雨女と水神の契約結婚

雨女と水神の契約結婚

last updateLast Updated : 2026-08-21
By:  七森香歌Completed
Language: Japanese
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 雨霧澄花は雨女だ。高校の修学旅行で澄花は沖縄に行くはずだったが、突然の台風に見舞われ、修学旅行は中止となってしまう。そのことについてクラスメイトたちから責め立てられた澄花は羽田空港を逃げ出し、地元の川へと身投げをしてしまう――

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序章:雨呼ぶ乙女は絶望の渦に散る
 激しい雨がアスファルトを叩きつけ、弾けるように雫が飛び散っていた。轟々と唸る風は吹き飛ばされそうなほどに強く、雨粒と共に澄花の頬を殴ってくる。  雨でびしょびしょに濡れたミントグリーンのキャリーケースを引きながら、澄花は歩く。この分ではもうキャリーの中の着替えも駄目になってしまっているかもしれない。 (……別にいいか。だって、もう必要ないもの……)  二〇二五年五月二十二日。今日は澄花の高校の修学旅行の日だった。しかし、例年よりも早い急な台風に見舞われ、楽しみにしていた沖縄行きは中止となってしまった。  ひりひりと痛む頬が雨に冷やされて心地よかった。朝、家を出たときは持っていたはずの傘は気がつけばどこかに行ってしまっている。  今朝、羽田空港で沖縄への飛行機の欠航が言い渡されたとき、皆が一様に澄花のことを見た。教師たちですら、またお前かと言いたげな冷ややかな目で澄花のことを見ていた。  修学旅行に行けなくなってがっかりしたのは澄花だって同じだ。だけど、またか、やっぱりか、と納得している自分もいた。  澄花はいわゆる雨女である。学校行事や家族旅行の度に雨を降らし、何もない日であっても澄花が少し家を出ただけで雨に見舞われることも日常茶飯事だった。  周囲もはじめは雨が降っても雨女がいるから仕方ないねと笑っていた。しかし、時を経て、その視線は憎しみへと変わっていった。 ――うわ、雨霧のせいでせっかくの社会科見学なのに雨かよ ――春の社会科見学も雨だったのにな ――なのに、マラソン大会とかだけはしっかり晴れなんだよな。どうせならそういうときに雨降らせろよ  今日だってそうだった。羽田空港第一ターミナルの出発ロビーで同級生たちは憎々しげな目で澄花を見ながらささめき交わした。 ――誰だよ裏切ったの。コイツ、体育倉庫に閉じ込めとくはずだっただろ ――おい、山本! お前そんなことしようとしてたのか! 明日、職員室に来い! 親御さんにも来てもらうぞ!  学年主任の加藤の怒声がロビーに響く。しかし、生徒たちは澄花への口撃をやめようとはしない。他の教師たちも顔を見合わせるばかりで、誰一人として制止の声を上げようとはしなかった。 ――でもぉ、カト先だってー、雨霧さんのせいで修学旅行中止になったって思ってないわけじゃないでしょぉ?
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章:夢の色は蝶々結びで縛れない①
(――ッ!?)  自室で文机に向かっていた時雨は、自分の領域が強力な何かに侵されたことに気づいて顔を上げた。その力の気配は時雨自身のものより遥かに強大だ。 「――漣」  混乱を気取らせない低く落ち着いた声で、時雨は自分の右腕の名を呼ぶ。彼の声と共に小さな泡がぷくぷくと宙を泳ぐ。床の間ではカキツバタが緩やかな水の流れを受けて揺れていた。 「失礼いたします」 障子が開き、チャコールグレーのスーツに白いスタンドカラーシャツを着た若い男が姿を見せた。その姿は淡く水の膜を帯びている。 「どうなさいましたか、時雨様。今しがたの件でしょうか」  よく切れる刃のように冷静な漣の言葉に、時雨はそうだと頷いた。彼は言葉にしなくても自分の意を汲んでくれて助かる。 「お前も感じたか、漣」 「はい。あれだけの強大な力ともあれば、時雨様の眷属であれば誰もが感じ取れるでしょう」  それもそうだな、と時雨は頷く。自分の眷属である水の精霊たちにはそのくらいの力はある。 