LOGIN「――その話、私にも聞かせてもらおうか」
玉砂利を踏む音と共に低い声が響いた。いつもは穏やかで優しい声も今は荒れた川のような激しさを内包している。 「時雨様……」 澄花はその人の名を呼ぶ。しかし、時雨は水鞠を伴って澄花の前を通り過ぎ、祠へと向かう。 「――閉じよ、一夜の夢を繋ぎし路。世界のあわいは閉じられ、別々の夢を見るだろう。水を司る者の名の元に、幸せな夢が訪れんことを祈らん」 時雨は低い声でそう唱えた。祠の(時雨様、今日お食事の時間にいらっしゃらなかったな……)
格子状に組まれた天井を見上げながら、澄花はそんなことを思った。いつの間にかこの天井にも見慣れたものだ。 時雨は体調が悪いので、自室で食事を摂るとのことだった。朝餉だけでなく、昼餉も夕餉もそうだった。 せめて、食事の手伝いができたらと時雨の部屋に行こうとしたが、水鞠たちに止められてしまった。誰に理由を聞いても口を噤むばかりだった。時雨はああ言ってくれたが、本当は顔を合わせたくないくらい怒っているのではないだろうか。 自分が時雨のためにできるのは一体なんだろうか。また、(久しぶりだな……) 駅の階段を上り、地上に出ると澄花はそっと息を吐いた。目の前の幹線道路を車が行き交い、歩行者用信号が点滅している。 小さなスーパー。オレンジ色の看板が煌々と光るビジネスホテル。大きいトラックの停まるコンビニ。 スーパーの隣にあったはずの美容室はいつの間にか姿を消し、カフェへと変わっていた。そんな些細なことからも時の流れを感じる。 澄花は大学進学に伴い、地元を離れた。そして、そのまま地方で就職したため、こうしてこの辺りに帰ってくるのは久しぶりだ。 (この前来たときは秋だったっけ……リオンが亡くなったとき……) 今は七月。早めの夏季休暇を取って、澄花は九ヶ月ぶりに実家へと帰ってきていた。 もわっと湿気を帯びた風が澄花の肌を撫でる。夜になっても残る夏の暑さを感じながら、澄花は横断歩道を渡った。 宵闇に浮かび上がる看板に吸い込まれるようにして、澄花の足はコンビニへと向かった。コンビニの店内に足を踏み入れると、流行歌のBGMと空調の冷気が澄花を迎え入れた。うっすらと肌に滲んでいた汗が引いていくのを感じる。 なんとはなしに店内を歩き回るうちに、澄花の視界にとあるゴンドラが飛び込んできた。棚には河川敷で遊ぶ客向けに手持ち花火のセットが陳列されていた。 (懐かしいな……) 花火セットの中の線香花火を見ながら、澄花はあの日のことを思い起こす。――時雨と過ごした最後の夜を。 あの日見た線香花火の神秘的な青色が今でも脳裏に鮮やかに浮かぶ。煤の匂いも、時雨の着物の香も、寄せ合った肩のぬくもりも、昨日のことのようにありありと思い出せる。 あれから十五年が経った。いつの間にか、時雨と過ごしたあの時代に年齢が追いついていた。あのころは少女だった澄花も、今や三十三歳の大人の女性となっていた。 時雨と離れてからも、彼を愛する想いは変わらなかった。地元を離れてから、大学の同級生や同僚から言い寄られることはあったが、澄花は時雨への想いを貫き続けていた。どうしても、誰かを時雨よりも好きになることができなかった。――あの短い恋は、澄花にとって最初で最後の恋だった。 両親には申し訳ないが、自分は一生このまま一人なのだろうと思う。けれど、今の自分は独りではない。あの日々の思い出が澄花のことを支えてくれていた。 行ってみようか。ふい
