華side:
「え?東京の家を引き払ったの?」 プロポーズされてからしばらくして、私が返事をする前に、護さんは長野の別荘の麓にあるファミリー向けのマンションを購入した。 「うん。ここだったら高速もすぐに乗れるし、慶くんや碧ちゃんの通園にも支障がないと思って」 そう言って新しいマンションを嬉しそうに案内してくれた。 瑛斗が訪ねてきてから、護さんは頻繁に別荘に来るようになり、私は彼の身体を心配していたがまさか引っ越してくるとは思わなかった。そして単身ではなくファミリー用にしたのも、私や子どもたちが住むことも視野に入れてのことだろう。 私は、護さんの行動に驚きを隠せないでいた。 購入した物件は、別荘に比べてアクセスも良く、周辺には大きなスーパーやショッピングモールもあり、専属の運転手がいなくても買い物にも困ることはなさそうだった。 私は、子どもたちが幼稚園に行っている間に、護さんと一緒にマンションの部屋を掃除したり、引っ越し準備を手伝った。護さんが休みの日は、近くの家具店へ二人で出かけ、新しいソファーやカーテン、ベッドを選んだ。 「こうしていると、なんだか新婚の気分だよ」 私の手を繋ぎながら、そう言ってはにかんで喜ぶ護さんが可愛くて私も微笑み返した。 家の中は、一緒に選んだ家具やお揃いのグラスなど少しずつ二人の物で埋め尽くされていった。部屋のあちらこちらに思い出が出来ていく。 そして、護さんが休みの平日はこのマンションで二人きりで過ごすようになり、子どもたちのお迎えの時間になると一緒に別荘へと帰り、次の日の朝まで過ごすようになった。 次第に私の生活は、護さんと過ごす時間で埋め尽くされていった。訴えを起こしてきた女性は、音声データの存在を告げられると、その態度を一変させたらしい。電話口での声も弱々しく、言葉に詰まり動揺の色が明らかだったという。そして、数日後、彼女の方から「訴えを棄却したい」と連絡を寄こした。理由を尋ねると、彼女は涙ながらに語ったという。「退職後に色々なことがうまくいかなくて、自分を嫌になっていました。そんな時に子会社へ出向したはずの相原さんが、退職理由を尋ねてきて私の話に真剣に耳を傾けてくれたんです。」「その時、勝手に相原さんが自分と同じ境遇を味わった仲間のように感じました。でも、その後、元のポジションよりも昇格して親会社に華々しく戻っていることを知り、一向にうまくいかない自分と比べてしまい、とても羨ましかった。その羨む気持ちが、いつしか恨みに変わってしまったんです。……本当に申し訳ありませんでした」(彼女の証言が真実かどうかは分からないが、完璧で人望の厚い空のような人物でもこんな風に恨みを買うことがあるんだなんて……)一連の騒動はすぐに解決し会社への影響もなかった。だが、俺は今回の件に少なからず動揺していた。空の人間性に対する信頼は揺るがないが、人の心の脆さや嫉妬という感情の恐ろしさを改めて痛感した。「全員分の録音データを残しておいたなんて、さすがだよ」数日後、空と二人きりで事業の打ち合わせを終えたタイミングでそう話しかけた。しかし、空は今回の件にショック
「相原専務、私は専務のことを信じているが、今回の件について、君からも話を聞かせてくれないか」人事部門の役員がいる手前、俺は空のことを「相原専務」と呼び真偽を尋ねた。緊張した面持ちでじっと空を見つめると、空から『大丈夫だよ』と言っているかのような穏やかな視線が返ってきた。「今回の件ですが、十分に配慮したつもりですが、不快に思わせてしまったのは私に落ち度があったと思います。申し訳ございません。しかし、訴えにあるような性的な会話は一切しておらず、接触ももちろんありません」空は落ち着いた口調で、キッパリと断言した。「そして、証拠となるものがないとのことですが、私の方で今回のヒアリングした相手との全ての音声データを残しています。この録音は、報告時に私が故意に事実を隠蔽したり、細工したりはしていないと示すために保管しておいたものであり、業務報告以外では一切使用していません。ファイルのログイン履歴などを調べていただいても結構です」「そうなのですか!それではその音声をすぐに我々で解析して……」役員は安堵の表情を見せたが、空は冷静にそれを遮った。「そのことですが、こちらが勝手に音声を聞いたら、それもプライバシーの侵害と訴えられかねません。ですので、音声データがあることと真相を確かめるため、確認していいか承認を得てからの方がいいかと。データの存在を知ったら、考えを改めるかもしれません。」
ドンッ―――「空がセクハラで辞めた人間から訴えられた?そんなわけあるはずがない!!!」ある日の午後、俺の元に入ってきたありえない話に声を荒げ否定した。空がそんなことをするはずがない。きっと何かの間違いだ。俺は当事者の空と人事部門の責任者をすぐに呼び出し、詳細を聞くことにした。二人が部屋に入ってくるなり、俺は眉間に皺を寄せたまま尋ねた。事の顛末は、こうだった。空が、2年前に辞めた元女性社員に連絡を取り退職理由を尋ねた。「個人的な理由」と元女性社員は答えたが、空は「本当の理由が別にあるなら教えて欲しい」と執拗に尋ねてきた。そのやり取りを不快に感じ、ハラスメントだと訴えてきたらしい。そして、ハラスメントがあったとされる日時は、俺が空に「退職者から理由を聞いてほしい」と指示してから、すぐのことだった。「一時、退職率が急激に上がった時期があったため、俺が退職者から理由を聞いてほしいと相原専務に頼んだんだ。辞めた人間の中には相原専務が育てた人材も多くいたので関わりがない人間が聞くより本音で話をしやすいと思ってね。それで……セクハラというのは具体的にどんなことをされたと言っているんだ?」俺は、経緯を人事部門の役員に説明した。役員は、自分が知らないところで空が動いていたことに最初は不満の色を表していたが、今回の訴えの件について言及すると苦い顔をしている。