「時雨様、あれをどうなさるおつもりですか。恐れながら、現在の時雨様ではあれだけの力の持ち主を祓うことは叶わないかと存じます」  わかっている、と時雨は立ち上がると浅葱色の絽着物の裾を糺した。漣に指摘されずとも、自分自身の無力さは時雨自身が一番よくわかっているつもりだった。 「あれが悪きモノとも限らない。私が見てくるから、漣はこの屋敷と紅雨のことを頼む」 「お待ちください、時雨様。そのくらいのこと、私にお任せくだされば……」  いや、と時雨は漣の言葉尻を制した。本来ならばそうすべきだということはわかっていた。だけど、今回ばかりは自分が行くべきだと時雨の直感が告げていた。 「――私が行く。行かなければならない気がするんだ」  ですが、と漣は食い下がろうとする。それ以上言ってくれるな、と時雨は首を横に振った。漣は時雨の意思を汲める分、気を回しすぎる嫌いがある。  すぐに戻る、と時雨は漣に背を向け、部屋を出ていった。時雨の薄藍の羽織の背中を見つめる漣はそれ以上、何も言わなかった。  時雨が障子を閉めた音が伝播して水を揺らす。遠ざかる時雨の足音が静かに響いていた。 時雨は沈んだ庭の石燈籠の間を抜け、早足で屋敷を出た。ちゃぽんと音を立て、頭上で水が揺れた。  何か
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章:夢の色は蝶々結びで縛れない②
 かこん、と鹿おどしの音が鳴った。庭の所々に配置された岩は優しい色の苔に彩られ、水中なのに緑の世界にいるようだった。一歩歩くごとに小さなあぶくがふわふわと立ち上ってくる。  鹿おどしの水が流れる先ではすっと伸びた茎の先にカキツバタが優美な紫色の花弁を揺らしている。月明かりが差し込んでくる水面は遥か頭上で、ここは本当に川の世界なのだと澄花に実感させた。  石燈籠の間の飛び石の上を時雨に手を引かれて澄花が連れてこられたのは、堂々とした佇まいの見事な屋敷だった。わあ、と澄花は思わず息を漏らす。  黒や燻銀の瓦が何層にも重なり合った重厚感溢れる瓦葺きの屋根。白い漆喰壁に黒茶に染め上げられた檜の柱。深い軒と庇が形作る陰影からは品格とこの屋敷が重ねてきた歴史の長さを感じさせた。  がらららっと玄関の格子戸が開き、チャコールグレーのスーツに身を包んだ若い男性が姿を現した。ちょうどいい、と時雨は男性へと視線を向ける。 「澄花。紹介しよう。あれは私の右腕で……」 「――時雨様!!」  時雨の言葉を語気鋭く遮ったのは漣だった。漣はつかつかと二人のそばへと歩み寄ってくると、開口一番に時雨を咎める言葉を口にした。 「時雨様、一体、どういうおつもりですか! また私に黙って眷属をお増やしになられましたね!」 「漣、落ち着いてくれ。彼女を助けるには私の眷属とする他なかったんだ」 「いえ、落ち着いてなどいられません! 見れば、出かけられた時と魂の有り様が変わられているご様子。それに、その娘は何なのですか!?」 「彼女は澄花。私の領域に入り込んだ者であり――雨催いの巫女だ。そして、私の妻でもある」  な、と漣は言葉を失って固まった。一方の澄花も二人の会話の間で飛び交う聞き覚えのない単語に戸惑いを隠せなかった。 「眷属……? 雨催いの巫女って……?」  はぁ、と漣は溜息をついた。己の主は穏やかで善良である一方、時々言葉足らずな嫌いがある。 「……時雨様。まさか、彼女に詳しいことを何も説明しておられないのですか……?」 「仕方がないだろう。あのまま放っておけば、澄花は死んでいた。それに出会ったばかりの傷ついた彼女に複雑な祭事の話をしたところで混乱するだけだろう?」 「時雨様。事情は理解しましたが、貴方は後でお説教です。心優しいのは美徳でいら
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第一章:夢の色は蝶々結びで縛れない③
