日も冷えるわね」

 店内に満ちた甘い花の香りと心地よい暖気に包まれ、店長の白石しらいし梓が穏やかな笑顔で出迎えてくれた。

 ダークブラウンのショートボブが、作業をするたびにふわりと揺れる。耳元で控えめに光る小さなパールのピアスと、自然な血色感を生かしたナチュラルメイクが、彼女の優しい雰囲気を一層引き立てていた。

 シンプルなベージュのエプロン姿で手際よく水揚げ作業をしている彼女は、今年で35歳になる。和花にとって頼れる上司であり、時に母親のように温かく包み込んでくれる、心から慕っている存在だった。

 スタッフを頭ごなしに叱ることは決してなく、失敗しても「次はこうしてみようね」と導いてくれる。その深い包容力に、これまで和花は何度も救われてきた。

 今日はバレンタインデーということもあり、開店と同時に〝フルリール〟は多くの客で賑わい始めた。

 特に、意中の相手やパートナーにチョコレートと一緒に花束を贈ろうとする女性客の姿が目立つ。

「告白に添えるなら、赤いチューリップはいかがですか? 花言葉は〝愛の告白〟なんですよ。きっとあなたの真っ直ぐな気持ちが相手に伝わると思います」

 お客様の顔や好みを覚えるのが得意な梓は、豊富な花の知識と花言葉を交えながらお客さんに寄り添い、一本一本丁寧に花を選んでいく。その丁寧で温かな接客は、横で見ているだけでも心が和んだ。

 和花も負けじと、次々と入る花束のオーダーをテキパキとこなしていく。手早く余分な葉を落とし、色合いのバランスを見ながら手品のような手付きでラッピングを美しく仕上げていった。

 昨日から今朝にかけて起きた怒涛の出来事に心は激しく揺れ動いていたが、長年続けてきた仕事となれば自然とスイッチが入る。

 美しく咲き誇る花々と、お客様の晴れやかな笑顔に触れていると、和花自身のささくれた心も少しだけ癒やされていくような気がした。

 目の回るような午前中のピークを越え、ようやく順番でお昼休憩の時間になった。

 バックヤードの小さな丸テーブルで、和花は自宅から持参した歪な形の鮭おにぎりをラップから取り出した。

 朝、不器用な手つきで慌てて握ったせいで無惨に崩れかけているが、味は変わらないはずだ。

「お疲れ様。少し冷えちゃったから、温かい紅茶淹れたわよ」

 梓が、ふわりと湯気を立てるマグカップを和花の前にそっと置いてくれた。

「ありがとうございます、梓さん」

 アールグレイの芳醇な香りを胸いっぱいに吸い込み、冷えた指先を陶器のカップで温める。

 ほっと一息ついておにぎりを頬張った和花の顔を、梓は向かいの席からじっと観察するように見つめていた。

「……あら〜? なんだか和花ちゃん、今日は不思議な顔してるわね」

「えっ?」

「なんていうか……すごく悪いことと、すごくいいこと、両方いっぺんにあったような顔。何かあった?」

 恋愛ごとや人の心の機微に鋭い梓の唐突な指摘に、和花は思わず鮭おにぎりを喉に詰まらせそうになった。

「ゴホッ、ゲホッ……あ、あの、実は……」

 どこまで話すべきか迷ったが、いつも見守ってくれている梓に嘘をつくことはできなかった。

 和花はマグカップを両手で包み込みながら、ぽつりぽつりと話し始めた。

 昨日、仕事を終えて帰宅したところ、夫の不倫現場に出くわしてしまったこと。そして、その日のうちに離婚届を提出してきたこと。

「……そんなことがあったの。和花ちゃん、ずっと頑張って彼を支えていたのにね」

 梓は驚きに目を丸くした後、何も詮索することなく、ただ痛みを分かち合うように優しく相槌を打ってくれた。彼女の底知れぬ優しさに触れ、和花の目の奥がツンと熱くなる。

「でも……なんでだろう。不思議とあまり悲しくはないんです。それに……」

 和花は少しだけ視線を落とし、頬をほんのりと桜色に染めた。

 頭の片隅に、理聖の端正な寝顔と、額に落とされた甘い口づけの感触が蘇る。

「……その日のうちに、少しだけ不思議な新しい出会いがあって。まだ、どんな人かはよくわからないんですけど……」

 さすがに、拳銃を持った記憶喪失の美青年を拾い、あまつさえ身体を重ねてしまったなどとは口が裂けても言えない。

 和花は詳細をぼかして伝えたが、梓の目はすでに面白そうなものを見つけたように細められていた。

「なるほどねぇ。それはやっぱり、捨てる神あれば拾う神あり、ってやつかしら」

 梓はニヤニヤと笑いながら立ち上がると、売り場の方へと歩いていった。

 そしてすぐに戻ってくると、小さな可愛らしい箱と、リボンが結ばれたミニブーケを和花の手の中にそっと乗せた。

「梓さん、これは……?」

「私からのバレンタインチョコ。それとね、これから新しい一歩を踏み出す和花ちゃんへのエールよ」

 手渡された小さなブーケには、淡いピンク色のガーベラと、可憐な白いかすみ草がふんわりと束ねられていた。

「ピンクのガーベラの花言葉は、〝前進〟。それに〝希望〟よ。和花ちゃんのこれからの毎日に、たくさんのいいことがありますようにって、祈りを込めてね」

 梓の温かい心遣いと、鮮やかなピンク色に彩られた希望の言葉。

 和花は溢れそうになる涙を必死に堪えながら、その小さなブーケを胸にぎゅっと抱きしめた。

「……ありがとうございます、梓さん。私、なんだか頑張れそうな気がします」

 窓の外の抜けるような青空のように、和花の心の中にあった分厚い雲が、少しずつ確実に晴れていくのを感じていた。

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  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   37.剣より鋭い忠告