ぴちょん、ぴちょんと水面を水滴が跳ね、波紋が広がっていく。雲で覆われた空が泣いていた。催涙雨が別たれた恋人たちの年に一度の逢瀬を阻んでいた。 (雨、か……) 今朝、時雨から贈られた着物に袖を通した澄花は下駄を履きながらそんなことを思う。かつてはあんなに憎んだ雨も、今となっては愛しいあの人の囁き声のようだ。 もうこれからは絶対に引き返せない。引き返してはならないのだ。澄花は己にそう言い聞かせると、玉砂利を鳴らし、御霊石の祀られている祠へと向けて中庭を横切っていく。 祠の前にはこの屋敷に住まう面々が勢揃いしていた。お待たせして申し訳ありません、と澄花が声をかけると時雨がこちらを振り返って口元を綻ばせた。 「――澄花。着てくれたんだな。今までに見た中で――一番綺麗だ」 華やかな着物に少し気後れしていた澄花はありがとうございます、とはにかんだ。二人は視線が交錯すると頷きあう。――それは二人にとってのさよならの合図だった。 「さて、澄花。儀式を始めよう。――私と君にとっての最後の儀式を」 「はい……時雨様」 澄花は漣と何回も確認を繰り返した通り、御霊石へと手を翳した。そして、今日この日まで頭に刻み込み続けた祝詞を誦じ始めた。 「――吾は雨に愛されし巫女、この地に恵みをもたらす存在なり。この地を守りし水の神よ、吾が手を取り、渇いた大地を潤す力を受け取り給え」 澄花の横に並び立つと、時雨も御霊石へと手を翳す。かすかに手と手が触れ合った。澄花の声に時雨の言葉が重なっていく。 「――愛しき巫女よ、清き祈りのすべてを我へ。その力の全てを以て、我はこの地を守り、水の恵みをもたらすことを誓わん」 「この力は清流のごとく、汝の身を満たすだろう。この地に繁栄が千歳(ちとせ)の間、齎されることを吾は希う。次の千年、その次の千年を水の恵みがこの地を守ることを夢見んとす」 「我に力を、この地に恵みを。汝の祈りは力となり、我の中に満ちるだろう。水を司る者の名において、この地を雨で守ることを誓わん」 二人は唇を交わし合った。雨催いの巫女と水神の間で一つの契約が成る。 御霊石が青く輝き始めた。それは澄花が見たことがないほどに眩い光を放っていた。 澄花の中を何かが走り
「――澄花、少々いいかしら?」 時雨との時間を過ごした後、澄花が自室に戻ろうとしていると、幼い少女の声に呼び止められた。振り返ると、そこには紅雨が立っていた。 「紅雨様? どうなさいましたか?」 「ねえ、澄花……あなた、本当に納得しているの?」 紅雨の透き通った空色の双眸がまっすぐに澄花を見上げた。澄花は悲しげに笑うと、紅雨の目を見返した。 「どれだけ考えても、これ以外手段がなかったんです。時雨様が幸せに健やかに生きてくれるなら……そのことを信じられるなら、わたしはお側にいられなくなっても構いません」 雨催いの巫女の力をすべて時雨の御霊石に注ぎ込み、婚姻関係も眷属としての契約もすべて解除する――それが澄花の出した結論だった。 時雨の眷属ですらなくなれば、もう澄花は川の世界では生きられない。そのことは理解していた。それでも時雨が一分一秒でも長く生きてくれるのなら、それで構わない。澄花はそう思っていた。 「だとしても澄花、あなたの心はどうなるんですの? 人とは脆いもの。お兄様と離れて、あなたは幸せに生きていけるんですの?」 「――紅雨様。時雨様の幸せがわたしの幸せです。だから、大丈夫です」 「澄花……ごめんなさい。わたくしがあなたにそんな顔をさせてしまっているんですわよね。わたくしが水神として覚醒していれば、あなたにそんな辛い思いを強いることもなかった……」 「紅雨様のせいじゃありません。これはわたしが……わたしの意志で決めたことです」 「本当に……いいんですのね? 後悔しない?」 しません、と紅雨の問いに澄花は首を横に振った。