 ほんわりと淡い光を放つ水泡が宙を漂いながら、廊下を照らしている。水鞠に先導され、澄花は雨戸の閉じた廊下を歩いていた。時折、板張りの床がキシキシと鳴る。 澄花の纏った着物の裾が僅かに水の抵抗を受け、足がいつもより重く感じられた。床の上に歩を進めるたび、水に逆らうような感覚がかすかに残る。 水鞠はある部屋の前に立つと、時雨様、と障子越しに声をかけた。「澄花様をお連れいたしました」 入りなさい、と低い男性の声が静かに返ってくる。失礼します、と澄花は障子を開ける。 文机に向かっていた男性が澄花を振り返った。時雨だった。青藍の双眸は穏やかに凪いだ夜の水底を想起させた。「待っていたよ、澄花。水鞠はもう下がりなさい。ご苦労だった」 それでは失礼いたします、と水鞠は一礼すると、時雨の部屋の障子を閉じて去っていった。 澄花は失礼にならない程度に、時雨の部屋へとそっと視線を巡らせる。 黒檀の床の間では、青磁の花瓶に庭に咲いていたカキツバタが活けられている。その後ろに飾られた掛け軸に描かれているのは龍だろうか。 イグサの優しい香りが立ち上る畳の縁は新橋色の観世水柄で彩られている。行燈の中では淡い光を纏った水泡がふわふわと泳いでいた。 床の間とは逆側の秘色色の漆喰の壁には飾り棚が設られている。飾り棚には青海波の意匠の藍鼠の香炉が置かれており煙を燻らせている。煙からは雨が降り出す寸前の香りがした。 桐の文机の上にはガラスの水盤が置かれている。しかし、そこには水がたたえられているだけで、花は活けられていない。代わりに水盤の底には時雨の屋敷を中心に、澄花にも見覚えのある地名がびっしりと書き連ねられていた。 座りなさい、と時雨は澄花に座布団を勧める。「失礼します」 澄花は一礼すると、座布団の横に膝をついた。慣れない着物の裾をどうにかして整えると、そっと身体を座布団の上へと移す。腰を下ろしたあと、澄花は背筋をすっと伸ばした。肩に感じる重さは着物によるものか、全身を包む水によるものか。――はたまた目の前の美しい水神から放たれる存在感によるものか。「――澄花。すまなかった。言葉が足りないと漣にこってり絞られたよ。君もこのままだとわからないことばかりだろう。きちんと順を追って話そう」「……お願いします」「まずは私が君を見つけたときのことだ。君は川底で気を失っていた。
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章:雨待つ凪に芽吹くものは①
 目を覚ますと、視界に飛び込んできたのは知らない天井だった。ぼやけた視界にほのかな光を放つ水泡が揺れている。  部屋を彩る調度品も見慣れないものばかりだ。ぼんやりとしていた意識の焦点があってくるにつれて、ここは水神である時雨の屋敷で、彼の妻である自分はここに住むことになったのだということを澄花は思い出す。  桜柄の透かし彫りが施された障子越しに朝の明るさが入り込んできている。昨夜、眠る前に外した白藤の簪が文机の上で光を反射して、柔らかく色を滲ませていた。呼吸に合わせて、かすかに揺れる光は穏やかな波のようで、ここが川底の世界であることを澄花に知らせている。  ふと、障子の向こう側に誰が立つ気配がした。澄花が身体を起こして、背後を振り返ると障子には小柄な人影が映っていた。 「澄花様、起きていらっしゃいますか? 水鞠です。朝のお支度に参りました」  はい、と澄花が返事をすると、すっと障子を開けて水鞠が入ってきた。その腕には灰色のセーラー服が抱えられている。 「おはようございます、澄花様。昨日お召しになっておられたお洋服は、昨晩のうちにお洗濯しておきましたので、箪笥にしまっておきますね」 「ありがとうございます」  水鞠は後手に障子を閉めると、桐箪笥のほうへ向かっていった。そして、彼女は箪笥の最下段の引き出しに澄花の制服をしまう。彼女の所作は流れる水のように滑らかで無駄がない。洗練された動きに、彼女もまた時雨の眷属であり、水の精霊なのだということを実感させられる。  引き出しを閉めると、水鞠は何段か上の引き出しから着物と帯を取り出した。萌木色(もえぎいろ)の着物には白と桃色の撫子が散りばめられており、非常に愛らしい。対する帯は涼やかな薄荷色で、華やかな印象の着物に涼やかさを加えていた。 「もういい加減、春物が着られる季節も終わりですからね。その前に一度、澄花様にこちらに袖を通していただきたかったんです。昨日のような清楚な出立ちもお似合いになりますが、このような華やかな着物もきっとお似合いになりますよ」  そんなことを言いながら、水鞠は澄花の着替えを進めていく。彼女は白地に空色の麻の葉模様の寝間着を脱がせると、肌襦袢の上から長襦袢と着物を着せていった。腰紐や伊達締めによって呼吸の自由を奪われていくのはまだ慣れない。うっ、と澄花の口から漏れた声が小さなあ
