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第二章:雨待つ凪に芽吹くものは②

Penulis: 七森香歌
last update Tanggal publikasi: 2026-08-17 16:29:46

 澄花が時雨の屋敷で暮らすようになってから、しばらくが経った。最初は戸惑っていた着物や身を包む水の感触にも、日々を過ごすうちにだんだんと慣れてきていた。

 暦の上では五月が終わり、六月に入っていた。穏やかにすぎていく川の中の世界ではそんな現実すらどこか遠い。けれど、凪いだ水面のように優しいこの場所では、いくらか息がしやすいように思えた。十八年間生きてきた地上の世界のほうが悪い夢であったかのようだった。

 水鞠をはじめとして、身の回りの世話をしてくれる水の精霊たちは皆一様に自分に優しい。漣は澄花に対して厳しい態度を崩さないでいたが、それでも、自分を傷つけようとしたりはしない。

 そんな日々の中で唯一、澄花が辟易していたのが、先日の茉莉花にはじまる時雨の贈り物攻撃だった。清流を切り取って固めたかのような琥珀糖。上流域の湧水から作られた化粧水。水と花の香りが混ざり合ったアロマキャンドル。屋敷の庭を閉じ込めたようなハーバリウム。透明な蓮が咲く淡い水色の江戸切子の茶器。身の回りに不自由がないかと案じる、流水のように麗しい文字で書かれた手紙が届けられたこともあった。

 時雨に返事を書きたいと水鞠に相談すると、翌朝には揺れる水面を模ったガラスの万年筆が部屋に届けられた。澄花が気分に応じて使い分けられるようにと、全四十八色の藍色のインクセットも一緒だ。

 朝食の後、澄花は自室に戻ると文机に向かっていた。時雨にはとても良くしてもらっている。ただその感謝を伝えたいだけなのに、上手く言葉がまとまらない。

 うーん、うーんと知らず知らずの間に澄花が唸っていると、そばに控えていた水鞠がくすりと笑った。

「澄花様。少々気分転換に、お庭でも見に参りませんか。紫陽花が見頃を迎えていますよ」

 このまま行き詰まっていても、一文字たりとも自分の気持ちを便箋に落とせそうにない。行きます、と返事をすると、澄花は白藍の着物の裾を捌いて立ち上がった。足元に纏わりつく水がふわりと動く。

 それでは行きましょうかと水鞠は障子を開けると、澄花を誘って廊下を歩き出した。澄花は小柄な水鞠の背を追いかける。澄花が歩を進めるたびに聴覚を満たすせせらぎの音が大きくなっていく。包み込むような苔の湿った青い匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。床板には波紋のような影が淡く映っている。

 廊下の角を曲がり、連れてこられた先は立派な縁側だった。柔らかな色の苔に包まれた築山のそばには青々とした若葉を生い茂らせた楓の木が静かに佇んでいる。その根本では白百合が清楚な花びらを揺らしていた。竹垣の前では立派な紫陽花が青から紫への幻想的なグラデーションを描いている。それらを宝石のように彩っているのは生まれたばかりの瑞々しい雫だった。

「わあ、綺麗……!」

「よろしければ、お近くで見てくださっても構いませんよ」

 水鞠は沓脱石くつぬぎいしに薄紫の鼻緒の下駄を置く。ありがとうございますと礼を述べると、澄花は下駄にそっと足を通した。

 じゃり、じゃり、と玉砂利を踏みながら澄花は庭を歩く。頭上では太陽の光を受けてきらきらと輝く川面が幾重にも波紋を描いている。宙を漂う水の泡はその身の内にシャボン玉のような虹色を封じ込めていた。

 静謐を形にしたような屋敷の庭は、澄花にとってとても心地が良かった。ともすれば堅苦しく見えるが、穏やかな時雨の性格が端々から垣間見えた。

「……あれ?」

 庭の端に小さな石の祠があった。中には丸く削られたつるつるとした石が安置されている。

 澄花は祠の前でしゃがみ込むと、そっと石に手を伸ばした。石からはなぜか微かにペトリコールの香りがしていた。石の表面はひんやりとしているのにどこか暖かい。以前に微かに触れ合った時雨の手の温もりによく似ていると澄花は思った。

 その瞬間、水底にぴしりと罅が走ったかのように、周囲の流れが止まったような気がした。水に包まれた初夏の庭が一瞬にして、氷に閉ざされてしまったかのように感じられた。

「――澄花様」

 低い声で名前を呼ばれ、澄花ははっとして石から手を離す。振り返ると、険しい表情を浮かべた水鞠がそこに立っていた。

「それは、時雨様の神力の源――御霊石ごりょうせきです。そして、この祠はこの屋敷と地上を結ぶ道です。儀式以外では軽々しく近づかれませんよう」

「ごめんなさい……わたし、知らなくて……」

 声が震えた。指先にはまだ石の温もりが生々しく残っている。

 いえ、と水鞠は首を横に振る。その声からは今し方の張り詰めた空気は消えていた。

「澄花様にはもっと早くにご説明すべきでした。これは私たち、時雨様の眷属にとってとても大切なもの。決して失われてはならないものなのです。この石に何かあれば――時雨様は消えてしまわれる」

「消え、て……?」

 澄花は絶句する。そのような大切なものに軽々しく触れてしまった自分の軽率さが呪わしかった。

「近年の日照りによる水不足に対応すべく、尽力された結果、時雨様は神力のほとんどを失ってしまわれました。水神の力の大きさは御霊石ごりょうせきの大きさに比例します。昔は大岩ほどもあった時雨様の御霊石ごりょうせきも今はこれほどの大きさとなってしまわれました」

