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第二章:雨待つ凪に芽吹くものは③

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-18 07:40:09

 青藤に浅縹。薄浅葱に薄花色。薄水色に楝色おうちいろ。朧花色に甕覗。雨の季節を思わせる色の奔流に澄花は目を奪われた。

 いかがですかな、と反物を並べながら、殿茶色の紗着物に身を包んだ紺色の髪の中年の男はにこやかに澄花に尋ねた。

 彼の名は天水てんすい。時雨が澄花のために墨江川すみえがわの水神・翠雨すいうの元から寄越してもらった仕立て屋だった。

 こちらはいかがでしょう? こちらは? と澄花の脇に控えた水鞠は反物を手に取って澄花の身体にあてがっていく。水の浮力を受けた反物の端がはらりとたなびく。水鞠が手にした反物は素人目にも上等なものだと容易にわかった。

「水鞠さん、わたしにそのような着物はもったいないです。ただでさえ、箪笥の中にまだ袖を通していない着物もあるのに……」

「いえいえ、よろしいのですよ。澄花様がお気に召すものがあれば、何着でも仕立てて良いと仰ったのは時雨様なのですから。澄花様もご覧になってください」

「で、でも……」

 なおも尻込みし続ける澄花に、天水は人好きのする笑顔を浮かべると、そうですぞ、と畳み掛けた。

「先代の樹雨きさめ様――時雨様のお父上には大恩ある身です。樹雨きさめ様がお亡くなりになられ、私は翠雨様の眷属となりましたが、それでも樹雨きさめ様への感謝は忘れてはおりませぬ。どうか樹雨きさめ様への恩を返すためにも時雨様の奥方である貴女の着物を仕立てさせていただけないじゃろうか。この天水にはそれくらいしかできないのです」

 そう訴えかけられては澄花も強くは出られなかった。澄花はふと目に止まった薄花色の反物を手に取る。白や水色で染め抜かれた紫陽花の柄が可愛らしく、雨が降り出す前の空のようなくすんだ色も地味になりすぎない。

「ほう、それがお気に召しましたか」

 天水は相好を崩す。それでしたら、と彼は柳行李の中から着物に合いそうな帯や小物を取り出した。

「このお着物でしたら、銀鼠の帯に藤色の帯締めなどいかがでしょう。洗練された雰囲気になりますぞ」

 いえ、と水鞠は違う色の帯と帯締めを手に取る。

「澄花様でしたら、こちらの紅藤色の帯に山吹色の帯締めがお似合いになられるかと思います。澄花様のお可愛らしさが引き立ちますよ」

「いやいや、聞けば奥様は十八歳でいらっしゃるとのこと。お可愛らしいのも良いですが、時雨様の横に並び立つのであれば、相応の気品というものを――」

 天水も水鞠も双方譲らない。二人とも穏やかな笑みを浮かべているはずなのに、目が笑っていなかった。部屋を満たす水の気配が冷たいものに変わっていく。

 すっと澄花の部屋の外に人の気配が立つ。障子に映る長身痩躯の人影は時雨のものだった。

「澄花、私だ。入っても良いか?」

 はい、と澄花が返事をすると、すっと障子を開けて時雨が入ってきた。その手にはいくつもの書物が抱えられている。時雨は部屋の空気が北の海のような冷たさを帯びていることに気がつくと、訝しげに片眉を上げる。

 時雨は畳の上に広げられた反物の数々に目をやる。そして、天水の姿を認めると声をかけた。

「天水、息災であったようで何よりだ」

樹雨きさめ様がお亡くなりになって以来ですから、三百年ぶりくらいですかな。時雨様もすっかり水神としての貫禄が身につかれて、在りし日の樹雨きさめ様を思い出します」

「世辞などいらない。私は今も昔も弱く未熟な神のままだ。

 それはそうと、今回は翠雨殿にはご迷惑をおかけしたな。すまないが、翠雨殿にはよろしく伝えておいてくれ」

 ご迷惑だなんてとんでもない、と天水は優しい目を時雨に向けた。その眼差しはなんだか若い甥を見る叔父のようだと澄花は感じた。

「時雨様が奥方をお迎えになられたこと、翠雨様は大層喜んでおられましたぞ。お祝いにいくらでも仕立ててやるといい、と最上級の反物を行李いっぱいに翠雨様は持たせてくださいました」