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章:雨待つ凪に芽吹くものは②
 澄花が時雨の屋敷で暮らすようになってから、しばらくが経った。最初は戸惑っていた着物や身を包む水の感触にも、日々を過ごすうちにだんだんと慣れてきていた。  暦の上では五月が終わり、六月に入っていた。穏やかにすぎていく川の中の世界ではそんな現実すらどこか遠い。けれど、凪いだ水面のように優しいこの場所では、いくらか息がしやすいように思えた。十八年間生きてきた地上の世界のほうが悪い夢であったかのようだった。  水鞠をはじめとして、身の回りの世話をしてくれる水の精霊たちは皆一様に自分に優しい。漣は澄花に対して厳しい態度を崩さないでいたが、それでも、自分を傷つけようとしたりはしない。  そんな日々の中で唯一、澄花が辟易していたのが、先日の茉莉花にはじまる時雨の贈り物攻撃だった。清流を切り取って固めたかのような琥珀糖。上流域の湧水から作られた化粧水。水と花の香りが混ざり合ったアロマキャンドル。屋敷の庭を閉じ込めたようなハーバリウム。透明な蓮が咲く淡い水色の江戸切子の茶器。身の回りに不自由がないかと案じる、流水のように麗しい文字で書かれた手紙が届けられたこともあった。  時雨に返事を書きたいと水鞠に相談すると、翌朝には揺れる水面を模ったガラスの万年筆が部屋に届けられた。澄花が気分に応じて使い分けられるようにと、全四十八色の藍色のインクセットも一緒だ。  朝食の後、澄花は自室に戻ると文机に向かっていた。時雨にはとても良くしてもらっている。ただその感謝を伝えたいだけなのに、上手く言葉がまとまらない。  うーん、うーんと知らず知らずの間に澄花が唸っていると、そばに控えていた水鞠がくすりと笑った。 「澄花様。少々気分転換に、お庭でも見に参りませんか。紫陽花が見頃を迎えていますよ」  このまま行き詰まっていても、一文字たりとも自分の気持ちを便箋に落とせそうにない。行きます、と返事をすると、澄花は白藍の着物の裾を捌いて立ち上がった。足元に纏わりつく水がふわりと動く。  それでは行きましょうかと水鞠は障子を開けると、澄花を誘って廊下を歩き出した。澄花は小柄な水鞠の背を追いかける。澄花が歩を進めるたびに聴覚を満たすせせらぎの音が大きくなっていく。包み込むような苔の湿った青い匂いが彼女の鼻腔をくすぐった。床板には波紋のような影が淡く映っている。  廊下の角を曲がり、連れてこら
last updateLast Updated : 2026-08-17
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第二章:雨待つ凪に芽吹くものは③
 青藤に浅縹。薄浅葱に薄花色。薄水色に楝色。朧花色に甕覗。雨の季節を思わせる色の奔流に澄花は目を奪われた。  いかがですかな、と反物を並べながら、殿茶色の紗着物に身を包んだ紺色の髪の中年の男はにこやかに澄花に尋ねた。  彼の名は天水。時雨が澄花のために墨江川の水神・翠雨の元から寄越してもらった仕立て屋だった。  こちらはいかがでしょう? こちらは? と澄花の脇に控えた水鞠は反物を手に取って澄花の身体にあてがっていく。水の浮力を受けた反物の端がはらりとたなびく。水鞠が手にした反物は素人目にも上等なものだと容易にわかった。 「水鞠さん、わたしにそのような着物はもったいないです。ただでさえ、箪笥の中にまだ袖を通していない着物もあるのに……」 「いえいえ、よろしいのですよ。澄花様がお気に召すものがあれば、何着でも仕立てて良いと仰ったのは時雨様なのですから。澄花様もご覧になってください」 「で、でも……」  なおも尻込みし続ける澄花に、天水は人好きのする笑顔を浮かべると、そうですぞ、と畳み掛けた。 「先代の樹雨様――時雨様のお父上には大恩ある身です。樹雨様がお亡くなりになられ、私は翠雨様の眷属となりましたが、それでも樹雨様への感謝は忘れてはおりませぬ。