泣いた跡の残る彼女の黒瞳には、悲しみ、淋しさ、切なさ、痛み――それらが渦を巻いていたが、その中に確かな決意が宿っていた。 「時雨様がこの世からいなくなってしまうほうが、わたしは嫌です。そのほうがわたしは後悔します。時雨様さえ幸せでいてくれるなら、わたしはきっと生きていけます」 澄花は言葉を切る。自分が選んだことは間違いじゃない。そう信じたかった。 「時雨様にはたくさんのものをもらいました。誰かを好きになる気持ちも、心をこめた贈り物も、かけがえのない思い出も」 澄花は肌襦袢の内側から翡
胡麻豆腐に蕪のすり流し。お造り風にした湯葉に白味噌仕立ての茄子田楽。冬瓜の含め煮にほうれん草の胡麻和え。梅粥に、水菓子には時雨が好む葛切りの糖蜜がけを用意してある。 早朝に起き出した澄花は、秋水に相談して時雨のための朝餉を作らせてもらった。食欲の落ちている時雨でも食べやすく、なおかつ彼が好む献立にまとめた。 「澄花様、上出来です」 「いえ、秋水さんのおかげですよ。わたし一人じゃ間に合わなくって秋水さんにもたくさん手伝っていただきましたし」 「それでも、澄花様が作られたということが大切です。澄花様がお作りになったお食事ともなれば、時雨様も召し上がってくれるかもしれませんし」 厨房を主に取り仕切る秋水は日に日に時雨の食が細くなっていくことに頭を悩ませていた。そんな彼女に昨日の夕餉の後、澄花は声をかけた。――わたしが作ってみてもいいですか、と。 時雨の身体のことを考え、二人は翌朝の食事に何を作るか話し合った。そして、澄花は午前三時に起き出して、厨房に火を入れたのだった。 ごろごろと重たい戸車が鳴り、雨戸が戸袋へと収まっていく音が響く。廊下をぱたぱたと足音が行き交う。一日が始まった音だった。 「それでは秋水さん、わたし、時雨様の部屋に行ってきますね。本当にありがとうございました。後片付けお任せしてしまってすみません」 澄花が頭を下げると、早く行ってらしてくださいと秋水は微笑んだ。澄花はずっしりと重い盆を持つと、厨房を出る。藍色の暖簾が揺れる。 座敷を通り過ぎようとすると、紅雨が朝餉を摂っていた。彼女は箸を止めると、おはよう、と空色の目を細めた。 「おはようございます、紅雨様」 「澄花。先ほど秋水から聞いたけれど、お兄様のために朝餉を拵えてくださったそうですわね。特にその胡麻豆腐が美味しそうですわ。お兄様は幸せ者ね」 「お褒めいただいて嬉しいです。胡麻豆腐でしたら、まだ少し残っていたはずなので、よろしかったら召し上がってください」 「ありがとう、澄花。……っと、こんなところで呼び止めてしまって申し訳なかったわね。早くお兄様のところに行って差し上げて。今ごろ首を長くして待っていらっしゃるはずですわ。―
秋水が朝餉の盆を下げに来たのと入れ替わりで誰かが訪ねてきたのに気付き、漣は背後を振り返った。障子に映る小柄な影は時雨のものではない。漣は誰何を問うた。 「わたし……澄花です。漣さんに聞きたいことがあって来ました」 どうしたものかと漣は逡巡する。謹慎中だというのに、あまり勝手なことをしては更に時雨や紅雨の怒りを買ってしまいそうだった。 「また後日にしていただけませんか。澄花様もご存知の通り、私は謹慎中の身なので」 「わかっています。けれど、他ならない時雨様のことなんです。取り返しのつかないことになる前にどうにかしないと……」 澄花の声は切羽詰まっている。先ほど、秋水からも時雨が伏せっているということは聞いていた。 漣の顔に苦いものが浮かぶ。時雨を守るために力を貸せと先に澄花に迫ったのは自分だ。