「そうか。感謝する。ところで、どれを澄花の着物に仕立てるのかはもう決まったのか?」

 それが、と水鞠が口を挟んだ。

「澄花様が薄花色の反物をお気に召されたのですが、帯と帯締めの色をどうするかで、天水殿と意見が食い違っておりまして……。時雨様はやはり、澄花様はお可愛らしいほうがお好みですよね?」

「いやいや、水神の奥方ともなれば、相応の気品も――」

 水鞠と天水がぐいと時雨に迫る。しかし、なんだそんなことかと言わんばかりに時雨はこんなことを口にした。ぴんと緊張していた空気が水の中に霧散していく。

「どちらもあがなえば良いではないか。どちらを身につけるかはその時の澄花の気分で使い分ければいい。あと、私としてはそこの楝色(おうちいろ)の反物と薄浅葱の反物も好きだ。澄花の着物として仕立ててくれ」

 紺藤と花緑青も良いな、と時雨は長く骨ばった手で反物を指し示していく。このままではとんでもない枚数の着物を仕立ててもらうことになりそうで、澄花は慌てて時雨に待ったをかけた。

「時雨様! そんなにいただけません!」

「何故だ? 澄花の好みではなかったか?」

「いえ、そんなことは……」

 時雨の選んだ反物はどれも美しく、心惹かれるものばかりだった。だからこそ、受け取れなかった。自分はそんな美しい着物に相応しくない。

「なら、受け取って欲しい。私が澄花に贈りたいんだ。――駄目だろうか?」

 時雨の美しく透き通った青藍の双眸が澄花を射抜く。澄花は何も言えなかった。時雨のその目を向けられるとなんだか全身がむず痒くて逃げ出してしまいたくなる。

 お可愛らしいご夫婦ですなあ、と二人のやりとりを見ていた天水が感想を述べる。そうでしょう、と水鞠は彼の言葉を肯ずる。

「水神としてはご立派になられたが、斯様な娘一人口説けないとは男としてはまだまだ青くていらっしゃる」

「そこが初々しくてよろしいんですよ。お二人とも、きっと気づいていらっしゃらないでしょうけれど――」

 水鞠はとあることを天水に耳打ちした。すると、納得したのかなるほどと天水は大きく頷いている。

「と、ところで時雨様は何か御用があったのでは……?」

 澄花が話を変えると、そうだった、と時雨は手に持った書物を彼女に渡した。これは? と澄花は首を傾げる。

「これは雨乞いの儀式に関する書物だ。急で申し訳ないが、明日の夜、雨乞いの儀式を執り行うことになった。それまでに目を通しておいて欲しい」

「わかりました。ところで、その儀式でわたしは何をしたらいいんですか? わたしの力が必要だということはわかっているのですが……」

「君はただ私と共にいてくれれば良い。……いや、違うな。一つ、君に協力してもらわねばならないことがある」

「なんですか?」

 時雨は申し訳なさそうな顔で"そのこと"を澄花に説明した。澄花の表情がみるみる強張り、顔色が紅潮していく。つられるようにして、時雨もなんだかそわそわと落ち着かない気持ちになった。二人の周りを舞う水泡がぱちぱちと弾けては、新たなあぶくを生んでいく。

「なるほど、これは確かに初々しくてお可愛らしいですな」

「天水殿もそう思われますでしょう?」

 水鞠と天水の生暖かい視線が背中に突き刺さる。澄花はあの日、時雨の手を取ってしまった己を初めて呪わしく思った。

(無理無理無理無理ーっ!!)

 白い湯帷子に身を包んだ澄花は全身を水で打たれていた。見上げる先には川の中だというのにごうごうと流れ落ちる瀑布がある。水音が静謐を裂く。澄花の視界は水飛沫の白で染まっていた。

 ここは時雨の屋敷の離れの裏だ。そこで今夜の雨乞いの儀式に備えて澄花は禊をしていた。

 穢れを断つために今朝から食事は抜いている。後はこうして身を清めて支度を整えるだけなのだが、なかなか覚悟が決まらない。

(だって絶対無理だって、恥ずかしすぎる……! 色々な人が見ている前でそんな破廉恥なこと……!)