どうか樹雨様への恩を返すためにも時雨様の奥方である貴女の着物を仕立てさせていただけないじゃろうか。この天水にはそれくらいしかできないのです」  そう訴えかけられては澄花も強くは出られなかった。澄花はふと目に止まった薄花色の反物を手に取る。白や水色で染め抜かれた紫陽花の柄が可愛らしく、雨が降り出す前の空のようなくすんだ色も地味になりすぎない。 「ほう、それがお気に召しましたか」  天水は相好を崩す。それでしたら、と彼は柳行李の中から着物に合いそうな帯や小物を取り出した。 「このお着物でしたら、銀鼠の帯に藤色の帯締めなどいかがでしょう。洗練された雰囲気になりますぞ」  いえ、と水鞠は違う色の帯と帯締めを手に取る。 「澄花様でしたら、こちらの紅藤色の帯に山吹色の帯締めがお似合いになられるかと思います。澄花様のお可愛らしさが引き立ちますよ」 「いやいや、聞けば奥様は十八歳でいらっしゃるとのこと。お可愛
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第二章:雨待つ凪に芽吹くものは④
 庭の石灯篭の中を淡く発光する水泡がゆらゆらと泳いでいた。日はとうに暮れ、細く弧を描く月の白い光が水の世界に優しく降り注いでいる。  中庭の祠へ向かって歩く澄花の目は時雨に向けられていた。時雨の美しさは普段から圧倒されるほどのものであるが、今宵の美しさはそれを遥かに凌駕していた。澄花の視線は抗いようもなく彼に引き寄せられ、どうしても目が離せなかった。  その美しさに心がざわめき、胸の奥がひそかに締めつけられるような気配を感じる。痛いくらい心臓が鳴っていたが、ただ隣を歩く彼を見つめ続けることしかできなかった。言葉にできぬ想いが胸の奥で渦巻き、澄花は自らの動揺に戸惑いを覚えていた。 「どうかしたか、澄花。私の姿にどこかおかしなところがあっただろうか」 「いえ、ただ……時雨様がお美しくて……」  時雨は、水を織り成すかのような絹の着物に身を包んでいた。  羽織、着物、帯、袴――そのすべてが透けるほどの透明感と、とろけるような滑らかさを湛えている。  夜の水底を思わせる優しい青藍が羽織の肩を染め、白藍の帯へと柔らかくグラデーションを描いている。帯を境に袴は次第に色を深め、今宵の時雨の装いはまるで川底の風景を切り取ったかのようだった。  ぬばたまの髪は澄花と同じ水引で丁寧に結われている。顔には控えめな化粧が施され、なお一層の美しさを際立たせていた。 「そうか? いつもとそう変わらないが。澄花こそ、今日の装束もよく似合っているな。いつもは一輪のスミレのように愛らしいが、今日は冬空の下に咲く梅のように凛としている」 「そ、そんなことは……」  澄花は顔を赤らめる。衣装に着られているような気後れが拭えず、まさかこのように褒められるとは夢にも思わなかった。  いつもはおどおどと下を向いてばかりの自分が、凛としているなどと言われる日が来るとは思っていなかったのだ。  そんなことを話しているうちに二人は紫陽花が咲き誇る竹垣の前を通り過ぎた。そして、祠の前で足を止めると、時雨は祝詞を口にする。 「――我、水を治めし者。此の地を潤さんがため、あわいの境へ踏み入ることを希わん。祈りに応え、一夜の路を開け」  時雨が静かな声でそう唱えると、濃厚な水の気配が彼の腕に収束していった。時雨が祠の中の御霊石へと触れると、途端に溢れる水のように青く淡く
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面①
 雨乞いの儀式の日から数日が経った。水の底に沈んだ庭では半夏生の葉が白く色づき始め、静かに夏が忍び寄ってきていることを知らせていた。さらさらと流れる水の音に紛れるようにして、どこかで蛙が鳴いているのが聞こえてくる。  これからも時雨のそばにいたいと思ったあのときの気持ちは紛れもない自分の意志だ。しかし、唇を交わしたときのあの感触と抱きしめ合ったときのあの温もりがどうしても頭から消えてくれない。思い出すたびに顔が熱くなる。  それ以外にも、澄花には気掛かりがあった。あの儀式の翌日から、屋敷の中ですれ違っても何となく時雨の態度がよそよそしいのだ。毎日のように時雨から贈り物が来るのは相変わらずだが、添えられた手紙の内容はなんとなく歯切れが悪い。 (ああして雨は降ったけれど……まさか、儀式で何か失敗をしていた……?)  それくらいしか澄花には思い当たることがなかった。澄花は事前に知らされていた通り、儀式のはじめに時雨と唇の契りを交わした。それ以外は言われた通り、儀式の行く末を見守っていた。それ以外、澄花はなにもしなかったし、なにもできなかった。 「――今、よろしいかしら?」  澄花が悶々としていると、幼い少女の声が障子の向こう側からかけられた。いつの間にか強い水の気配が廊下から漂ってきていた。澄花が背後を振り返ると、声の持ち主とお付きの者と思われる二つの人影が桜の透かし彫りの入った障子に映っている。  澄花が訪いを拒む理由は特にない。ふるふると頭を振って煩悩を脳内から追い出すと、澄花はどうぞ、と返事をした。 「あら、紅雨様。どうかなさいましたか?」  澄花と同年代に見える付き人――水霜を伴って、澄花の部屋に入ってきた少女に、澄花のそばで控えていた水鞠は声をかける。紅雨は空色の目をきらきらと輝かせながらこう言った。 「水鞠、ごきげんよう。お兄様ってば、なかなかわたくしを澄花に会わせてくれようとしないんですもの。どんな方なのか気になって、つい押しかけてきてしまいましたわ!」  薄紅色から空色への大胆なグラデーションが美しい梅柄の着物。一足早い夏を感じさせる向日葵色の帯は少女の利発で明るい印象を引き立てている。兄と揃いのぬばたまの髪は切り揃えられ、白と黄色、薄青の紐で編まれた水切り細工の簪が添えられていた。  紅雨は時
last updateLast Updated : 2026-08-18
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第三章:ひとしずくの想い、揺らぐ水面②
 その日の夜、夕餉を終えた澄花が水鞠と共に自室に戻ると、水菓子が届けられていた。添えられた水玉模様の一筆箋には昼間の件を詫びる言葉と紅雨の名前が綴られている。 (かわいい……)  昼間に澄花が葛餅が好きだと言ったのを覚えていたらしい。ハート型に固められた葛餅はとても愛らしく、添えられた甘夏の蜜は今の季節らしく爽やかだ。  時雨は葛が好きなのだと紅雨は言っていた。時雨のために何か拵えてみては、とも。 (わたしに作れるかな……)  澄花の料理の腕はごくごく普通だ。普通の料理を作るのにさほど不自由することはないが、職人のような繊細な細工ができるかと言われると自信はない。  紅雨から送られてきた爽やかな味わいの葛餅に舌鼓を打ちながら、澄花は白藤色の壁を見つめる。視界ではふわふわと淡く光る水泡が宙を泳いでいる。  どうせなら心を込めて作りたい。時雨が喜んでくれるものを作りたい。  そんなことを考えていると、ふっと中庭の紫陽花が澄花の脳裏に閃いた。上品で静かなあの佇まいが澄花の頭の中で時雨のイメージと結びつく。  優しい青色はまるで自分を見つめる青藍の双眸のようだ。品のある紫色は時雨が好んで身につける着物を思い出させた。 (――よし)  葛餅の最後の一欠片を口の中に放り込むと、澄花は気合いを入れた。自分にできるかどうかはわからないが、厨房に行って秋水に相談してみよう。 「水鞠さん。わたし、厨房に行ってきますね。戻るまでに時間がかかるかもしれないので、先に休まれていてください」  澄花は薄花色の着物の裾を整えながら立ち上がると、部屋の隅に控えていた水鞠へと声をかける。彼女は深くは追及せずに、承知いたしましたと澄花を送り出した。 (水鞠さん……たぶん気づいてたよね)  時雨に手作りの贈り物をしたいなど、恥ずかしくて言い出せなかったが、厨房へ行くというあの一言で察しのいい彼女は気づいたはずだ。澄花は耳が熱くなるのを感じた。ぱち、と耳元で水の泡が弾ける。  雨戸の閉じた廊下を澄花は厨房に向かって歩いていく。ふわふわと舞う水泡が薄暗い廊下をぼんやりと照らしていた。「時雨様にお菓子を作られるんですか?」  お時間いいですか、と澄花におずおずと話しかけられた秋水は彼女にそう訊いた。どうし
last updateLast Updated : 2026-08-18
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