結婚後、明らかに変わった俺への態度と社内の人間や取引先に対するハラスメントまがいの高圧的な対応。以前は、今まで知っていた玲との別人ぶりに驚くばかりだったが、最近では、今の姿こそが本当の顔だったのではないかと思うようになってきた。空との連携で玲の不正を暴こうとする中、玲が張り巡らせてきた嘘の網が、少しずつ解け始めている気がしていた。母の誕生日の前日、玲から「仕事でトラブルがあり、急遽泊まりで帰れない」と連絡が来た。しかし、トラブルの報告など俺のところには一切上がってきていない。空や他の上層部の人間にも確認したが詳細を知る者はいなかった。結局、玲は誕生日当日、いつもより二時間ほど遅く帰宅した。そして、トラブル先の神戸で買ったという有名店の焼き菓子を母にプレゼントしていた。「あら、神戸まで行ってたのね。大変だったわね、お疲れ様。ありがとう」と母は嬉しそうに受け取っていたが、俺は、玲が嘘をついていることを確信した。後日、どんなトラブルだったのか何度尋ねても、玲は「大事になる前に対処できたから問題ないわ」と、内容を話そうとしない。その不自然さは、まるで自分を疑ってくれとでも言っているくらいに滑稽だった。高校時代、俺に何度もお菓子のプレゼントをくれていた相手は別にいる、そして本当は華だったのではないか、という思いが日に日に強くなっていた。(それにしても、「仕事のトラブル」だなんて、あまりにも分かりやすすぎる嘘をついたのは何故だ。もっと他の言い訳もできたはずなのに。焦りで嘘を繕う余裕がなくなってきている
書斎にて仕事をしていたが、一息つくために部屋を出て廊下を歩いていると、普段使っていないはずの来客用の部屋の扉がわずかに開いていることに気づいた。不審に思い、静かにその部屋へと近づくと、中からひそひそと誰かと電話をしているらしい玲の声が聞こえてきた。電気もつけずにスマホのわずかな光りが、彼女の頬と肩を青白く照らしている。(こんなところで、こそこそと何をやっているんだ?)俺は息を殺し、耳を澄ました。「いい?しっかり監視して。不審な点があったらすぐに報告して。いいわね?」声は抑えられていたが、その語気は鋭く、確実に「監視」という言葉が聞き取れた。玲は一体、誰に、誰を監視させるように指示しているのか。一抹の不安と、背筋が凍るような疑問が募る。『玲が誰かに監視の依頼をしている電話を聞いた。注意してくれ』俺はすぐさま空にメッセージを送った。玲のハラスメントや横暴を抑制するため、空に社員との間に入ってもらったり、問題点を指摘する役目を依頼していた。そのおかげで、社内の風通しは良くなったが、その分、玲からは俺と空の二人とも恨まれている可能性が高かった。プライベートでは、玲は両親に気に入られようと必死で、一条ホールディングスでの副社長の立場を今よりも強固にすべく、俺の業務や決定権を譲渡して欲しいと父に懇願している。さらに、彼女は保有株を増やし株主として一条グループを支配することも画策しているようだった。
華side: 「え?東京の家を引き払ったの?」 プロポーズされてからしばらくして、私が返事をする前に、護さんは長野の別荘の麓にあるファミリー向けのマンションを購入した。 「うん。ここだったら高速もすぐに乗れるし、慶くんや碧ちゃんの通園にも支障がないと思って」 そう言って新しいマンションを嬉しそうに案内してくれた。 瑛斗が訪ねてきてから、護さんは頻繁に別荘に来るようになり、私は彼の身体を心配していたがまさか引っ越してくるとは思わなかった。そして単身ではなくファミリー用にしたのも、私や子どもたちが住むことも視野に入れてのことだろう。 私は、護さんの行動に驚きを隠せないでいた。 購入した物件は、別荘に比べてアクセスも良く、周辺には大きなスーパーやショッピングモールもあり、専属の運転手がいなくても買い物にも困ることはなさそうだった。 私は、子どもたちが幼稚園に行っている間に、護さんと一緒にマンションの部屋を掃除したり、引っ越し準備を手伝った。護さんが休みの日は、近くの家具店へ二人で出かけ、新しいソファーやカーテン、ベッドを選んだ。 「こうしていると、なんだか新婚の気分だよ」 私の手を繋ぎながら、そう言ってはにかんで喜ぶ護さんが可愛くて私も微笑み返した。 家の中は、一緒に選んだ家具やお揃いのグラスなど少しずつ二人の物で埋め尽くされていった。部屋のあちらこちらに思い出が出来ていく。 そして、護さんが休みの平日はこのマンションで二人きりで過ごすようになり、子どもたちのお迎えの時間になると一緒に別荘へと帰り、次の日の朝まで過ごすようになった。 次第に私の生活は、護さんと過ごす時間で埋め尽くされていった。