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第六章:見えない銀河に幸せを祈る⑤

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-21 20:39:52

 ぴちょん、ぴちょんと水面を水滴が跳ね、波紋が広がっていく。雲で覆われた空が泣いていた。催涙雨が別たれた恋人たちの年に一度の逢瀬を阻んでいた。

(雨、か……)

 今朝、時雨から贈られた着物に袖を通した澄花は下駄を履きながらそんなことを思う。かつてはあんなに憎んだ雨も、今となっては愛しいあの人の囁き声のようだ。

 もうこれからは絶対に引き返せない。引き返してはならないのだ。澄花は己にそう言い聞かせると、玉砂利を鳴らし、御霊石ごりょうせきの祀られている祠へと向けて中庭を横切っていく。

 祠の前にはこの屋敷に住まう面々が勢揃いしていた。お待たせして申し訳ありません、と澄花が声をかけると時雨がこちらを振り返って口元を綻ばせた。

「――澄花。着てくれたんだな。今までに見た中で――一番綺麗だ」

 華やかな着物に少し気後れしていた澄花はありがとうございます、とはにかんだ。二人は視線が交錯すると頷きあう。――それは二人にとってのさよならの合図だった。

「さて、澄花。儀式を始めよう。――私と君にとっての最後の儀式を」

「はい……時雨様」

 澄花は漣と何回も確認を繰り返した通り、御霊石ごりょうせきへと手を翳した。そして、今日この日まで頭に刻み込み続けた祝詞を誦じ始めた。

「――吾は雨に愛されし巫女、この地に恵みをもたらす存在なり。この地を守りし水の神よ、吾が手を取り、渇いた大地を潤す力を受け取り給え」

 澄花の横に並び立つと、時雨も御霊石ごりょうせきへと手を翳す。かすかに手と手が触れ合った。澄花の声に時雨の言葉が重なっていく。

「――愛しき巫女よ、清き祈りのすべてを我へ。その力の全てを以て、我はこの地を守り、水の恵みをもたらすことを誓わん」

「この力は清流のごとく、汝の身を満たすだろう。この地に繁栄が千歳(ちとせ)の間、齎されることを吾は希う。次の千年、その次の千年を水の恵みがこの地を守ることを夢見んとす」

「我に力を、この地に恵みを。汝の祈りは力となり、我の中に満ちるだろう。水を司る者の名において、この地を雨で守ることを誓わん」

 二人は唇を交わし合った。雨催あまもよいの巫女と水神の間で一つの契約が成る。

 御霊石ごりょうせきが青く輝き始めた。それは澄花が見たことがないほどに眩い光を放っていた。

 澄花の中を何かが走り抜けていく。自分の中を激しい流れが通り抜けていく。それはあたかも嵐に見舞われた激しい川の流れのようだった。

(これがわたしの力……)

 澄花の力が流れ込んでいくに従って、御霊石ごりょうせきが姿を変え始めた。最初は片手に収まるほどの小石だったのが、両の手をはみ出すほどの石になる。一抱えほどもある大きな石へと姿を変えたかと思えば、それはみるみるうちに澄花の身長を超える高さの大岩へと変貌した。

 御霊石ごりょうせきは澄花の力を受けて大きくなり続ける。頭上でちゃぽんと川面が揺れる音がした。時雨の御霊石ごりょうせきは今や、猛川たけりがわに浮かぶ小さな島と成り果てていた。

 澄花はすうっと身体を通り抜けていく奔流が収まっていくのを感じた。御霊石ごりょうせきから放たれていた眩い光が静かに夜の闇に溶けていく。

 時雨のぬばたまの髪が青い光を纏っていた。頬は色づき、顔には精気が溢れている。透き通った青藍の双眸はきらめきを放っている。

 ありがとう、と時雨は澄花にだけ聞こえるように囁いた。――愛してる、とも。

 大好きでした。大好きです。澄花もそう囁き返す。時雨は一瞬切なげな表情を見せると、息を吸った。

「――契り紡ぎし水の糸よ、番われし二人を別て。我、時雨は水の神の名の下に、愛しき者との契約を解き放たんとす。二人は今この時より、別の道を歩まんとす――」

 静かに唱える時雨の声には悲しみが滲んでいた。二人の手の間に淡い青色を帯びた水の糸が姿を現す。薬指同士を繋いでいた蝶々結びは流れるようにするりと解けた。

 あまりにあっけなく時雨と自分を関係づけていたものの名前がなくなっていくのを見て、澄花は強く奥歯を食いしばった。泣きたくない。時雨に最後に見せるのは笑顔が良かった。

 時雨は澄花との婚姻関係を解消するための祝詞を唱えると、言葉を続けていく。それは時雨の眷属となった澄花を解き放つためのものだった。

「――我の守護の下に生きる者よ、今ここに解き放たれ、自由になれ。汝が行く末に常に水の加護があらんことを我は希わん。生命が巡りて、汝がこの水に還るその日まで我は汝の幸福を祈らん――」