     庭園の池を望む広い縁側を開け放ち、佐伯家の家族と神崎蒼士、そして数十人に及ぶ門下生たちが一堂に会して昼食の席を囲む。 シェフが丹念に腕を振るった懐石仕立ての料理はどれも絶品で、かつて一花の手料理で地獄を見た経験のある門下生たちは、涙を流さんばかりの安堵と喜びを噛み締めながら箸を進めていた。 和やかな会食が終わると、お茶を片手に一息つく和花の周りには、屈強な体躯を誇る門下生たちが次々と列をなして挨拶にやってきた。「和花先輩、久しぶりにお会いできて光栄です! 先ほどの模擬戦、流石の剣捌きでした!」「和花さん! また道場で稽古をつけてください。先輩の投げ技、今でも俺たちの目標なんです!」 道場着を崩した大柄な男たちが、誰もが瞳に尊敬の光を宿し、深々と頭を下げていく。 佐伯家の一人娘という立場だけではない。和花は幼い頃から厳しい鍛錬を重ね、並みいる成人男性を投げ飛ばして有段者の地位を勝ち取った本物の実力者だ。 その卓越した武術の腕前と、誰に対しても分け隔てなく接する思いやりのある人柄が、門下生たちの絶大な信頼と人望を集めている何よりの証拠だった。 後輩たちの熱烈な挨拶攻勢をなんとか終えた和花は、人いきれから逃れるように広間を抜け出し、庭園を望む静かな廊下の欄間に背を預けた。「大人気じゃん、和花」 ふと隣から声をかけられ振り返ると、冷たいお茶を入れたグラスを片手にした蒼士が、柱に寄りかかって眠たげな視線を向けていた。「みんな大げさなのよ。少し道場を留守にしていただけなのにね」「何言ってんだよ。お前が強いのは誰よりもこいつらが一番よく知ってるからな」 蒼士はグラスの氷をからりと鳴らし、少しだけ声のトーンを下げて和花の横顔を見つめた。「……なぁ、和花。離婚したんだって?」「うん……」 核心を突かれた和花は、少し困ったように視線を落とした。「お父さんたちの反対を押し切ってまで結婚したのに、結局最後は不倫されておしまいよ。本当に、恥ずかしいったらありゃしない」 自嘲気味に笑うと、隣に立つ蒼士から瞬時にして鋭い空気が放たれた。「はぁ? なんだそりゃ。……相手の男、殺そうか?」 穏やかな声音でありながら、その言葉には背筋が凍りつくような本物の殺意が滲んでいた。 和花は蒼士の門下生筆頭としての凄まじい実力を知っているだけに、慌てて両手を振った。

  • 離婚直後に拾った彼は、私を溺愛する危険な同居人でした   36.父の教え、母の歓迎

    「そこまで」 源蔵の一声に、和花と蒼士は即座に動きを止めた。 両者は木刀を右手に携えて一歩退き、深く立礼を交わす。「ありがとうございました」 互いの健闘を讃える礼が終わると同時に、腕を組んで戦況を見つめていた源蔵が、床板を踏み締めながら道場の真ん中へと進み出た。「和花。俺が直々に稽古をつけてやろう」 その言葉に、道場の周囲で稽古に励んでいた多くの門下生たちの間に、張り詰めた緊張が走る。 和花は居住まいを正し、道場正面の上座へと一礼したのち、源蔵と向かい合って正座し、木刀を右側に置いて深く手をつく座礼を行った。 互いに立ち上がり、木刀を両手で握り締めて間合いをとる。「――はじめっ!」 掛け声とともに打ち合わさった瞬間、和花は全身の骨が軋むほどの衝撃に目を見張った。 ただ重いのではない。源蔵の振り下ろす木刀は、ひとつひとつがまるで巨大な岩山を力任せにぶつけられたかのような、途方もない質量を伴っていた。 剣速は鋭く、間合いを潰す足捌きには微塵の隙もない。(うっ……重い……っ!) 受け流そうとしても、打ち合うたびに手のひらが痺れ、手首から肩へと激痛が突き抜ける。 和花は必死に歯を食いしばり、絶対に木刀を手放すまいとくらいついたが、あまりの威圧感に足が後退し、心の中でわずかに怯えが生まれた。「……その程度か? 鈍ったな、和花」 冷徹な声が降ってきた次の瞬間だった。 源蔵の放った一閃が、和花の防御を容易く打ち破り、桁違いの重撃となって手元へ炸裂した。 強烈な衝撃に指の力が弾け、和花の木刀が宙を舞う。空虚な回転音を響かせた樫の木が、数メートル先の板張りの床へとカランと転がった。 呼吸を乱し、自身の両手を見つめて立ち尽くす和花に向け、源蔵は木刀を下ろして厳しい眼光を注ぐ。「相手の打突を、腕の力だけで受けようとするな。重心が浮いて足裏の踏み込みが甘くなっているから、衝撃に耐えきれないのだ。もっと丹田に気合いを沈め、大地を捉える足捌きで刃筋を殺せ」「はい……っ、ありがとうございます」 武道家としての的確で容赦のない指導に、和花はしゅんと肩を落として小さく返事をした。 街での生活が続き、無意識のうちに姿勢や重心の置き方が甘くなっていたことを痛感させられたのだ。 落ち込む和花から視線を外さず、源蔵は満足そうに少しだけ口元を緩めた。 その

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