 澄花には恋愛経験がない。昨日、時雨が持ちかけてきたそのことは、澄花にとってはメッセージアプリで日々他愛もない会話をし、一緒に出かけ、手を繋ぎ、食事をしたその延長線上にあることだった。

 時雨のことは決して嫌いではない。不器用ながらも自分に良くしてくれようとしてくれているのが伝わってくる。だけど、異性として好きかと言われると途端にわからなくなる。

(これがわたしの役目。割り切って受け入れないと……)

 これはあくまで契約だ。時雨とはそういう契約でここにいるのだ。澄花はその事実を頭に刻み込み直す。その事実がなぜか少し悲しく感じられた。

 流れ落ちる水が、髪を、湯帷子を、肌に張り付かせた。自分の頬を濡らしているのが何なのか、澄花は考えたくもなかった。考えてしまえば、開けないようにしていた扉をうっかり開いてしまいそうだった。

 滝の中に澄花は座り込むと膝を抱える。聴覚を満たす水の音は時雨の声に似ていた。たったそれだけのことでほんの少し気持ちが落ち着くような気がした。大丈夫だ。怖がらなくていい。そう言ってくれている気がした。

 いつまでそうしていただろうか。川面から差し込む陽の光はいつの間にか金色へと色を変えていた。

 このまま水の中に溶けてしまえればいいのに。そんな思いに後ろ髪を引かれながら、澄花は立ち上がる。足元の水がざぷりと鳴った。

 離れの中では、水鞠が支度のために待っている。澄花は足袋のまま玉砂利を踏んで歩き、沓脱石(くつぬぎいし)に足をかける。そして、縁側に上ると澄花は障子を開いた。

「お待たせしてすみません、水鞠さん」

「いえいえ、とんでもございません。それでは澄花様、お支度を進めましょうか」

 どうぞ、と水鞠は肌襦袢と長襦袢、新しい足袋と清潔なタオルを澄花に渡す。波の模様が彫られた衝立の向こう側で澄花は濡れそぼった湯帷子と足袋を脱ぐと華奢な裸身を拭っていった。

 澄花は身体を拭くと、手早く新しい足袋を履き、肌襦袢と長襦袢を身につける。長襦袢の衿には常とは違い、朱色の掛衿(かけえり)が縫い付けられていた。

「それでは澄花様、失礼いたしますね」

 水鞠は濡れそぼった澄花の髪をタオルで包むと、白衣びゃくえ差袴さしこを手早く着せていく。白衣の上から白無地の千早を着せかけると、胸の前で朱色の紐を結んだ。

 続けて水鞠は澄花の髪を包んでいたタオルを解くと、櫛を通していく。そして澄花の髪を後ろで一つに纏めると、水鞠は水引きで結える。うなじから垂れ下がった髪は和紙で包み、その上から熨斗紙をつけて絵元結いにした。

 文机に置いていた化粧道具を取ると、水鞠は澄花の肌に軽く粉をはたいた。そして、目元と唇に紅を差していく。化粧をしたことのない澄花はたったそれだけのことなのに、自分が自分ではない誰かに変わっていってしまう気がした。

「澄花様、少々屈んでいただけますか?」

 澄花は言われるがままに朱色の袴の裾を広げて座る。水鞠は瑞雲の意匠が施された金の前天冠を澄花の頭に被せた。そして、彼女は冠に菖蒲の生花を何本も挿していった。一気に頭が重くなるのを澄花は感じた。これが契約とはいえ、時雨の傍らに立つ責任の重さなのだと思った。

「――澄花様。できましたよ。大変素敵です」

 枠に波模様が施された姿見の前に立つと、見知らぬ少女が不安げな顔で自分を見ていた。時雨は儀式の場でただ一緒にいてくれればそれでいいと言っていたが、自分が時雨の役に立たなかったらどうしようと思うと波のように不安が押し寄せてきた。彼女の不安を示すように水がゆらゆらと揺れ、視界に映る景色を歪める。

(――わたし、嫌なんだ。今のこの居場所がなくなってしまうのが……)

 もし、雨乞いの儀式で澄花の力が役に立たなければ、時雨は自分をこの屋敷から追い出すかもしれない。儀式でのあの行為を恥ずかしく思っているのは本当だが、それ以上にそんなことをこの期に及んで心配していた。

(……わたしは、本当にちっぽけだ)

 水神の妻であると言っても感覚は所詮高校三年生の少女のままだ。水神である時雨とは見ているものが違いすぎる。

 自分の矮小さを澄花は恥じた。ぎゅっと握った手のひらに爪が突き刺さる。儀式の刻限は刻一刻と迫っていた。

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