 澄花の身体を包んでいた水の膜が光り輝き始める。すうっと澄花の額に浮かんだ水色の紋が水の中に溶けて消えていく。これで完全に時雨との繋がりは絶たれてしまうのだと澄花は思った。

 時雨の目が澄花を見た。痛みを堪えるように時雨は言った。

「――澄花。君はもう長くはここにはいられない。私は君を元いた時代――二〇二五年に帰そうと思う。どうか、幸せに健やかに生きてくれ」

「え……」

 元いた時代。それは澄花が陰口を叩かれ、後ろ指を差されていたあの時代だった。時雨と離れ、そんな苦痛の中で再び生きねばならないのか。

「よく聞いてほしい。もう君を苦しめていた力はない。君がどこで何をしようと、君のせいで雨が降ることはないんだ。顔を上げてこの先を生きてほしい。――君の人生はまだ長いのだから」

 雨催あまもよいの巫女の力は失われた。時雨のものとなったのだ。澄花はもうびくびくする必要はない。澄花はゆっくりと頷いた。微笑んで見せたつもりだったが、上手くできたかわからない。――頬を撫でていったのは自分の涙だったのか、宙を舞う水泡だったのか。

「――我、水を治めし者。雨夜に隠れし、星の路をここへ開け。大地の記憶よ蘇れ、古の時をここに繋ぎ給え」

 時雨は祝詞を唱える。真っ暗だった空から白銀の道が伸び、中庭の祠へと繋がる。雨雲に覆われてしまっていた天の川だった。

「――七月七日。これは今日この日にしか起こせない奇跡だ。たとえ違う時を生きていたとしても、私はいつでも君を想っている」

 澄花、と時雨が名を呼んだ。澄花もまた、彼の名を呼んだ。――今日この時をもって会えなくなってしまう、誰よりも愛しい人の名を。

 澄花の唇が一瞬、時雨のそれに触れた。澄花から彼に口付けをするのはそれが初めてだった。

 唇が、指が離れていく。大好きな人の温もりが離れていく。

 ずっとあなたのことを想っています。澄花はそう言って笑みを浮かべた。下手くそだけれど精一杯の笑顔だった。

 澄花は白銀の道へと足を踏み入れた。星の道の先を目指して、澄花は一歩、また一歩とまっすぐに歩いていく。彼女はもう振り返らなかった。――別れを受け入れてくれた彼の想いを踏み躙りたくなくて。

 足を進めるたび、意識の境目がだんだんと曖昧になっていく。川が流れる音がやけに大きく聞こえる。やがて、澄花はせせらぐ川の音へと己の意識を託した。――優しくて不器用なあの人が、今泣いていないといいと願いながら。

 遠くで川の流れる音が聴覚を満たしていた。あの人の声みたいだ。そう思いながら澄花は目を開ける。

 時雨と別れたときの姿のまま、澄花は岩停(いわぬみ)橋の上に倒れていた。そこはあの日、澄花が身を投げたのと寸分違わぬ場所だった。

 どこかで蝉が鳴く声がする。自分は帰ってきたのだろうか。二〇二五年に。

 視界の端で赤い光がちらついた。川沿いの道を赤い光がくるくると回りながら近づいてくる。

 キィ、と車が路肩に停まる音がした。間髪を容れずにバタン、と車のドアが開く。その音を澄花は人ごとのようにぼんやりと聞いていた。

 宵闇の下、複数の足音がこちらに近づいてくる。紺色の帽子に青いワイシャツ。帽子と同じ色のベストとズボン。男女二人組の警察官だった。

「大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」

 女性の警察官は澄花の姿を認めると、膝を折って話しかけてきた。澄花は首を横に振る。時雨に贈ってもらった着物は濡れそぼっているが、どこにも怪我はない。

 彼女の連れの警官は澄花の顔を見ると、「もしかすると……」何事か囁いていた。女性の警察官の目が見開かれる。

「すみません、お名前とご年齢をお伺いしてもいいですか?」

「雨霧、澄花……十八歳です……」

 消え入りそうな声で澄花がそう告げると、男性警官が無線でどこかへと連絡をし始める。

「こちら地域課、松本。岩停(いわぬみ)橋にて行方不明届の対象と思しき女性を発見、保護します。――どうぞ」

 無線の向こう側から慌ただしく指示を飛ばす割れた男の声が聞こえてきた。それを聞きながら、澄花は戻ってきたのだと実感し始めていた。

「あなた、今日が何月何日かわかる?」

 女性警官の問いに、澄花はいいえと答えた。

「今日は二〇二五年七月七日。あなた、一ヶ月半以上も行方不明になっていたのよ」

「七月七日……」

 澄花は雲ひとつない夜空を見上げる。天の川を跨ぐようにして、三つの星が三角形を描いていた。

 このままでは冷えるわね、と女性警官は澄花に手を差し出し、立ち上がらせた。彼女は澄花をパトカーへと連れていくと、バスタオルを渡した。

 バスタオルに包まりながら、澄花は車内に流れる無線を聞いていた。素肌に張り付く肌襦袢の内側の翡翠の感触が、時雨と過ごした日々が夢ではないことを物語っていた。

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