「あ……」

 自分が初めてこの屋敷に連れて来られたときに、漣が青筋を立てて時雨に迫ってきた理由がようやく分かった気がした。きっと、時雨は残り少ない神力を使って、澄花を眷属とし、夫婦としての契約を結んだ。漣は時雨の身を案じていたのだ。

 それなのに、自分はこの屋敷に来てから何をしていたのだろう。時雨から与えられるものを享受するばかりで、自分から何かしようとはしていなかった。

 自分が雨催あまもよいの巫女だという話は聞いた。そして、その力を時雨が欲しているということもわかっている。けれど、そのために自分が何をするべきなのか、何も分かってはいなかった。

(せめて、応えないと。時雨様に与えてもらった気持ちには――)

 時雨は澄花のことを知ろうとしてくれた。契約の関係でしかないにもかかわらずだ。ならば、自分もそうすべきだ。否、そうしたいと思った。

 時雨様の好まれるお茶は? 好きな着物の色は? 好きな香は? そんな些細なことでいい。少しずつ彼を知っていこうと思った。

 あれだけ悩んでいた手紙の書き出しに光明が見えた気がした。大丈夫だ。何を書いたって時雨はきっと手紙を受け取ってくれる。

 澄花は祠の前から腰を上げた。祠の脇では水の玉を纏わり付かせたツユクサが小さな青い花びらを水中に泳がせている。

 水脈みおが流れを変え始めたことを今の澄花はまだ知らなかった。――緩流のような日々がやがて己を翻弄する奔流と姿を変えることも。

 白い漆喰壁で覆われた蔵の中、二人の若い男性が密談を交わしていた。黒い瓦屋根と分厚い観音開きの扉が秘密をこの場に閉じ込めている。薄暗い空間にふわふわと舞う水泡が辺りをほのかに照らしている。

「――時雨様。もう六月に入ったというのに、沖縄や奄美ですら梅雨入りしていないと聞きます」

 漣は空中に指を走らせると、今後一か月の天気予報を描いた。水が半透明に染まり、三十個の太陽が浮かび上がる。

 そうだな、と時雨は頷く。彼の静かな声が薄闇の中にぽつりと波紋を落とした。ひんやりとして薄暗い蔵の棚には古い書物が所狭しと詰め込まれ、祭具が鈍い光を放っている。

 漣が言っていることは事実だった。そろそろこの辺りの地域も梅雨入りしてもおかしくない時期なのに、沖縄や奄美ですら梅雨入りをする様子はない。というか、天気図上に梅雨前線がそもそも存在していない。水神である時雨にとって頭の痛い話だった。

 猛川たけりがわの水神である時雨にはこの国全体の気候をどうこうすることはできない。それでもせめて自分の領域下である水域の生命くらいは守りたかった。

「明日、六月五日は大安です。雨乞いの儀式を執り行なうには最適な日かと」

「それはそうだが……」

 澄花が時雨の妻としてこの屋敷に来て約二週間。時雨は彼女に何不自由ない生活を与えてきた。彼女と契約を交わした経緯を思えば、そろそろ彼女にその勤めを果たしてもらうべきだ。

 気乗りしない顔ですね、と漣は溜息をつく。この地に雨を降らせなければ、夏が来るころには干上がってしまう。どうにかして、時雨をその気にする必要があった。

「何を躊躇うことがありますか。まさか、儀式に支障があるほど、あの娘が好みではないとか」

「そうではない。澄花は愛らしい娘だ。それに契約とはいえ、まったく好みでもない娘に結婚を申し込むほど、私はまだ落ちぶれてはいない」

 ふうむ、と漣は唸った。毎日のように時雨は澄花に贈り物攻撃を続けていたが、彼女をここに繋ぎ止めておく以上の意味があったとは。

 ただ、と時雨は言いづらそうに眉尻を下げるともごもごと口を動かす。はあ、と漣は再び溜息をつく。

「時雨様……まさかとは思いますが、儀式での接吻が恥ずかしいとか仰いませんよね?」

「私が、ではない。澄花が恥ずかしがったり嫌がったりするのではないかと懸念している」

 「今時、初めての接吻くらい、小学生でも経験しているそうですよ。ましてや、澄花様はもう高校三年生。統計によれば、それ以上の経験をしていてもおかしくはないご年齢――」

「漣。それ以上は聞きたくない」

 やめてくれ、と時雨は漣を制する。水の揺らぎはわかりやすく時雨の動揺を示していた。

 やれやれと漣はチャコールグレーのスーツの肩を小さくすくめた。先ほどまで天気予報が表示されていた空間では十代の男女の恋愛経験をまとめた半透明のグラフが背比べをしている。

 なんとなく、澄花に過去に他の男がいたかもしれないなんて話は聞きたくなかった。自分の妻は自分しか知らない自分だけのものであってほしかった。

(……らしくないな。一人の人間に入れ込むなど。私は水神――万物を愛し、恵みをもたらす神だ)

 澄花一人に心を砕くなどらしくない。そもそも彼女が自分に対してどのような感情を抱いているかもわからないのだ。

「漣。急な話で悪いが、先ほどの日程で儀式の準備を進めてくれ」

「承知いたしました。澄花様へのご説明はどうなさりますか?」

「私がする。それがせめてもの夫としての務めだろう」

 左様でございますか、と漣は恭しく頭を下げる。二人の間にはほんのりと黴の匂いが混ざった紙と墨の香りが漂っている。

 これとこれと、あとはこれと――時雨は澄花に儀式の説明をするべく、書物を手に取り始めた。

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