よもや、同じことを澄花にされ返すとは。自分は澄花を侮っていたのかもしれない。 「わかりました。それでは五分だけですが、時間をとりましょう」 ありがとうございます、と礼を言うと澄花は漣の部屋に足を踏み入れる。床の間には大太刀が飾られており、風雅な雰囲気の時雨の部屋との違いが感じられた。 澄花は畳に膝をつくと、抱えていた書物を置いた。彼女の目元には黒々とした隈ができている。 「眠れなかった……というわけではなさそうですね。ご用件はそれですか」 「はい。わたし、一昨日の夜に漣さんが仰っておられたことを思い出して……わたしなりに調べてみたんです」 ――雨催いの巫女の力をすべて時雨様の御霊石に注ぎ、婚姻関係も眷属の契約もすべて解消して時雨様の元を離れるか。 一昨日の一件で、自分が時雨の御霊石に働きかけることができるのはわかっている。ならば、あとは自分の雨催いの巫女の力をどう扱うかだ。時雨の弱り方を考えると、慎重にならざるを得ない。失敗するわけにはいかなかった。 「ふむ、雨催いの巫女についての書物ですか……そして、こちらは歴代の水神について……」 漣は澄花が持ってきた書物に目を通す。しかし、これでは足りない。 「正直、これでは情報不足感が否めませんね。今から言う内容の書物を蔵から探して持ってきてください」 これとこれと
「――その話、私にも聞かせてもらおうか」 玉砂利を踏む音と共に低い声が響いた。いつもは穏やかで優しい声も今は荒れた川のような激しさを内包している。 「時雨様……」 澄花はその人の名を呼ぶ。しかし、時雨は水鞠を伴って澄花の前を通り過ぎ、祠へと向かう。 「――閉じよ、一夜の夢を繋ぎし路。世界のあわいは閉じられ、別々の夢を見るだろう。水を司る者の名の元に、幸せな夢が訪れんことを祈らん」 時雨は低い声でそう唱えた。祠の御霊石から青い光がすうっと消えていく。あたりには宙を舞う水泡と蛍の光が舞うばかりだった。 ふいに時雨の身体が傾いだ。咄嗟に澄花は時雨の身体を支えようとする。大丈夫だ、と時雨は澄花の手を払った。 「お兄様、場所を移しましょう。どうやら、漣からも澄花からも話を聞かないといけないようですから」 紅雨の言葉にそうだな、と時雨は頷いた。中庭に集まっていた面々は中庭を横切り、沓脱石で下駄を脱ぐと、時雨の部屋へと向かった。 時雨の部屋に着くと、水鞠は四人分の座布団を用意した。時雨は上座のそれに腰を下ろすと、紅雨に澄花、漣に座るように言った。 「水鞠、すまなかったな。部屋に戻ってくれ」 「水霜も今日はもう部屋に戻ってちょうだい」 水神の兄妹にそう言われ、水鞠と水霜の二人は時雨の部屋を辞した。二人とも、今宵一体何が起きていたのかと思うと眠れそうになかった。 「――さて、お兄様。わたくしの部屋で待っているように言ったのに、そんなこともできないなんて犬以下なんですの? いえ、お兄様のお説教は後にいたしましょう。 ――漣。何があったのかを洗いざらい吐いてもらいますわよ」 一瞬向けられた矛先に時雨はびくりとする。しかし、今はそんな場合ではないと咳払いをして居住いを正すと、漣へと厳しい視線を向ける。 「――漣、何があった? 澄花に何をさせた?」 怒りを孕んだ二対の双眸が漣に向けられる。わたしがいけないんです、と澄花は居た堪れなくなって口を開いた。 「わたし……時雨様のために何もできませんでした。時雨様のためだからと、漣さんに頼まれたのに……できなかったんです。――妹を殺せなかったんです」 「なっ……漣、あなた、自分が澄花に何をさせようとしたかわかってるんですの!? あなた、心がないんですの!







